In the Flames of the Purgatory 17

 

   §

 

 机の上に置きっぱなしにしていたドコモの携帯電話が、着信音とともに振動してガタガタと音を立てる。普段から冠婚葬祭のときに使っている黒いスーツ――パンフレットに紹介されていた授業風景の写真の中で、男性教諭がスーツ姿だったので用意したものだ――を壁のハンガーかけに引っかけたところで手を止めて、アルカードは机の上から携帯電話を取り上げた。

 発信は神田になっていた――着信音は聖堂騎士団の関係者と店の関係者、それ以外の知り合いとで別々にしてあるので、曲だけ聞けば誰からの連絡かすぐにわかる。

「俺だ」

 通話ボタンを押して短く返答を返すと、少し焦り気味の涼やかな声が聞こえてきた。

「神田です。ドラゴス師、返事が遅れまして申し訳ありません。大使閣下と少々話をしておりましたもので」

「別にかまわないよ、神田セバ――今現在は別段忙しいわけでもない。俺のほうも、ただ無事に着いたことだけ報告しようと思っただけだ。そっちはなにか変わったことは?」

「東京は、特に――ヨーロッパに関しては、団長から現地への到着と、無事にグリーンウッドと合流した旨の報告がありました。それ以降は連絡が途絶えています。ドラゴス師のほうはなにか問題は?」

「無い――少なくとも現状じゃな。まだ接敵コンタクトもしてないしな。『クトゥルク』も、今すぐに下手な動きに出ることは無いと思う――俺がここに来たことを気づいてるかどうかはわからないが、仮に気づいてるとしても今の状態で俺に仕掛けてくるほど無謀でもあるまいよ。なにしろ奴はまだ、儀式に手をつけてないんだからな。塵灰滅の剣Asher Dust万物砕く破壊の拳Ragnarok Handsと自動拳銃、それに『魔術教導書スペルブック』だけあれば当面は十分だ」

 『クトゥルク』は魔術によって転生した個体だ。彼らの配下の個体が吸血を行うので吸血鬼に分類されてはいるものの、その来歴のゆえかそれとも転生の仕組み上そうなるのか、『クトゥルク』自身は吸血を行わない。

 彼らは生命維持にも自己強化にも吸血を必要としないが、それよりもはるかに面倒臭い儀式を必要とする。

 『クトゥルク』は一度活動を始めると、力を使い果たすまで活動し続ける――そして力を使い果たすと、自分の配下の下僕サーヴァントに守りを任せて一定期間眠るのだ。

 そして目を醒ますと、生贄の儀式によって精霊を吸収する――彼らにはそれ以外の自己強化の手段が無く、したがってそのときの生贄の儀式で吸収した魔力がその活動時期の魔力の総量になる。

 下僕サーヴァントたちは吸血行為によって生命を維持するが、『クトゥルク』は前回の活動時期に使い果たして失った力を吸血によって回復することが出来ない。力の回復には生け贄の儀式が必要で、彼女はいまだそれを執り行えていない。したがって彼女の魔力はすっからかんに近い状態で、アルカードを相手に攻撃を仕掛けるのはあまりにも無謀と言える。

 自分の現状は本人が一番よくわかっているだろうから、仮にこちらに気づいていても今攻撃を仕掛けてくる様な真似はしないだろう。

 電話口の向こう側で、書類をめくるかさかさという音が聞こえてくる――少し間を置いて、神田が口を開いた。

「残りの装備は三日後には苫小牧の港に到着いたします。新調したサブマシンガンも。大使館の渉外局員が、苫小牧に運んでいく放置する手筈になっております」

「ああ」 電話のこっち側でうなずいて、アルカードは缶コーヒーに口をつけた。苦い液体を嚥下していると、神田が語を継いできた。

「学内の現状把握は?」

「無理だな。来たばかりの講師がこれから暗くなる様な時間から、ひとりで敷地内ををうろついたら変に思われるからな。明日一日時間があるし、一日使ってじっくり見て回るよ」

「承知いたしました。なにか必要なものがありましたら、ご連絡をくださいます様」 

「ありがとう。でも装備はすでに発送されてるし、当面はなにもいらないと思う」 そう言って、アルカードは言葉を切った。

「それと、大使閣下に伝えておいてくれ。メロンは了承したがほかになにが必要か、あらためて送ってほしいと」 あ、お土産の話な――そう付け加えると、神田はわずかに苦笑した様だった。

「わかりました。急ぎの御用件ではないですよね? 大使閣下は所用で先ほどお帰りになりましたので、明日にでもお伝えいたします」

「ああ、それでいい。しかし、君はともかく大使閣下まで休日出勤なのか?」

「ホテルの件で少々事務処理が溜まっておりまして、閣下も休日出勤です――ドラゴス師に血を吸ってほしいとおっしゃっていました。不老不死はどうでもいいから、寝ないで仕事の出来る体になりたいそうです」

 その言葉に、アルカードは苦笑した。

「書類にサインするだけでいいなら、今度手伝いに行くと伝えておいてくれ。こう見えても人の筆跡を真似するのは得意なんだ」

「はい」

 そこで扉がノックされたので、アルカードは先を続けようと開きかけた口を閉じた。ちょっと待ってくれ、とささやいて、扉に視線を向ける。

「どうぞ」

 扉が控えめに開いて、ザザ・ゴグアが顔を出す。

「どうも、僕のほう仕事終わりました。今から晩御飯どうですか?」

「ええ、ご一緒します」 その返事に、ゴグアはうなずいて顔を引っ込めた。

神田セバ? 悪い、少し用事が出来たからまたかけ直すよ」

「ええ、聞こえておりました。こちらの連絡事項は特にこれ以上ありませんので、なにかありましたら逐次ご報告いたします」

「ああ、わかった。じゃあまた」

「はい。では失礼いたします」 その言葉とともに、通話が途切れた――携帯電話を折りたたんでポーチに戻し、席を立つ。

 部屋から出ると、ザザ・ゴグアと一緒に鳥柴薫と、見たことの無い三十代前半の日本人の男性が待っていた。

 こちらを見遣って会釈をしてきたその男性教諭に会釈を返す――薫が彼を手で示し、

「体育の澤村先生です。男子柔道部の顧問もなさってらっしゃいます――たまたまご一緒することになったんですけど、よろしいですか?」

「もちろん」 うなずいて、アルカードは澤村と紹介された教師に右手を差し出した――澤村がこちらの手を握り返す。

「アルカード・ドラゴスです。短い間ですがよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 それを見届けてから、ゴグアが声をかけてきた。

「じゃあ行きましょうか――食堂の場所、知ってますよね?」

「ええ、昼間鳥柴先生とご一緒しました」

 じゃあ行きましょう、とゴグアが歩き出す。澤村と薫もそれに続き、アルカードも部屋の鍵をかけてからそのあとを追った。

「――ところで、ドラゴス先生はどちらからきたですか?」 歩きながら、ゴグアがそう問うてくる――若干日本語がたどたどしい。それはよくわかった。大概の外国人には日本語は難しい――同じ漢字圏の中国人にとってさえ、日本語は難解なのだ。

「ルーマニアのワラキアです」 グルジア語でそう答えると、母国語を聞いたのが久しぶりだったのか、ゴグアは顔をくしゃくしゃにして笑った。

「ドラゴス先生は語学に堪能な様ですね――ルーマニアのどこですか? ブカレストとトゥルゴヴィシュテには行ったことがあります」 澤村の質問に、アルカードはそちらに視線を向けた。

「ブカレストです。トゥルゴヴィシュテにも一時期いたことはありますが」 と言っても、ここ十年程度は東京で過ごしていましたが――でっち上げの作り話に合わせてそう付け加え、アルカードは微笑んだ。こちらに送られた身上書には、その程度のことしか書いていないはずだ――あまり詳細に書いても意味が無い。

「トゥルゴ――なんですか?」 彼らの会話がわからないからだろう、薫が耳についた単語を挙げて尋ねてくる。それを挙げたのは、ふたりの会話の中に共通して登場したからだろう――ブカレストと連続して発音したから、固有名詞だと思ったのに違い無い。

「地名です――トゥルゴヴィシュテ。ブカレストからそれほど離れていないところにある、ドゥンボヴィツア県の県都です。五世紀ほど前、ドラキュラ公爵がオスマン帝国と戦った際の拠点になった土地です」

「トルコですか」

 澤村がそう口を挟んでくる。

「ええ、国号が変わる前の話ですが――お詳しいですか?」

「いえ、ただ私の地元は串本の大島ですから」

「なるほど」 アルカードがうなずくと、澤村はちょっと感心した様だった。

「それだけ聞いて、わかるんですか?」

「ええ。オスマン帝国の親善使節の蒸気船エルトゥールル号が沖合で沈没した、和歌山県の串本町でしょう? 昔観光に行ったことがあります」

「詳しいですね」

「旅館のおばさんに延々と聞かされました。歴史は好きですから、楽しかったですけどね」

「エルトゥールル号って?」 先ほどから耳慣れない単語がポンポン飛び出しているからだろう、目を白黒させながらゴグアがそう聞いてくる。アルカードは彼に視線を向け、

「百二十年ほど前に日本を訪れたオスマン帝国の親善使節団の蒸気船が、大島という島の沖で沈没した事故です――座礁が原因の損傷で船体に浸水、蒸気機関に海水が接触して水蒸気爆発を起こり、船体が破壊されて沈没しました。六百人近い乗組員のうち、地元住民に救助されて生き残ったのは六十名弱だったとか」

「記録が正しければ、正確には乗組員は六百八名ですね」 澤村がそう補足してくる。

「生存者は確か五十八人」

「なにしに来てたですか?」 ゴグアの質問には、沢村が返事をした。

「日本側の外交使節団の訪問に対する返礼です――でもコレラに感染して滞在時期が大幅に延びましてね、台風の時期に出発を強行して大島沖で座礁したんです」

「あ、思い出しました」

 澤村の言葉を受けて、薫がポンと手を叩く。

「たしかそのあとで、日本人がオスマン帝国に義捐金を持っていく話がありませんでした?」

「アブデュルハリル・山田・パシャ――山田寅次郎ですね。茶道の流派の跡取りで、家伝の鎧と太刀を献上品に義捐金を持ってイスタンブールを訪問しています」

「ああ、イスタンブールの中村商店の?」 その名前には心当たりがあったので、アルカードは澤村に視線を向けた。

「……なんですか、それ」 それは知らないらしい澤村の問いに、アルカードはちょっと考えて、

「その山田寅次郎がイスタンブールに設立した商店ですよ。オスマン帝国と日本の間での、貿易事業が主体のね」 山田寅次郎広場なんてのもあるんですよ、と続けると、薫がちょっと小首をかしげて、

「どうして山田さんなのに中村商店なんでしょう」

「茶道の家元の山田さんという人の養子になったからですよ。彼の実家の家名は中村というんです」

 沢村の返事が終わるのを待って、アルカードはゴグアに視線を向けた。

「その案件で、今でも日本とトルコの交流は大島が中心だとか。僕が旅行で訪れたときは、ちょうど在日トルコ大使を招待してトルコ軍楽隊メフテルハーネが慰霊祭をやっていました」

 そう言って、アルカードは周りが気づかない程度にわずかに眉をひそめた。

 トルコ軍楽隊メフテルハーネの演奏する音楽『メフテル』はかつて彼がまだ人間だったころ、ワラキア公国軍をさんざん苦しめたオスマン帝国常備軍カクプルとイェニチェリの軍楽がベースになっているのだ。

 かつて自分の祖国を壊滅状態に追い込んだ軍の音楽というのは、少々複雑なものがある――彼の属するワラキア公国軍を見事粉砕したのだから、敗軍の兵としてその実力を讃えるに吝かではないが。

 戦鍋旗カザンと呼ばれる野戦用の大鍋と匙(というか玉杓子)をシンボルにしたイェニチェリ軍団には、特に手を焼かされた――結局のところ、物量で劣るワラキア公国軍はオスマン帝国に押し負け、さらにハンガリー王マーチャーシュ一世のワラキア侵攻やモルダヴィア公シュテファン三世のワラキア占領といった事態を招いたのだ。

 だがそんなアルカードの胸中など、彼らには知る由も無いだろう――知る必要も無い。

 それに、彼にとって本当に忌まわしい記憶はオスマン帝国との戦闘における敗北ではない。帝国軍の残党狩りから逃れて孤立無援になり、月と星を頼りにブカレシュティにたどり着いたあの夜こそが、彼にとってもっとも忌まわしい記憶だった。

 物心つく前から育った屋敷で人間ではなくなった見知った人々を蹴散らし、本物の怪物となり果てたドラキュラと対峙して、最後にはみずからもまた人間ではくなった、あの記憶。

 ある者は噛まれ者ダンパイア、ある者は喰屍鬼グールと化して屋敷を徘徊する家人たちを自分のの手で皆殺しにし、果ては喰屍鬼の群れと化したブカレシュティの住人すべてをこの手で虐殺した、あの忌まわしきワラキアの夜。

「ドラゴス先生、どうかなさいました? 急に黙り込んじゃって――わたしたち、なにか失礼なことでもしてしまったでしょうか」 薫に話しかけられて、アルカードははたと我を取り戻した。

「ああ、いえ――すみません、ちょっと考え事をしてまして」 そう答えてごまかす様に笑ってから、アルカードは渡り廊下を抜けて食堂に足を踏み入れた。

 休日の夕食時間17時~19時――お薦めメニューはシーフードカレー。

 看板を見遣ってから、周りを見回す――教師らしい年配の人物も何人かいたが、いずれも教師用の中二階は使っていない。むしろ生徒と一緒に話しながら食事を摂っている者が多い様に見えた。

「あ、薫先生!」 聞き覚えのある声に振り返ると、背丈のそう変わらない男子生徒を連れた雪村香苗が手を振っているのが視界に入ってきた。一緒にいる少年は恋人だろうか。

 そんなことを考えている間に、香苗がこちらに歩いてくる――数歩遅れて、少年もこちらに歩いてきた。香苗は薫とゴグア、澤村とアルカードを順番に見比べて、

「ザザ先生と澤村先生もご一緒ですか」

「ええ」

「さっき誘われてね」 そう答えたのは澤村である。

「今日も食事は学食ですか、澤村先生?」 少年の言葉に、澤村が首を振る。

「ああ」

 なにかあるのだろうかと考えつつ、アルカードは澤村と少年を見比べた――こちらの疑問を察したのか、澤村がこちらに苦笑を向ける。

「嫁さんが出産準備で入院してまして。食事だけ食べて帰るんですよ」 犬の世話があるんで泊まれませんけどね、そう付け加えてくる。

「なるほど」 納得してうなずいてから、アルカードは少年に視線を向けた。

「君は確か、昼間談話室にいたね」

「あ、はい。ええと、日向恭介です。でもなんで知ってるんですか?」

「声が聞こえた――部屋の窓は間に合った?」

「あ、あのときですか。いえ、間に合わなかったです」 納得したのかうなずいて、恭介が雑誌が駄目になりましたと続けてくる。それを聞いて、アルカードはちょっとだけ笑った。

「それは残念だったね。アルカード・ドラゴスです。これからしばらく、鳥柴先生のお手伝いをすることになりました。よろしくね」

「よろしくお願いします」 そう答えて、恭介は差し出された手を握り返してきた。

「剣道かなにか?」 そう尋ねると、恭介は目を丸くしてうなずいた。

「はい」

「ドラゴス先生、行きませんか」 ゴグアに声を掛けられて、アルカードはうなずいた。

「ええ、すぐに行きます――君たちはどうするの? よかったら一緒にどう?」

 そう声をかけると、香苗はかぶりを振った。

「いえ、わたしたちは友達と約束がありますから」

「そう。じゃあまたね」 軽く手を振って、アルカードはゴグアたちを追って踵を返した。

「あの先生、凄いな」 感心した様な恭介の言葉に、香苗がそう?と生返事を返している。それを聞き流して、アルカードは歩を進め――やがてふたりの会話は、彼らの友人と思しき男女の声にまぎれて聞こえなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る