In the Flames of the Purgatory 36

 

   *

 

 足を踏み出したのと同時に、船体が大きく揺れた――ふらついて壁に手を突いたところで、

「――おい、アマリア」

 食事係の手伝いで船艙から運び出した籠いっぱいの芋を食堂に運んでいたアマリアは、メインハッチの蓋を持ち上げてその隙間から顔を出した船員の言葉にそちらに視線を向けた。

 二度目の縮帆作業が終わったところなのだろう、二十代半ばの乗組員は濡れ鼠になっている――半時ほど前に支索の補助帆と第一斜檣の補助帆二枚をたたんだところだが、どうもそれでも危険な状況になってきたらしい。

 夕刻を境に、だいぶ風が強くなってきている――こうしてハッチの蓋を持ち上げていくらか隙間を作るだけでも、暴風に乗って大粒の雨が吹き込んできていた。

「それを持っていくついでに、客人に声をかけてきてくれ。もうすぐ客人の目的の島に着く」

 その言葉に、アマリアは小さくうなずいた。

「わかった」 そう返事をして、アマリアは再び歩き出した。食堂に芋を持っていくにはいささか遠回りではあるが、ここは客の意向を優先しなければならない。

 アマリアは第二甲板に降りる階段の前に、芋を満載にした籠を置いた。後部ハッチと第二甲板に分岐する階段のそばだ――この船の食事係は腕前以上に気難しいことで有名だが、いったん降りてから取って返すよりも先に声をかけたほうが早いだろう。そう考えて、彼女はあの金髪の男の船室の扉の前に駆け寄った。

 扉を二度ノックして、返事を待たずに扉を開ける――金髪の男は相も変わらず全身を鎧う鈍色の鈑金甲冑を着込んだまま寝台に腰を下ろし、鋼鉄製の鞘に納められた漆黒の曲刀を左腕で抱く様な姿勢で壁にもたれかかり、半開きにした船窓から外を眺めていた。部屋に顔を出すと毎回判で捺した様にこの光景を目にするが、朝食のために呼びに来ても寝具に使われた形跡がまったく無いあたり、やはり眠るときに横になるという習慣が無いらしい――船の傾きがあるから横になって安眠するのはいささか難しい帆船での船旅では、案外賢明な選択と言えるのかもしれないが(※)。

 金髪の男は返事を待たない彼女の非礼を咎める様子も無く、顔だけをこちらに向けてきた。この男はたいがいそうだが、しゃべるときはよくしゃべるがそうでないときはろくに口を利かない。

「お客さん? 例の島の近くまで着いたよ」

「そうか」

 手短に返事をしてから船窓を閉め、男はそれまで腰かけていた寝台から立ち上がった。

 男の荷物は極端に少ない――もともとちょっとした食糧や着替え、それに銃の弾丸や火薬、あとは装備品の手入れのための用具くらいしか無いからだろう、肩に襷掛けにする大きな鞄ひとつで事足りるらしい。

 ふと気づいたのはアマリアがはじめてこの部屋に踏み込んだときとは違って、彼が完全武装しているということだ――先日の海賊との戦闘時には使わなかった、鋼板に刃をつけて柄の部分にいくつも穴を開けただけの簡素な投擲用の短剣の鞘を無数に縫い止めた幅広のベルトと、おそらくは銃の弾薬なのだろう、筒状の物体が無数に納められたベルトを交叉する様に襷掛けにし、大型の格闘戦用の短剣の鞘を両脚の脛に一本ずつ固定している。

 両脇にも大型の短剣を吊っている――鞘は実際の刃のサイズよりもかなり大きめだ。金属板でも仕込んであるのか甲冑の脇の遊びを覆う様に成形されており、おそらく簡易的な防具としての役割もあるのだろう。

 この間の海賊との戦闘の際には、装備していなかったものばかりだ。

 つまり彼にとっては海賊など完全武装が必要なほど危険なものではなく、これから訪れる島で戦うことが予想出来る相手のほうが危険だということだ。

 男は向かい側の寝台の上に寝かせていた長銃身の銃を取り上げ――銃口から銃身内部に異物や水が侵入して使えなくなるのを防ぐためだろう、銃口に油紙をかぶせて麻紐で縛着し固定してある――、腰から吊った袋状のケースに差し込んだ。身の丈ほどもある曲刀を剣帯で腰に吊り、簡素な鞄を肩に引っ掛けて、最後にばさりと音を立てて外套を羽織る。彼が部屋に持ち込んだものは、それだけらしい――チーズや燻製のたぐいは結構な大荷物だったが、大部分は暇に厭かせて食べてしまった様だった。

「でも、海がかなり荒れてるよ――小舟を降ろしても、途中で転覆するかも」

「問題にもならん」 アマリアの言葉に、金髪の若者が返事をする。

 だからといって、嵐が収まるまで船内で待つわけにはいかんのだから――彼はそう続けてから最後に部屋の中を見回し、踵を返して扉に向かって歩き出した。

「やめたほうがいいよ。あそこ、本当にやばいって」

「だろうな」 金髪の青年がそう返事をしながら、後ろ手に居室の扉を閉める。

「なんか怪物が出たって言い伝えもあるらしいしさ、あの島の出身者だっていう船乗りが酒場で話してるの聞いたことあるよ」

「そうだろうな」 金髪の青年はそう返事をして、

 フードを目深にかぶりながら通路を歩いてゆく肩越しに、最後の言葉が返ってくる。

「――

 彼が足を踏み出すたびに甲冑の装甲板がこすれてきしみ、床が体重に抗議してギギイギイと音を立てる。金髪の男はそれを無視して、一番手近にある後部ハッチから甲板上に出て行った。

 後部ハッチと第二甲板、それぞれに通じる階段のそばにアマリアが置いてきた芋満載の籠に視線を向けたのか、彼が一瞬だけ足を止める。さして腕がいいとは言い難い食事係の作った食事を、彼が堪能する機会はもう無い――うらやましいことだ。

 彼自身も似た様なことを考えたのかクックッと皮肉げな笑い声を漏らし、金髪の男は後部ハッチへ通じる階段に足をかけた。

 

   †

 

 ここ半日ばかり続いている時化のせいで、甲板上はまるで水溜まりの様な様相を呈していた――風も雨足もどんどん強くなってきており、そのために滑り止めにと撒いた砂はすべて雨で流されてしまった。そのせいで、甲板上はかなり滑りやすくなっている。

 檣上部の補助帆と第一斜檣から前檣にかけての支索に張った補助帆はすべてたたんでおり、大三角帆ラティーンセイルもわざと角度をはずして艤装にかかる負荷を落としている。帆を細かく絞って風の受け具合を調整出来ないのが、縦帆船の根本的な欠点だと言えた。

 強風はさらに強くなってきており、弱まる気配は無い――この調子では、夜になるころには海錨シー・アンカーを流して漂蹰ひょうちゅうを試みなければならないかもしれない(※2)。

 船尾楼下の舵輪のそばで部下たちが索具を固定するのを見守っていた船長は、船内に通じる後部ハッチの階段を昇って金髪の男が姿を見せたのに気づいて少しだけ眉を上げた。

「よう。来たか」 ああと愛想の無い返事を返す男から視線をはずし、船長は船尾楼下の舵輪室の内壁越しに北に視線を投げた。男を手で促し、彼と連れだって船尾楼下から階段を昇って船尾楼に出る。それまで雨宿りをしていた船尾楼下から甲板上に出たことで、強風に乗った雨粒が直接吹きつけてきた。

 船長は取り出した望遠鏡を差し出して船尾左後方を指で指し示し、

「妙な建物が建てられた島が見えるだろう? あそこがあんたのお望みの島だ」 差し出してきた望遠鏡を、金髪の男は不要だと言う様にかぶりを振って押し戻した。

「で、陸地はどっちだ?」 その質問に、船長は視線をめぐらせた。

「あっちだ。二十五海里ほどかな。真北に進めば陸に着くはずだ」

「わかった」 金髪の男はそう言ってうなずくと、

「ご苦労だった。世話になったな」

「否、いい稼ぎになったよ。ちょっと待っててくれ、今ボートを降ろす作業を――」

「否、いい」 金髪の男は船長の言葉をそう遮って、舷側に歩み寄った。

「これだけ派手に時化ているなら、小船など必要無い」

「……なんだって?」

 そう尋ね返したときには、金髪の男はすでに舷側から海へと身を躍らせていた。

「――っておい!?」 あわてて舷側から身を乗り出して海面を窺うが――海面には彼の姿はもう見えず、荒波に揉み消されて彼が飛び込んだときの波紋すら残っていなかった。

 まさか入水自殺のために、こんなところまでやってきたのだろうか。思わず馬鹿なことを考えてから、彼はかぶりを振った。

 いずれにせよ、彼らふたりの契約はここまでだ。あとは本業に戻ればいい。彼は部下たちを振り返り、

「副業は終わりだ。本来の航路に戻るぞ――針路三十三度」

 

   †

 

 さて――

 周囲の空気中の水分を媒体に霧に姿を変えて〇・二海里の距離を瞬きひとつぶんほどの時間で渡り、島を覆う鬱蒼とした森の木立の下で再び人間の姿に戻ったところで、アルカードは小さく息を吐いた。

 まったく人の手の入っていない森はきちんと手入れがされておらず、育ちきらないまま枯れて腐った草と雨で流されてきた土砂で地面がドロドロになっている。

 アルカードは視線をめぐらせて、海上に浮かぶ商船を見遣った。商船の甲板は最初は騒がしかったがやがて契約は満了していると割り切ったのか、帆を廻して船首を返し、北東に向かって走り始めた。

 それを見送って、アルカードも踵を返す。船上から見ていた限り、森の中央に石造りの建物が覗いていた。

 おそらく標的はそこにいる――数百歩も進まぬうちに、アルカードは足を止めた。

「――ふん」 少しだけ唇をゆがめて笑う――明らかに人工的に切り開かれた開豁地に、人の手による建物の痕跡が残っていた。

 いずれもすでに朽ち果てて、切り出された石や腐りきった木材の一部だけが往時の風景の面影を保っている。

 アルカードが出た開豁地の端には、いくつもの石くれが転がっていた。

 建物の痕跡ではない――ろくに明かりの無い闇の中であっても、いくらか近づくとそれがもとは人工的に形を整えた石の塊――墓石であると知れた。墓石は一切の例外無くひっくり返っており、互いにぶつかり合って割れたものもある。

 アマリアがこの島の出身の船乗りの話をしていたし、今はわからないが以前はこの島にも人里があったらしい――人里の痕跡は朽ちて久しいし、墓石の傷み具合から考えれば十年以上は経過していそうだが。問題は、その墓石の倒れた下の地面がことごとく掘り返されていることだった――否、そう言うと語弊があるか。

 正確にはいずれの墓石の下の地面も内側から押し上げられ、大きな穴が開いている――まるで墓の下に眠っていた屍が、みずから土を押しのけて地上に出てきたかの様に。

 かすかに口元をゆがめ、アルカードは足元に倒れ込んでいるほぼ白骨化した遺体の腕の骨を軽く蹴った。

 腐食してぼろぼろになった死装束をまとったその屍は肉がほぼ完全に無くなり、腱だけでつながっている状態だった――ほぼ完全な状態を保っているかと思ったら存外そうでもなく、肩から入った軌道の一撃で体を袈裟掛けに分断されている。アルカードは体をかがめて、切断された鎖骨を拾い上げた。

 どうもこの島の住人には――何年前まで人が住んでいたのか知らないが――棺桶を使うという習慣が無かったらしい。あるいは棺桶も腐ってしまったのか、いずれにせよ骨は土まみれになっている――その中で切断面だけがまるでつい今しがた切断されたかの様に綺麗で、鏡の様に滑らかだった。

 指でつまんだ鎖骨を肩越しに放り棄て、アルカードは墓場に足を踏み入れた。いずれの亡骸もなんらかの破壊が加えられており、完膚無きまでに破壊されている。

 まるで絞った雑巾の様に全身をひねり潰されたもの、粉々に粉砕されたもの――首から下が粉々に砕かれた死体の頭蓋骨だけが、横倒しになった墓石の上に出来の悪い美術品の装飾の様にちょこんと乗っかっている。

 故人の名前は頭蓋骨の陰に隠れて読み取れなかったが、スペイン語でこう刻んであるのが読み取れた――『神の御許にて、この者に永久の安息を』。

 さて――胸中でつぶやいて、アルカードは周囲を見回した。

 ここは魔素が濃い――おそらくだからこそ敵はここを根城に選んだのだろうが、ここは地獄が近い。

 偶発的にそうなることはまずあり得ないだろうが、この場所の様に物質世界にありながら地獄に近い場所はときに地獄とつながり、彷徨い出てきた低級霊が屍や土、生きた生物に取り憑くことがある。

 おそらく、この死体たちはそういった低級霊に憑依されて動き出したのだろう――低級霊はより人間に近いものに優先的に憑依する。肉の残った人間の屍、白骨死体、それも残っていなければ犬などの動物、あるいは土などだ。

 この屍たちは低級霊の依り代となって動き出し――そして、アルカードより先にここを通った何者かによって排除された。

「――と、いうところか」

 声に出してそうつぶやいて、アルカードは周囲を見回した。黒い影の様なものがアルカードの周囲を取り巻き、近づいたり離れたりしながら蠢いている。

「死に損ねた亡者どもか」 アルカードには近づけなかったのか、黒い影は次々に周囲の地面に飛び込む様にしてもぐり込んだ。

 いずれも土を掘り進んだ様な痕跡は残さない――もこもこと影がもぐりこんだ地面の周囲の湿った土が盛り上がり、不格好な腕が生えてくる。

「歓迎の宴会か? 美女も酒も飯も無い、雨曝しの宴会なんぞ御免こうむりたいが」

『……肉……骨……』

『温かい……生きた、体……』

『入れて……俺を……』

『血……肉……』

『オレのだ……』

『否、俺の……』

 脳裏に直接響く声に、アルカードは目を細めた。あれはこの地に彷徨う死霊たちだ――魔素が濃いために肉体が朽ちたあとも、生命に執着したり怨念の強い死霊は消滅する事無く残っているのだ。

「どうやら――この村はまともな滅び方をしなかったらしいな」

『寄越せ……その、肉体からだ……』

『生きた、肉の体……』

 からからと音を立てて、足元に転がったしゃれこうべが振動している――取り憑く相手を間違ったらしい。アルカードが頭蓋骨を踏み潰すと牛の鳴き声の様な叫び声とともに黒い影が足の下から滲み出し、渦を巻く様に周囲を回り始めた。

「さっき相手をしてくれた奴には殺され損ねたか? 筺体を破壊しただけで終わりにしたか」

 誰に聞かせるでもなくそんな言葉を口にして――アルカードは塵灰滅の剣Asher Dustの柄に手をかけた。

 どうせ語りかけたところで会話など通じようはずも無い――彼らには肉体も、当然脳も無いのだ。ただ恨みや生への執着といった妄執に駆られて、たまたま近づいてきた相手を誰彼かまわず襲っているだけだ。仮に誰かに恨みをいだいていたとしても、もう誰をなぜ恨んでいたのかも忘れているだろう。

 ぎゃぁぁぁぁっ!

 ヒィィィィッ!

 あァあアぁァアぁッ!

 魔力を注ぎ込まれて励起した塵灰滅の剣Asher Dustが、頭の中に直接響く絶叫をあげる。

「まあ――冷えた体を温めるにはちょうどいいか」

 そう告げて、アルカードは腰の剣帯から吊った鞘をはずし――どん!と音を立てて地面に斜めに突き刺した。

 そのまま鞘に納められた剣の柄に手をかけ、横に移動する様にして塵灰滅の剣Asher Dustを抜き放つ。

「来い、哀れな者ども――成仏させてやろう」


※……

 前述したとおり、帆船は左右のどちらかから風を入れて走っているため、左右どちらかに傾いている状況が非常に多いです。

 そのためベッドで横になっているときは基本的に風上側に頭を向けていないと頭に血が上って眠れません。

 『海皇紀アルティメットガイド』によると、旧型海王丸の実習生居室の場合は二段ベッドの同じ段にふたりが眠るそうで、ふたりとも頭が同じ方向に向いており、かつ仕切りがカーテンなので、風下側の仲間の頭をたがいに蹴りあう生活だったそうです。


※2……

 漂蹰ライツーとは大時化で航行が難しいときに風波に船首を立て、必要に応じて海錨シー・アンカーを船首から海に投入レッコし、ありていに言えば漂いながら嵐を凌ぐ方法です。

 海錨シー・アンカーはパラシュートの様な形状の布製のもので、船体が風で風下に流される抵抗で展開します。

 通常、船というのは推進力が無くなると風や波に押されるうちに風向きに対して竜骨線が直角に近くなり、つまり真横から風を受けることで転覆しやすくなります。

 強風で船体が風下側に流されれば、それにつられて海錨シー・アンカーも流されます。しかし海錨シー・アンカーの動きは水の抵抗で必ず船体よりも遅くなるので、これを船首から投入レッコすることで海錨シー・アンカーに引っ張られて――あるいは引っ張って――船首は風上側を向くのです。

 風に船首を立てることで横方向からの波や風を受けて船体が転覆するのを防ぐためのものですね。錨を流すという表現は、船体についた金属の錨を海中に降ろすわけではなく海錨シー・アンカーを海中に投入レッコすることをいうのです。

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