In the Flames of the Purgatory 68

 

   †

 

 扉のほうに近づく数秒の間にも、伝わってくる振動はどんどん強くなってきていた。『門』の向こう側にいる誰かさんの影響が、とうとうこちら側に及び始めたらしい。

 それをさして気にも留めずに扉のそばまで近づくと、扉はもともとそういう仕組みなのかひとりでに開き、向こう側の光景をその場に居合わせた者たちの前に開帳した。

 扉の向こうは魔術装置の設置されていた部屋よりもさらに広い空間で、こちらは先ほどの部屋とはうって変わって、縦穴に降りてくる前の上層部と似た自己発光する真っ白な石材で地面が舗装されている。壁はまるで型をとった様に綺麗に岩盤を刳り抜かれており、ホールチーズの様に直径に対してかなり高さの低い円筒状になっている。広間の中央部分だけがリングドーナツの穴の様に舗装されておらずに地面が剥き出しになっていた。

 相変わらず下級悪魔どもの姿は見えない――理由はまあ大体想像がついた。下級悪魔はある程度の精霊が周囲に存在しないと肉体を維持出来ない。上級悪魔が周囲の精霊を集め始めて周囲の大気魔力の密度が低下したために、肉体を維持出来なくなって消滅したのだろう。

 あるいは肉体が崩れる前に、自分で向こう側に戻ったのかもしれない。霊体は受肉によって肉体を得るとこちら側でも行動出来る様になるが、その反面霊体を肉体の内部に封入するために、肉体が完全に破壊されると霊体もそのまま死んでしまうから、そうなる前に肉体を棄てたのだ。

 そして広い空間の中央、そこだけが舗装されず地面が円形に剥き出しになった中心部。

 地面から三十フィート程度の高さに、黒い球体が浮いていた――否、それは正確には球体ではない。

 暗闇が凝り固まったかの様に、あるいは星空に穿たれた黒洞の様に、壁に穿たれた穴とはまるで異なるものだが、それは穴だ――わだかまった精霊の群れが凝集して造り上げた、霊界と物質世界を直接連結する空間のひずみ。

 床の上に描かれた光輝く円陣からまるで湧水の水源の様に精霊があふれ出し、そしてそのまま黒い穴に向かって吸い込まれていく。そして精霊が吸い上げられるに従って、徐々に、しかし目に見えて穴の直径が広がっていく。

「はは……これは、これは」

 苦笑気味の笑みを浮かべて、アルカードがぼやく。

「うそ……」

 虚空に穿たれた黒い穴を、そしてその真下の地面に焼き印の様に焼きつけられた円陣を魅入られた様に凝視しながら、セアラが震える声でそうつぶやきを漏らした。

 アルカードのほうはさほど危機感を持っていないらしいが、生身の人間でしかないセアラは危険をひしひしと感じているらしい。

 セアラが動揺するのも無理は無い。今なお広がりつつある『門』の真下の地面に刻まれたあの円陣シギル、あれは――

 先ほどから遺跡の構造物を揺るがしていた微振動は、すでに一般人なら立っているのも難しいほどの振動になりつつあった――轟音とともに広がった穴の中から巨大な影が飛び出し、同時にそれまで強制的に向こうに引き込まれていた精霊が、再び穴の中からあふれ出してくる。

 舗装を粉砕しながら地響きとともに降り立ったのは、眼前に聳え立っているのは、漆黒の獣毛に覆われた巨体の怪物だった。

 顔は嘴の合わせ目に犬の様な歯列が密生しているものの梟に似ており、しかし眼だけが人間のそれに酷似している。屋敷ほどもありそうな巨大な身体の前半分は狼の様な姿で、後ろ半分はまるで半人半蛇の怪物ラミアの様に蛇の体になっている――その蛇の尾は、この大空洞を三周してもまだ余りそうなほどに長い。

 そして嘴から吐き出す呼気は橙色の燃え盛る炎で、その炎の舌が触れた床の舗装や岩壁が可燃物でもないというのに燃え上がっていた。身体が触れた場所も次々と燃え上がり、高熱に晒されて舗装の石材や壁の岩がドロドロに熔けている。

 ゲヘナの火か――

 胸中でだけそうつぶやいて、グリーンウッドは小さく舌打ちを漏らした。

 顕現した上級悪魔の背後で、彼?が無理矢理拡げていた虚空の穴がどんどん小さくなっていく――あれが強引に集めていた精霊が散逸したために、現時点における順当な規模まで『門』のサイズが元に戻りつつあるのだ。

「久しぶりの物質界よ――」 怪物の発した声が大気を介して鼓膜を震わせると同時に、それとは別に脳裏にじかに響く――まるで風邪をこじらせたときの頭痛の様にガンガンと頭の中で反響する濁声に、グリーンウッドは小さく顔を顰めた。

「久方ぶりに人間の霊体を存分に喰らえるかと顔を出してみれば、こんな穴蔵の奥底とは。気温も低いし、居心地悪いことこの上ない」 誰にともなく独りごちてから、巨大な悪魔は長大な尻尾を一打ちした。猛烈な突風が吹き荒れ、同時に周囲が熱波に包まれる――とっさに防御結界を展開して直撃だけは防いだものの、周囲の舗装された床はドロドロに熔け、オレンジ色に赤熱しながら熔岩の様にたゆたっていた。

 それで一応の満足がいったのか、巨大な悪魔がまるで水溜りの水の様に前肢で熔岩を跳ね散らかしながらのしのしと歩き出す。

「まあ――よいわ。地上に出れば人里も――」

 こちらは魔力障壁で熱波を防いだアルカードが暑苦しげに適当に顔を手で煽ぎながら、まるで路傍の石の様に自分を視界にも入れぬままかたわらを通り過ぎていく巨大な悪魔を見遣って小さく嘆息し――

 ズシンという音とともにいきなり周囲の様相が一変した。火山の火口の様に熔融した床が、溶けて流れ落ちてきていた壁が瞬時に冷えて固まり、一気に周囲の気温が下がる。

 防御結界の表面をバチバチと叩くのは、瞬時に蒸発した石材が今度は急激に冷却されて固体化したものが降ってきたのだろう。

 おそらくアルカードのエレメンタル・フェノメノンだ――熱波の発生を抑えて、冷気だけを発生させたらしい。

 グリーンウッドが電磁場と重力異常を個別に発生させられるのと同様、あの吸血鬼もその気になれば冷気と熱波、どちらかだけを起こすことも出来るらしい。出来れば弟子に取ってじっくり教授してみたいところだ。つくづく惜しい素材ではある。

「……面白い真似をする」

 一歩肢を踏み替えるごとに空洞の地面を揺らしながら、巨大な悪魔がアルカードのほうに向き直る。

「暑いのも無視されるのも嫌いでね」 手にした魔具で肩を叩きながら、アルカードが肩越しに振り返って飄々と返答を返した。

「三千年前の世界には、貴様の様な者はおらなんだわ」

「それはそれは」 アルカードは体ごと悪魔のほうに向き直ると適当に肩をすくめて、

「なら今は帰って、あと一億年くらい先にもう一回来てみたらどうだ? もっと面白い奴がいるかもしれないぜ」

「ぬかせッ!」 完全にアルカードのほうに向き直った悪魔が長大な尻尾をのたくらせ、その先端が岩壁を削り取りながら吸血鬼へと肉薄する――アルカードは尻尾の先端から逃れて跳躍し、打擲を遣り過ごしてから再び同じ場所に降り立った。

「ぬ……」

「ふん」 吸血鬼が鼻で笑い――それでさらに激昂したのか、悪魔が嘴から炎を吐き出した。

「たかが人間食糧の変種風情が、分際もわきまえずに粋がりおって――このアモンの力、思い知るがいい!」

 ソロモン七十二柱の一体、ルシファーやベルゼバブと並び称される大悪魔・アモンは長大な尻尾で岩壁を撃ち据え、すさまじい轟咆をあげた。

 

   *

 

 すでに日はだいぶ高くなっている――雨があがってから一気に晴れてきたのはいいのだが、逆にかなり日差しがきつくなってきていた。

 別に晴れの日が嫌いなわけではない――洗濯物の乾きがいいのは素晴らしいことだと思う。ただ、生来の目の色素が薄いこともあって、まぶしいのが苦手なのだ――そのために晴れの日がさほど好きなわけでもない。無論、よく晴れた日に部屋の中で思う様雑誌を読んで過ごせるのなら文句も無いが。

 でも出かけるのはな――そんなことを考えつつ、アルカードは網膜を刺す陽光に顔を顰めながら足早に階段を昇りきった。

 きちんと舗装された緩やかな階段を昇りきると少し広めの円形の広場の外周に背凭れの無い木製のベンチ、広場の中央には二段式になったプール噴水が設置されている――大小の大きさの異なるスポンジを二段に積み上げたケーキを思わせる黒大理石の台座の中央に塔型の噴水が設置されており、それが傘状の噴水と細かな飛沫を噴き上げている。噴射口の位置が高いからだろう、細かな飛沫は階段を昇りきる前から届いてきていた。

 それとは別に流水も放出しているのか、二段になった台座の表面を水が静かに流れ落ちて、直径五メートルほどのプールに流れ込んでいる――上段の台座の上面はわからないが、その周囲を囲むプールには間歇式の噴水がいくつか設置されており、中央部の尖塔型の噴水が穏やかな音を立てて放散する水飛沫が虹を作っていた。

 風に乗って飛んでくる飛沫に目を細めながら周囲を見回すと、大きな教会の様な建物が視界に入ってくる。

 否、実際に聖堂なのだろう――ステンドグラスの多用された造りと掲げられた磔刑像は、カトリック教会によくみられるものだ。

 雨に濡れてしっとりとした色合いになった聖堂の建物は玄関ホールと聖堂に分割された構造になっているらしく、手前側と奥側で建物自体の大きさが違う。

 聖堂への入口は手前側には無いらしく、正面に扉らしきものは見えない――代わりに左側に階段と扉が見えるから、そちらが入り口なのだろう。 

 なんとはなしに敷地内の見取り図を広げてみる――見取り図はあくまで見取り図で、グリッドも無ければ正確な縮尺も無い。かつて一時期現代の人間の軍に所属し、訓練を受けた経験のあるアルカードにとっては、さほど役に立つとは言い難い――それでもいくつかの指標ランドマークになる建物の位置関係から、あの建物がこの学園において大聖堂と呼ばれるものであることだけはわかった。

 手にした見取り図からいったん視線をはずして、大聖堂を仔細に観察する――といっても、ステンドグラスの意匠すらさっぱりなのだが。

 出来れば中も調べてみたいが――毎週月曜にはここでミサを行うと、鳥柴薫がそう言っていた。高校以外にも被害者が出ている以上、『クトゥルク』は学園内部の生徒すべてが出入りする施設に潜伏している可能性が高い。

 たとえば毎週全校生徒が出入りする、この大聖堂などだ。

 見取り図を広げ、左手の掌を下敷き代わりにここ数時間の散策で掴んだ林の大雑把な形と発見済みの『点』の位置を書き込んでいく――散策で見つけた『点』は三ヶ所。いずれも大規模な『門』が形成されるほどのものではないが、結界と月齢によって魔力密度が高まればそうなる可能性も無くはない――まあいずれにせよ、『門』そのものはさしたる問題ではないが。

 『クトゥルク』ベアトリーチェ・システティアーノ・ロザルタの目的はあくまでも生贄を利用して結界内に蓄積された精霊を自分自身の性質に最適化することで、なるべくロスを抑えて取り込むことだ――自己強化を図ると同時に、生贄の生命力を取り込んで数百年を生き永らえる。

 普通の噛まれ者ダンパイアは被害者の血を吸うことで自己強化を行いつつ不死性を維持するが、『クトゥルク』の吸血には御霊みたま喰いの儀式以上の意味は無い――『クトゥルク』は吸血によって他者から魔力を吸い上げることが出来ないからだ。強いて言うなら、そのときに接続された『絆』を介して被害者の知識を吸い上げることが出来るくらいか。

 『クトゥルク』は御霊みたま喰いの儀式でこしらえた下僕サーヴァントも含め、自分の下位個体から魔力を吸い上げることが出来ない――さらに言えば、一度起き出してからもう一度休眠状態に入るまでの間、活力を補給する機会が一度しか無い。

 つまり、これからやろうとしている儀式のことだが――『クトゥルク』は活動の限界が近づくと徐々に衰弱し、最後には老化してミイラの様な有様になってしまう。

 『クトゥルク』の衰弱が始まると、それを止める手段は無い。完全にミイラ化して、そのままの状態で数十年、あるいは数百年を眠るのだ――眠っている間に水に漬けられた乾燥ワカメの様に徐々にふやけて元の姿に戻り、最終的には再び復活して活動を始める。

 そしてそれから数ヶ月以内に必要な数の生贄をそろえて、魔力吸収の儀式を執り行うことになる。

 で、儀式は邪魔されるわけだ――皮肉げに口元をゆがめてそう独りごちたとき、

「どうかなさいました?」 横手からかかった穏やかな声に、アルカードはそちらを振り返った。黒い修道服を身に纏った日本人の若い女性が、視線の先に立っている。

 左目の目元に泣き黒子のあるその修道女は柔らかな微笑を湛えたまま、物珍しそうにこちらを見つめている。彼が道のわからなくなった留学生だとでも思ったのか、彼女は少しだけ首をかしげた。

 二十代後半に入ってすぐというところか――

 そんな見当をつけたところで、

「えっと、英語はわかるかしら? 道に迷ったの?」

「いいえ」 英語で話しかけてきた修道女になめらかな日本語でそう返事をして、アルカードはかぶりを振った。

「昨日講師として到着したばかりでして。少し敷地内を散策していたところです」

「あら」 日本人のシスターは上品な仕草で軽く口元を押さえ、

「ごめんなさい、あんまり若く見えるものだから、わたしったらてっきり外国の留学生の子かと」

 アルカードはその返事に苦笑気味の笑みを浮かべ、見取り図を折りたたんでポーチにしまいこみながら彼女のほうへと歩み寄った。

「アルカード・ドラゴスといいます」

「シスター天池です」 差し出された手を握り返し、女性が柔らかな微笑を浮かべてみせる。

「あの聖堂だけでよろしければ、わたしがご案内いたしますけれど」

 一瞬考えて、アルカードはうなずいた。絶対に調べなければならない場所ではないが、機会があるなら見ておいて損は無い。

「お仕事の邪魔にならないのでしたら、お世話になります」

「ええ、おかまい無く。わたしは用事で居残ってただけですから」 笑顔を絶やさないままそう答えて、

「それではお邪魔なのでは?」

「ご心配無く、さっき終わったところですから――それでは、こちらに」 ついてくる様に手で促し、修道服のスカートの裾をふわりと翻してシスターが歩き出した。

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