In the Flames of the Purgatory 11

 

   *

 

 壁際にいくつかかけられた照明用のランプの周りで、その光に惹かれた蛾が飛び回っている――それをなんとはなしに眺めながら、御者、もとい牧場主は小さく息を吐いた。

 姪は牧場主を病院で降ろして診察のための手続きをしてから、あの金髪の若者とともに荷物の納品に回っている――荷馬車は空荷であれば牽くのにたいした力はいらないのだが、今は荷物が満載になっているのでそうもいかない。

 あの金髪の若者は荷物満載に加えて人間ふたりぶんの重量の馬車を軽々と引っ張っていたので、姪が彼に得意先回りの手伝いを依頼したのだ。

 保護者の立場上、牧場主としては思うところが無いわけでもないのだが、彼は特に気にした様子も無くその頼みを気楽に引き受けてくれた――ハードチーズの買い取りを申し出たから、どの程度の量を引き取れるかはっきりするまでは一緒にいなければならなかったからだろう。駄賃を支払うとも申し出たのだが彼はそれを断り、最終的に先ほど話をしていたチーズその他の買い取りの件で、予備のチーズが残ったらハードチーズや燻製類を中心に無償譲渡するということで決着した。

 順調に進んでいれば、そろそろ終わる頃合いだが――

「おじさん」 聞き慣れた姪の声に呼び掛けられて、病院の待合室で長椅子に腰を下ろしていた御者は顔を上げた――病院の玄関から顔を出した姪が、軽い足取りで近づいてきている。

「診断はどうだって?」

「薬はもらったが……処置はなにもしなかったよ」

 牛乳の香りのする姪が隣に腰を下ろすのを待って、御者はそう返事をした。

 でっぷりと酒太りした医者のあきれ顔を思い出しながら、

「医者の先生が舌を巻いてたよ、縫合技術に関しては自分より上だとね。縫合も処置も、野外でやるものとしては万全だそうだ」

「へえ」 感心したのか眉を上げる姪に、

「彼はどうした?」

「チーズとか燻製の残りを何個か渡して別れたよ。これから船に乗るんだって」

「そうか」 と返事をして、牧場主は窓の外に視線を向けた。雨はいまだやむ気配が無い。

 怪我をした馬や姪の足に合わせなければならなかったからだろう、リスボンに到着したのは普段よりもかなり遅い時間帯だった――無論あのままでいれば到着すら出来なかったわけだから、あの若者には感謝しかないが。

 長期保存に適した乾燥度合いの高いチーズとその燻製は、主に交易船に供給されて長期の保存食として利用される――彼らの牧場で作ったチーズやベーコン、ソーセージは主にその目的で販売しており、宿屋や酒場に卸すものもあるが船会社に直接販売するものが大半を占めていた。

 外箱が損傷したりして予備と交換したり、予備として用意したが必要無くて余ったものは、港に行って荷馬車を屋台代わりに小売りで販売する――船乗りが船上での食糧の欠乏に備えて長期保存の利くハードチーズやその燻製、ベーコンやソーセージの余り物を個人的に買っていくからだ。必然的に彼らが生産するチーズも、ハードチーズ類に偏っていた(※)。

「どれくらい残った?」

「ええと――」 姪が指折り数えながら、残った品物を挙げてくる――販売に回せる数は普段の八割ほどか。牧場主としては全部渡してもいいつもりでいたのだが、牧場主たちが販売するホールチーズは扱いやすさを優先してかなり小ぶりな品物なので、持ち切れなかったのかもしれない。もちろん、小売りにするという話を聞いて遠慮もしたのだろうが。

「じゃあ、支払いが済んだら港に行こうか――残ったぶんを捌いてしまわないとな」

「うん」 牧場主の言葉にうなずいたところで彼の名前が呼ばれ、姪は財布を手に立ち上がった。

 

   *

 

 結構いい部屋だな――少しだけ感心して、アルカードは与えられた部屋の中を見回した。

 教師寮は個室に加えて、個別にトイレや浴室もある。冷蔵庫はあらかじめ彼にあてがわれることがわかっていたからか、事前に電源が入れられて使用可能な状態になっている。少し古い型のAQUOSの液晶テレビや、冷蔵庫やらまであるのは正直少し意外だった――前にこの部屋を使っていた人間が置いていったものなのか、それとも入札かなにかでまとめ買いしたものなのかは判断がつかなかったが。

 ベッドはもともと部屋に備えつけのものの様だった。寝具は用意していなかったが、別にどうでもいい――もともと横になって寝るなどという習慣がついたのはここ八十年くらいのことで、吸血鬼になってからの彼は座ったり立ったままで眠るのが普通だった。かなり暖かくなってきているので、別にベッドに引き籠もらないと寝ている間に凍え死ぬ様なことは無い。

 娯楽のたぐいは自分で勝手に用意してくれということなのか、教師寮は学生寮と構造は似通っている様ではあったが、娯楽室のたぐいは無いらしい――学生寮の間取りで娯楽室として使われていた部屋は、汎用の資料室として使われている様だった。まあ、社会人を相手に共用の娯楽室など用意したところで仕方が無かろう。

 胸中でつぶやいて、アルカードは机の上に置かれた液晶テレビに手を伸ばした――「体が目当てだったのね!」「違うんだ、体だけじゃない! お金もだ!」――変なメロドラマが流れ出したのでスイッチを切る。とりあえずテレビが観られることだけ確認してから、アルカードは窓の外に視線を向けた。

 断熱性の高い二層構造になった窓の外側の硝子を、大粒の雨滴が叩いている――思った以上にひどい雨だ。

 と、こんこんと扉がノックされて、アルカードは玄関――と言っていいのかはよくわからないが――に視線を向けた。

「はい」

「ドラゴス先生? 鳥柴ですけれど」

「どうぞ、開いてます」

 失礼します、と声をかけながら、薫が扉を開けて顔を出した――アルカードの足元の荷物を見て、ちょっと目を丸くする。

「いつの間に持ってきていらしたんですか?」

 教師寮の彼の居室に案内されてから別れたのは、つい十分前の話だ――彼がすでに荷物を運び込んでいたのが意外だったのだろう。足元のトラベルバッグとバックパックを指差してそう声をかけてきた薫に、アルカードは少しだけ苦笑した。

 ついさっきです、と答えておく――土砂降りの雨の中徒歩で片道七、八分はかかる駐車場まで荷物を取りに行って戻ってきた割にはアルカード自身も荷物もまったく濡れていないことに不審をいだくかもしれないが、まあ深く突っ込まれることは無いだろう。

 実際のところ、アルカードとしては雨のおかげで荷物の回収が楽になったのだが。

 アルカードは空気が湿ればその範囲内において、霧に姿を変えていかなる障害も無視した長距離の移動が可能になる。衣服や装備品などの自分の身に着けるものであればどんなものでも持ち運ぶことが出来、大気中の水蒸気量によって持ち運び可能な重量は変動するもののそれ以外の荷物でも一緒に持ち運べる――彼の荷物は両方合わせてもアルカード自身の体重の半分にも満たないから、霧に姿を変えたまますべて一度にここまで運んでくることが出来た。

 霧に姿を変えた際は触媒となる湿気の多い空気さえあれば百キロ離れた場所にも瞬時に移動出来るから、むしろこの場合は荷物運びは楽だと言える――窓を閉め切った車でも、水蒸気の分子が入り込めるほどの隙間さえあれば容易に室内に侵入出来るからだ。

 アルカードは霧に変化して車のところまで行き、エアコンの吸気口から室内に侵入して、車内からトラベルバッグとバックパックを回収して戻ってきたのだ――霧に姿を変えたまま車内に入り込み、いったん実体化したあと荷物を持って再び霧に変化し、寮に与えられた自室に戻る。三十秒もかからない。

「ところで、なにかご用ですか?」

 その言葉に、薫が手にした茶封筒を翳してみせた。

「学生の名簿です。簡単にで結構ですから、目を通しておいていただけますか? 月曜日にわたしたちが担当するのは1-Aと1-Cですから、そちらを優先で」

「あ、これはどうも、わざわざありがとうございます」 アルカードは礼を言って茶封筒を受け取り、とりあえず机の上に置いた――そもそも現代的な学校教育を受けた経験の無いアルカードには自分が担当するのが高校一年だけなのかそうでないのか、それもわからなかったが。

「ところで先生、ここは男性寮ですが、女性がいらしても大丈夫なんですか?」

 ああ、と声をあげて、薫が小さく笑う。あまり派手さの無い容姿の女性だが、笑うと途端に華やいだ雰囲気になるのがわかった。

「大丈夫ですよ。女性職員が男性寮のフロアに入るぶんには問題ありません。逆は禁止されていますけれど」

 そうなんですか、と返して、アルカードはどうしたものかとちょっと考えた――別にこのまま帰せばいいだけかもしれないが、出来れば鏡花との話に出てきた昏睡した生徒について話を聞いておきたい。

 かといって、今日会ったばかりの未婚の若い女性をいきなり部屋に招じ入れるのもいかがなものか――まあこんな周りに人の気配がいくつもある場所では、仮に部屋に招き入れたとしても彼女が警戒することは無いだろうが、招き入れて話をしたところで茶のひとつも出せない。

 顔には出さずに考えているアルカードを見上げて、薫はくすりと小さく笑った。

「もしよければ、食堂にご一緒していただけませんか? 月曜以降、先生にはわたしの授業をお手伝いいただきますけれど、出来れば簡単にでも打ち合わせをしておきたいんです――食堂の使い方も、ご説明しておかないといけませんし」

 その言葉に、アルカードはうなずいた――ありがたい。いきなり昏睡した女生徒の話に話題を振っても、不審がられるだけだろう。

「喜んで」

 そう返事を返すと、彼女はほっとした様に微笑んだ。

「それじゃ、先ほど学園長から預かった身分証だけお持ちくださいね――食堂の支払いは現金じゃなくて、あの身分証を使って清算するんです」

「わかりました」 アルカードはうなずいて、鳥柴鏡花から受け取った封筒の中から身分証のカードを取り出した。


※……

 生乳から作られるナチュラルチーズの中で、特に水分量の少ないものをハードチーズと呼びます。

 牛や山羊、羊などの鯨偶蹄目の生乳に柑橘果汁の添加や乳清発酵で酸乳化したのち、加熱やレンネットの添加などでカゼインを主成分とする凝固物カード乳清ホエイと呼ばれる水分に分離し、脱水したものがフレッシュチーズです。

 これを熟成したり凝固段階で手を加えたりカビを植えつけたりして様々なチーズが作られるわけですが、ハードチーズはカードと乳清ホエイを分離させる工程で加熱しながら攪拌することでカードの凝縮を促し、さらに型に詰めたカードを圧縮することで水分を抜いて、長期間保存することで熟成を進めます。

 熟成期間は半年から三年程度で、品物によって様々です。

 熟成が進むとリンドと呼ばれる外皮が形成され、自然に内部が保護されていきます。

 日本の基準では水分値によってハードタイプとエクストラハードタイプに分類され、水分含有量を根拠に分別されます。チェダーチーズはセミハードと呼ばれますが、日本の基準ではハードチーズに属する様です。まあ全部がそうではないだろうと思いますが。

 ハードチーズは水分の含有量が低いぶん傷みにくく保存性が高いのが特徴で、熟成が進んで旨味が深い品物が多いです。

 さらに燻製にすることでより保存性を高めることが出来、作中で彼らが生産供給しているチーズはすべてハードタイプもしくはエクストラハードタイプ、およびその燻製です。

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