In the Flames of the Purgatory 59
*
ひゅっ――眼前の下級悪魔が振るった巨大な鈎爪が、軽く上体をのけぞらせたアルカードの眼前を軽い風斬り音とともに薙いでいく。嫌な音とともに攻撃の軌道に巻き込まれた白樺の木に四条の爪痕が深々と刻まれ、衝撃で枝葉がガサガサと揺れた。
周囲の白樺は、すでに緑色の玉蜀黍みたいな形をした花をつけ始めている――おそらくそう遠くないうちに、周辺地域では花粉症に悩まされる人が出てくることだろう。白樺の花粉は杉よりもかなり多いので、そのぶん症状も酷くなる。
シィッ――歯の間から軽く息を吐き出しながら、アルカードは一歩踏み込んで眼前の下級悪魔の胴体に強烈な前蹴りを叩き込んだ。ぬらぬらと濡れ光るクチクラの様な質感の外殻にびしりと音を立てて亀裂が走り、あふれ出してきた蛍光色の体液が地面にしたたり落ちる。
おそらくは攻撃に対する防御機構の一種なのだろう、強酸性の体液は地面にしたたり落ちるや否や、鼻を衝く異臭とともに地面を溶解させ始めた。
ぎぎぎ、と苦痛の声をあげてよろめきながら後ずさる下級悪魔に視線を固定し、攻撃がかすめて浅く裂けた頬から伝わってくるひりひりとした痛みに唇をゆがめて、アルカードはゆっくりと嗤った。
ぎりぎりといううなり声をあげながら、下級悪魔たちがじりじりと間合いを窺う。
この下級悪魔とは、五世紀ほど前に戦ったことがある――グリーンウッドとはじめて会い、そしてその後五百年のファイヤースパウンとの友誼の始まりとなった、あの遺跡で出現した下級悪魔の一種だ。
ただ
彼らの血液が物体に附着したときに物を溶かすのは、彼らが肉体を持っているからだ――彼らはあまりにも力が弱すぎて、現世に出てくると自力で存在を維持することが出来ない。現世に霊体のままで存在し続ける力も、自力で肉体を構築出来るだけの力も無いのだ。
それを補うために、彼らは『点』の周囲に存在する精霊を使って肉体を維持している――それはつまり、『点』からあまり遠くまで離れられないということでもあるのだが。
「あー……鬱陶しい」
おそらく爪の尖端に体液の分泌腺が備わっているのだろう――体内を流れる体液ほどの強い酸ではないらしく、ちょっと引っ掻かれただけで顔面が焼け爛れることはない様だが。
まあ痛いことは痛い。外殻の亀裂からあふれ出した体液が装甲を伝っているのを確認して、アルカードは口元をゆがめた。
なるほど、ちゃんと自分の防御機構に対する免疫はあるというわけだ。どこぞのフリーザ様の様に、自分の作り出した冷凍ガスの副産物で全身焼け爛れるほど間抜けではないらしい。
いつぞやのキメラのことを思い起こして皮肉げに嗤いながら、アルカードは地面を蹴った――残念ながら、あのキメラとの戦闘の経験はこの状況下では役に立ちそうにないが。
一度右拳を強く握って、緩める――指の隙間から血がしたたり落ちる、ぬめりけのある液体の感触。次の瞬間、数十もの絶叫の合唱とともに右手の中に硬質の柄の感触が現れた。目の粗い襤褸布に似たざらついた質感を金属とも石ともつかぬ材質で再現した様な感触の硬い柄を握り直し、そのまま下級悪魔の間合いの内側に殺到――
「
下級悪魔が振るった鎌状の鋭い鈎爪のついた右手を掻いくぐる様にして躱し、そのまますれ違い様に胴を薙ぐ。
悲鳴をあげようと大きく開いた口から粘りけのある透明な唾液と蛍光色の体液が混じり合った液体を吐き散らし、舌の代わりに備わった咽頭顎を飛び出させて――腰元から胴体を上下に分断された下級悪魔が強酸性の血液と臓物をぶちまけながらその場に崩れ落ちた。
地面の上でとぐろを巻いた蛍光色の体液にまみれた腸が、異臭を放つ煙を音を立てて立ち昇らせながら溶けた地面に沈み込んでゆく。斬撃の軌道に巻き込まれて切断された左腕が手近な白樺の木の幹にぶつかり、振り撒かれた体液が附着して樹皮を腐蝕し始めた。
体を上下に分断された下級悪魔が、獣じみた咆哮をあげながら自分の血だまりの上でもがいている。まだ絶命してはいないが、彼らは二足歩行の肉体を持っている――下半身を失っては戦闘を継続することは出来まい。下級悪魔はなおもじたばたと暴れていたが、やがて自分自身の血液によって溶かされた穴に沈み込んで身動きが取れなくなり、動きも徐々に弱々しくなっていった。
『点』からあふれ出した精霊の影響で肉体を持っているからだろう、その体は即座に消滅はしなかった。純粋な霊体が
ぎえええぇぇぇ、と声をあげて、下級悪魔たちが数体同時に地面を蹴る。同時に手近な白樺の樹上に攀じ登っていた下級悪魔も二体、一瞬遅れて飛びかかってきた。
樹上から二体、地上から三体――それだけ確認すると、アルカードは
ぎゃぁぁぁぁッ!
ヒィィィィッ!
「
咆哮とともに踏み出しながら、アルカードは剣を振るった――右から左へ、大きく前方を薙ぎ払う。やや角度のついた斬撃の軌道に巻き込まれて地上から接近してきていた三体の下級悪魔が胴や胸、首を刈られて臓物の切れ端や腕、指の破片を撒き散らしながら前方につんのめる様にして崩れ落ちた。
そのままであれば下級悪魔どもが撒き散らした強酸性の体液をまともに浴びる羽目になる、が――
轟音とともに発生した衝撃波がばらばらになった下級悪魔の体を擂り潰し、撒き散らされた体液を吹き散らしながら荒れ狂う。
軌道が低かったために発生した気圧変化で地面の表面を削り取り、軌道上にあった白樺の木を草刈り機で刈られた雑草の様に容赦無く切断して軌道上にいた下級悪魔の群れを次々と薙ぎ倒したところで、衝撃波は――アルカードが魔力構造に組み入って自壊させたために――前方二十メートルほどの範囲を扇状に削り取ったところで消滅した。
そして発生した衝撃波が三体の下級悪魔の屍を粉微塵に擂り潰すよりも早く、アルカードは剣を振るった――踏み出した足を軸に足を踏み替え、その場で一回転しながら大きく上方を薙ぎ払う。
斬撃の軌道が低かったのか一体が両脚を切断されて失速し、そのまま足元に落下してくる。衝撃波の余波に煽られて空中でバランスを崩していたもう一体は胴を腰から脇へと斜めに薙がれ、そのまま肩越しにすっ飛んでいって背後の白樺の木に激突した。
足元で耳障りな叫び声をあげながらじたばたもがいている下級悪魔の頭蓋を
傷口からあふれ出した体液を注意して避けながら頭を足で踏みつけて
残る
下級悪魔たちの屍は、まだ残っているものが十数体ぶん――残りはすでに朽ちており、周囲の下級悪魔の屍からはまるで陽炎の様なものが立ち昇っている。
下級悪魔たちが現世で受肉した肉体を維持するために周囲から集めた精霊が、彼らが死んだために体から放出されているのだ。
彼らは自力だけで肉体を構築出来ずに、周囲の無属性の魔力――精霊を取り込んで肉体を維持している。個体が死んでしまうと精霊が制御下から離れて体から抜け、死体を維持するのに必要な魔力量にも足りなくなって死骸が朽ちてしまう。今は残っている死体も、じきに跡形も残らなくなるだろう――これが精霊を取り込まなくても自分の肉体を維持出来る程度の能力を持つ下級悪魔なら、死んだあとに骨や角、爪、外殻といった死体の一部が残っていろいろ使い道があるのだが。
つい三分前には、百を超える下級悪魔が周囲にひしめいていたのだ――到底学生が足を踏み入れない様な敷地の端っこだからいい様なものの、罷り間違って誰かが足を踏み入れようものならば、生きて帰ることはかなわなかっただろう。
胸中でだけそうつぶやいて、アルカードは振り返り様に手にした霊体武装を振るった。
白樺の木に音も無く攀じ登り、樹上の高い位置から跳びかからんとしていた下級悪魔が敢え無く迎撃され、胴体を前面と後面に削ぎ剥がれて地面の上に内臓と血漿をぶちまけた。
この下級悪魔どもの能力は恐れるほどのものではない。この地上のいかなる肉食動物をも上回る俊敏な動きと、人間程度ならまるでスナック菓子の袋を引き裂く様に容易くまっぷたつに出来るほどのパワーを兼ね備えてはいるが、それだけだ。
無論そのふたつだけでも、生身の人間にとっては十分すぎるほどの脅威になるだろう。だが取り立てて間合いの広い攻撃手段を持っているわけでなし――ああ訂正しておくべきか、腕を空振りしたときに鈎爪の先端から分泌された酸性の体液が飛び散るくらいはするかもしれない。
だが、それだけだ。電撃を放ったり炎を放射したりといった、明確な遠距離攻撃手段は持っていない。直接攻撃したときに飛び散った体液で逆襲されることさえ警戒していれば、あとはどうとでもなる――ただ肉弾戦を挑むしか芸の無い敵というのは、アルカードにとってはなんの脅威にもならない。
とはいえ――
地面に飛び散った強酸性の体液がかからない様に一歩飛び退きながら、アルカードは舌打ちした。
問題は接近戦の技術が主体のヴィルトール・ドラゴスがこの下級悪魔を相手にする場合、常に返り血に注意しなければ戦わなければならないということだ――日曜日だが自主練習中の生徒がいないわけではないので、目撃される危険を避けるために嵩張る武器は一切持ってこなかったのだが、おかげで銃も無い。拳銃があればもう少し楽に戦えたのだが――
まあ、持ってきていないものは仕方無い。
独り語ちて、アルカードは横合いから二体同時に突っかかってきた下級悪魔の攻撃の軌道から抜け出した――続いて空いた左手を軽く握り込み、軽く緩める。
次の瞬間、左手の中に指に馴染んだ硬く冷たい鋼の感触が現れ、ずっしりとした重みがかかった――まだ自在に消したり出したりが出来なかったころ、
正確にはその形骸だが――物体としての鞘はとうに朽ち果てて失われているのだが、鋼で出来ているのをいいことに吸血鬼や下級悪魔を鞘で撲殺したりしていたら魔力を帯びて形骸を形成したのだ。
ちょうどいいのでそのまま
アルカードは手にした鞘の鞘尻で地面を引っ掻く様にして、左側から突っ込んできた下級悪魔の足元を低い軌道で刈り払った――つんのめったところで止めずにそのまま勢いよく鞘を払ったため、突っ込んできた下級悪魔は足を取られて空中で前転する様にして半回転、右手側から若干遅れて突っ込んできた下級悪魔の胸の中に上下逆さに背中から飛び込んでいく。
左脇に巻き込んでいた
いずれも守ろうとして守り切れず、挙句の果てにみずから殺してしまった者たちだ。
一瞬の感傷を意識から締め出し、そのまま手にした霊体武装を水平に薙ぎ払う――上下逆さまにひっくり返った個体とそれを抱き止める形になった個体、二体の下級悪魔の胴体をまとめて上下に分断し、アルカードはそのまま後方に跳躍した。強酸性の体液の飛散を避ける意味でも残る下級悪魔の集中攻撃を避ける意味でも、とりあえず距離を離す必要がある。
二度ステップして背後の白樺の木に背中がつくまで後退し、手にした鞘に
数体は弾かれた様に手近の木の引き寄せられて幹に叩きつけられ、そのまま弾性には富むものの剛性の乏しい外殻がまるで紐を巻きつけられた様に絞り上げられて、次の瞬間ぶつんという音とともに輪切りにされた。巻き添えを喰って輪切りにされた白樺の木が数本、鏡の様に滑らかな切断面を覗かせながらゆっくりと倒れ始め――その樹皮が煙をあげて溶けてゆく。
全身から緑色の体液を噴き出させ、悲痛な叫び声をあげながら、下級悪魔どもがもんどりうってその場に崩れ落ちた――装甲の裂け目から噴き出した体液が細かい霧状になって周囲に飛び散り、周囲の木々を濡らしてゆく。噎せ返る様な異臭とともに土や背の低い雑草、白樺の樹皮が溶け出した。
地響きを立てながら地面に倒れ込み、ついでに攻撃から逃れた下級悪魔を一体下敷きにした白樺から視線をはずして、手元の鋼線の端末を足元に放り棄てる――首尾よく下級悪魔どもを輪切りにする戦果を挙げたのはいいが、その代償として強酸性の体液によって腐蝕している。下手に引き戻せば附着した体液で自分を傷つけることになるし、じきに溶けて切れてしまう。どのみちもう使い物にならない。
今ので六体輪切りにして、一体が白樺の下敷きになったから――あと十体。
殺戮と捕食の本能しかないと思っていたが、警戒するほどの知恵はあるらしい。
じりじりと包囲網を狭めてくる下級悪魔どもを睥睨して、アルカードはゆっくりと笑い――鞘に納めたままだった
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