In the Flames of the Purgatory 18

 

   *

 

「――あんだって?」

 先ほどからがぶ飲みしている蒸留酒のせいで顔を真っ赤にした水夫仲間が、呂律の廻らない口調でそう尋ね返している――上陸した船乗りたちを相手にするために港の近くに用意された酒場兼宿屋の一階、それまで喧騒に包まれていた酒場は、テーブルのかたわらに立っているその男の言葉を契機に凍りついたかの様な静寂に包まれていた。

 胸と腰だけを隠した煽情的な衣装を身に着けた踊り娘たちが、それを横目に眺めながら片手間に銅の酒杯を磨いていた店主が、きわどい衣装の下に隠れた部分をステージの下から覗き見ようと必死になっていた酔っぱらいたちが、皆一様にまるで時が止まったかの様に沈黙を保ったまま、太陽を追う向日葵みたいにそろってこちらを凝視している。

 だがその視線の向かう先、テーブルの向かいに着いた船乗り仲間のそばに突っ立った長身の男はその沈黙も視線も気にも留めず、大量の雨水に濡れた外套のフードを払おうともしなかった。

 獣油を染み込ませて耐水性を持たせた黒い外套で全身をすっぽりと包み、身の丈ほどもある曲刀を背負っている。目深にかぶったフードのために表情は窺えず、外套の合わせ目から出した腕を鎧う装甲は水で濡れて薄く錆が浮いていた。

 装甲の中心線に沿って薄い鉄板が張り出した奇妙な構造の手甲で鎧われた手を伸ばし、男がテーブルの上に拡げた安物の羊皮紙の地図に指を置く。彼は赤いインクで×印の打たれた一点に指先を添え、癖が無く聞き取りやすい綺麗なポルトガル語で、

「この島に渡りたい」

 距離はここから百数十海里、航路によっては仕事のついでに寄れる場所。男の船賃の支払額にもよるが、普通の条件であれば決して悪い副業ではない。ないが――

「馬鹿言うんじゃねえよ!」 手にした銅の酒杯をだんっとテーブルに叩きつけながら、仲間のひとりが声をあげる。こぼれた蒸留酒が皿に盛られた芋の油揚げに降りかかり、それを注文した別の仲間がげんなりした表情を見せた。

「この島がどれだけ危険か、知ってて言ってるのか!?」

 男はその言葉に彼に視線を向けると、当然の様にうなずいた。

「もちろん知ってる。だから渡りたい」

「なんのためにだよ」

「それをおまえたちが知る必要は無い――余計な迷惑がかかるだけだ」 男はそう答えて、地図から指を離した。

「俺がその島に行って、目的を果たして帰るまで――怖いのなら片道でもいい。なんなら島が見えるところまで近づいたら小舟を一艘降ろして、それだけ残して帰ってくれてもいい」

 そう続けて、男が外套の下でなにやらがさごそとなにかを探している――外から見えないだけで、荷物でも持っているのだろう。

 彼がテーブルの上に置いた革袋が、中身の重さを示す様にごとりと音を立てる――拳ひとつぶんほどの大きさの革袋の緩んだ口から覗くぎっしりと詰まった真新しい金貨に、仲間がごくりと生唾を飲むのが聞こえた。

 陸送関連の輸送業者組合ギルドの焼き印が捺された革袋は、ポルトガル全土の輸送業者すべてが加入する組合ギルドのリスボン本部が払い出したものであることを示している。あの大きさだと中身は――中身がすべて金貨であれば――百枚ほどか。平民の漁師が地道に稼ごうと思ったら何十年もかかる金額。

「船賃の相場なんぞ知らんが、必要なら倍出そう」

 その言葉に、今度は別の同僚も息を飲む。

「悪いが――俺たちにゃそれは引き受けられねえ」

 感情を切り棄てて事実をはっきりと告げる口調で、船乗り仲間のひとりがそう返事をした。彼は名残惜しげに金貨の革袋を男に向かって押し返しながら、

「危険が大きすぎる――俺たちの船は漁船なんだ。そもそも外洋航海に向いた船じゃない。あそこの海は波が荒すぎて、俺たちの船じゃ到底渡れねえよ。転覆するか沈没するか、どっちにしてもたどり着く前におっぬのが落ちだ」

 その言葉に納得したのか、男は目深にかぶったフードの下でうなずいた。

「わかった。ほかをあたるとする」 彼はテーブルの上の地図を手早く丸めて紐で括り、金貨の革袋を取り上げて緩んでいた口紐を縛り直してから懐に戻した。去り際に金貨を一枚テーブルの上に放り出し、

「楽しんでるところを邪魔して悪かったな――飲み代の足しにでもしてくれ」

 そう告げて、男が脚甲の擦れる音とともに踵を返す。この酒場の二階が宿も兼ねているからだろう、男は部屋を取るつもりなのかカウンターに向かって歩き出した。

「おい、主人。外洋航海向けの帆船を乗員込みで一隻借り切りたいんだが、あては――」 という科白から察するに、どこかの商船や漁船に便乗していくことはあきらめて船を借り切ることにしたらしい。

「――待ちな」 横手から声を掛けられて、男が足を止める。

「おい、あれ……」

 男に声をかけたのは、屈強な体つきの大男だった。酒が入った赤ら顔、剥き出しになった筋肉質の腕はよく日に焼けている。彼らと同じくこの港町を拠点にする、貿易商の商船の乗組員だ。船乗りは日焼けした顔を酒精でさらに真っ赤にしながら、

「ずいぶんと羽振りがよさそうじゃねぇか。一杯奢ってくれよ」

「……」

 男はしばらくの間船乗りを観察していたが、やがて興味を失ったのか唐突に踵を返した。

「おい、待てよ――」 無視されたことに苛立ったのか、船乗りが男の外套の肩のあたりを掴む――次の瞬間には、船乗りはなにかに躓いて床の上に倒れ込んでいた。倒れた拍子に手放した銅製の酒杯ジョッキの中身が床にぶちまけられ、板張りの床を汚していく。

 その拍子に男が目深にかぶったフードが半端にめくれ上がり――煩わしげに男がフードを払いのけると、その相貌が露わになった。

 頬の肉の削げ落ちた、整った面差しに血の様に紅い瞳。冷たい眼差しは、しかし凍土よりも燎原を思わせる。癖のある金髪はうなじのあたりで束ねられており、肩から垂らしたその髪の房はまるで獣の尾の様だった。

 男が静かに見下ろす視線の先で、赤い顔を怒りでさらに赤くした男が立ち上がる。深酒のせいでふらついてはいたが、倒れるほどではないらしい。

「てめぇ――」 船乗りが短刀ナイフを取り出したことに気づいて、酒場にいた者たちの大半が息を飲んだ。店主は船乗りの表情に呑まれて口を挟めず、ただひとり男だけが動揺の気配も無く船乗りを見据えている。

 船乗りが手にした短刀ナイフを左右の手に何度も持ち替えながら、じりじりと間合いを詰める――男のほうはまるで動揺を見せないまま、男の挙動を目で追っていた。否――右足を少し引いたか。

 きえええ、と変な声をあげながら短刀ナイフを突き出した船乗りの体が、次の瞬間には宙を舞っていた。

「――待て!」 誰かの野太い声がかかる。それで男は、投げ飛ばされた船乗りに対する追撃動作を中断した様だった――といっても男がいつの間にか奪い取った船乗りの短刀ナイフでいまだ宙にある相手の胸元をえぐろうとしていることに気づいたのは、男が頭から床に落とそうとしていた船乗りの襟首を掴んで引きつけてからだったが。

 床の上に落ちた船乗りの踵が、だだんと音を立てる。一瞬の出来事ではあったが自分が殺されかけていたことに気づいているのかいないのか、男は襟首を掴まれたまま暴れる船乗りを気にも留めずに酒場の片隅に視線を向けた。

「部下が失礼をした――このとおりだ、悪かった」

 席を立ってフロアの中央に歩み出ながら、髭を蓄えた男が謝罪の言葉を口にする。

 髭の男は彼に襟首を掴まれたまま抵抗して暴れる船乗りに視線を向け、

「おまえ、最近は金も女も全然駄目だな」 そう罵声を浴びせてから、髭の男はあらためて金髪の男に視線を向けた。

「そいつを放してやってくれねえか」 彼が襟首を掴んでいるために首が締まっているのか、船乗りはなんとか振りほどこうとじたばたもがいている――髭の男の言葉に、金髪の男は掴んでいた襟首を放して船乗りの体を床の上に適当に放り出した。

「この馬鹿が、勝てる相手かどうかくらい確かめてから喧嘩売れ」 咳き込んでいる船乗りに向かって罵声を浴びせ、髭の男は再び金髪の男に視線を戻した。

「話を聞こうじゃねえか――どこに行きたいんだって?」 その言葉に、男が懐から取り出した地図を放り投げる――髭の男はそれを空中で掴み止め、中身を確認して盛大に顔を顰めた。

「――正気か? この島は悪魔が棲んでるとかで有名なところだぜ。この近海の船乗りで、知らない奴ぁいねえぞ――何隻もこの近海で消息を絶ってる。そりゃ誰も引き受けねえよ」

 そうだ。男が渡りたがっている島は今は全滅した人里があった離島で、近隣では何隻もの帆船が消息を絶っている。迷信深い船乗りたちが恐れをなすのも、ある意味当然だと言えた。

 男が喰い下がろうとしなかったのも、だからなのだろう――もう何件も、もしかすると何十件も断られたあとだったのだ。

 彼は髭の男の言葉に首をすくめて、

「らしいな。だから、そこに渡してくれる奴らを探してる――それなりに額は弾んでるつもりだが、誰も引っかからん。船会社をいくつか回って、商船組合ギルドも訪ねてみたが、紹介出来る業者は無いと断られた」 金髪の男の言葉に、髭の男はふむ、と下顎に手を当てた。

「そらまあ断られるさ。船会社は客船じゃなければ、航路が決まってるからな」

「そのついででいいんだがな」

「ふん?」

 髭の男はそう返事をしてから、

「さっき片道でもいいって言ってたな?」 髭の男の言葉に、金髪の男はうなずいた。

「ああ。さっきの男たちに話してた通り、別に帰りまで面倒を見てもらう必要は無い」

「帰りはどうするつもりだ?」

「島の正確な場所がわからないのが問題なだけだ――俺はその島の正確な場所を知らん。帰りはどうとでもなる――陸から島ひとつ探していくのは面倒だが、島から陸地に渡るぶんには方角さえ合っていれば適当に進んでもそのうち陸地に着くからな」

 金髪の男の口にした言葉の意味はさっぱり理解出来なかったし、それは髭の男も同じだっただろうが、髭の男はそれで納得することにした様だった。

「いいぜ。乗せていってやるよ」

 金髪の男が、その言葉に小さくうなずく。

「ただしうちの船も交易船だから、正規の仕事じゃない。仕事のついでだ――保険なんぞ利かないし、もちろんご大層なおもてなしを期待されても困る。契約書も書かない――島まで近づくつもりも無い。近海を通ったときに、そこで降ろす。帰りは無い――それでいいか?」

 その言葉に金髪の男はうなずいて、

「かまわない。その島が見えるところまで俺を連れていって、どれがその島かを教えてくれればそれでいい――船賃はいくらだ?」

「さっきのあんたの革袋、あれでいい――危険手当も込みにしても十分足りる」

「いいだろう。契約成立だ」 金髪の男はうなずいて、懐から取り出した革袋を髭の男に放り投げた。髭の男はその金貨の袋を空中で掴み止めてから、

「この宿の代金は込みでいい――それに船中での飲み喰いも含めてもかなり釣りが出る」 髭面の男はそう言ってから主人に視線を向け、

「おい、主人。この旦那の部屋を用意してくれ――部屋は一番いい部屋を、相部屋じゃなくて借り切りだぞ。なんなら女の手配も、」

 髭の男が声をかけると、酒場の主人がいそいそとカウンターから出てきた。

「あとでいい」 金髪の男はそう遮って、空いている席を適当に見繕って歩き出した。

「先になにか喰わせてもらおう」

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