In the Flames of the Purgatory 8

 

   *

 

「……ん……」

 ガラガラという振動に、ややあって目を醒ます――牛飼いの少女が身を起こしたのは、見慣れた馬車の幌の中だった。すでに外は雨が降っているらしく、幌を雨滴が叩くばたばたという音が聞こえている。

「……あれ?」

 どうしてこんなところで寝ているのだろう。確かリスボンの港町へ、船乗りや酒場、宿屋などに納品する乳製品の配達に出かけている最中だったはずだ。そのときに――

「――っ!」

 なにがあったのかをそこで思い出して、少女は自分の体を抱きしめた。そうだ、山賊に襲われたのだ。どこか別の場所から移動してきたという様な話もしていたが――

 見下ろしてみても、体に違和感は無い――あの大男に弄ばれはしたが、純潔を破られはしなかったらしい。否、記憶が途切れる直前にあの大男に押し倒された。もっともあれは押し倒されるというより、倒れ込むのに巻き込まれた様な感じだったが――

 身じろぎしたとき横でうめき声が聞こえてきて、少女は横を見下ろした。

 親を亡くした彼女の面倒を見てくれている叔父が、隣で横になっていた――上衣はそのままだが、下衣だけ脱がされている――その理由はすぐにわかった。

 下着だけになった下半身、右太腿に血の染みた包帯が巻きつけられている。治療の跡だ。

 ということは、あの無頼漢どもの仕業ではあるまい。彼らが治療をしてくれるとも、そもそも治療の技術があるとも思えない。それに、ふたりを拘束していないのもおかしな話だ。

 あらためて見回すと、馬車の車内はきちんと整頓し直されていた――彼女たちの腕力では積み上げられなかった天井際までチーズやバターの箱が積み上げられ、荷崩れしない様に固縛されている。そうやって人ふたりを寝かせられるだけの場所を作ったのだろう。

 身体は濡れていない――つまり、馬車の中に入れられたのは雨が降り出す前だ。

 馬車が動いているのは間違い無い――街道の敷石の段差を踏むたびに生じるガタンという震動の感覚が、体が覚えている普段よりも広い。つまり、いつもよりも馬車の進む速度が遅いのだ。

 自分は荷台にいて、叔父も荷台にいて。では誰が手綱を握っているのだろう?

 あのあとどうなったのかはわからないが、話し声もなにも聞こえない――山賊に連れ去られている最中なら話し声が聞こえてきそうなものだし、堂々と街道を通るとも思えない。先ほどから聞こえてくる足音は二種類――ガチャガチャという耳障りな足音は、甲冑を着た人間のものだ。かつかつという足音は――馬の蹄鉄のものだ。

 外から馬のいななきが聞こえてくる――二頭ぶん、どうやらロドリゲスとディアーボの二頭の老馬は無事らしい。

 だが、今のいななきは馬車の車体の横から聞こえてきた――馬が牽いているわけではないのか?

 そうっと幌を押しのけて外を覗くと御者台に寝かせられた長大な長剣、その向こうに黒い外套で全身を包んだ人の姿が見えた。まるで荷車の様に馬車の車体を引っ張りながら、片手で二頭の馬の手綱を引いている。

「こら、そっちに行くな。行くなと言ってるのに」 若々しい声でぼやきながら、外套を纏った人物――男だと声でわかったが――は手綱を引っ張った。

「時間がかかると、それだけおまえらの飼い主を医者に診せるのが遅れるんだぞ。おとなしくついてこい」

「あの――」

 御者席越しに声をかけると、彼はいったん馬車を止めて背後を振り返った。彼は幌の隙間から顔を覗かせた少女の姿を目にするなり、

「起きたか――ちょうどいい。ここからリスボンまであとどれくらいだ」

 そんな質問を口にする――活力に満ちあふれた、若々しくしかし妙な落ち着きも感じさせる声。言葉はまるで癖の無い、聞き取りやすいポルトガル語だった。

「そんなことより、わたしたちを襲ってた山賊が――」 まだ近くにいるんじゃ、と続けようとしたところで、少女は眼前の男がかぶりを振るのに気づいて言葉を切った。

「あの虫けらどもなら、もう全員死んだ」 短くそう返事をしてから、彼は少女の反応を待たずに質問を繰り返した。

「ここからリスボンまで、あとどのくらいかかる」 とりあえずその問いに答えたほうがいい気がして、少女は周りを見回した。街道の分岐点を直進する目印にもなっている見慣れた巨木が視界に入ってきて、彼に視線を戻す。

「馬が牽いてれば、あと半時くらい」

「よし」 少女の返答に、男がうなずく。先ほど馬を相手に話しかけていた内容からするに、彼はあの盗賊の一党ではない――盗賊たちからふたりと荷物を奪い取って自分のものにしようとする悪党でもない様だ。

「君がわたしたちを助けてくれたの?」

 少女のその問いに、彼はかぶりを振った。

「俺はあの盗賊ゴロツキどもを殺しただけだ――おまえたちに興味は無いし、こうしておまえたちと馬車を運んでるのはついでだ。民間人の救助は依頼内容に含まれてないからな」

「……ついで」 鸚鵡返しにする少女に、

「ついでだ。そこの伝票にリスボンの船乗り向けの宿に納品するとか書いてあったからな――リスボンの納品はもう終わってほかの町に行く途中だったんなら、まああきらめろ」

「あ、うん。リスボンで合ってるけど」

「そうか」 彼はそう返事をしてから御者台の後ろの物置に丸めて置いてあった叔父の雨合羽を手に取り、幌の中に突っ込む様にして少女に差し出した。

「さて、ついでだ。動ける様ならそっちの馬の手綱を取ってくれ。ひとりで馬の手綱を取りながら馬車を引っ張るのは、結構大変なんでな」

「わかった」 うなずいて合羽を受け取り、彼女は狭い空間で叔父を踏んだりしない様に気をつけながら雨合羽を羽織った。そのままに馬車の後部から降り、車体の側面を廻り込む。合羽を羽織って荷台から降りると、大粒の雨が合羽の布地をばたばたと打った。

 ロドリゲスとディアーボの二頭の老馬は、いずれも矢疵を受けてはいるものの重篤な後遺症は無さそうだった――馬に使ったら包帯がいくらあっても足りないからだろう、帯状に細く切り取った雑多な布を結び合わせて長くしたもので傷口を覆われている。あまり清潔とは言えない布の出所がどこかは、まあだいたい想像がついた。あの無頼漢どもの身ぐるみを剥いだのだろう。

 二頭の馬はハーネスを車体からはずされて、今は彼に手綱を取られて歩いている――彼が差し出してきた手綱を受け取って、少女は寄ってきたロドリゲスとディアーボに手を伸ばした。

「大丈夫? 傷は痛くない?」 二頭の老馬の首、ぐっしょりと濡れそぼった毛並みを撫でてやりながらそう話しかけると、ロドリゲスとディアーボはぶるぶるといななきを返した。

 若者が外套を翻し、荷物を満載した馬車を引っ張って歩き出す。それに合わせて、少女も歩き始めた。

 ただ歩いているだけで、合羽の下から出した服の袖が暴風に煽られた雨粒を吸って濡れてゆく。合羽は背後から吹きつける風雨に煽られて両足を叩く様にしてふくらはぎに纏わりつく。靴に水が入って、徐々に不快な感触を残し始めた。

 まあそれでも、正面から吹きつけるより何倍もましだろう。

「ねえ、さっきさあ、依頼されてるって言ってた?」

「なに?」

「あの人たちをやっつけ――殺す様に、誰かに頼まれたの?」

「もっと北のほうにある運送業者の組合ギルドだ。ビラフランカデシラとアルベルカとの間の街道でかなり被害が出たらしくてな、別件でたまたま組合ギルド長の乗った馬車が襲われてるのを助けた縁で俺が頼まれた」

 と事情を気軽に説明するのは、その依頼が特に後ろ暗いものではないからだろう――山賊を殺せと依頼されて殺すことに、問題などあろうはずもない。

「襲撃をかけて七割がたは始末したが、頭目を含めて十数人に逃げられた。それがおまえたちを襲っていた奴らだ」

「傭兵なの?」

「否、ただの真似ごとだ。これはただの小遣い稼ぎだ」 そう答えた彼が掴んだ馬車の車体と馬体をつなぐ棒状の部品に、白い布の包みがぶら下げられている。大きさは人の頭ほど、下側から血がしたたり落ちているところをみると、まあ中身は想像するまでもあるまい。

「じゃあさ、なんでわたしたちを助けてくれたの?」 依頼外だってさっき言ってたよね?と続けた彼女の問いに、

「それに理由が必要か?」 さもくだらないことを言われたと言いたげに、彼はそう返事をしてきた。

「敵でもない限り、助けられる者を見棄てておく理由はあるまいよ――少なくとも、俺は見棄てて立ち去るわけにはいかん」

 後半は意味がわからなかったが、彼はそんな返答を返してきた。

「じゃあさ、これからまた北に戻るの?」

 彼が先ほど名前を出したビラフランカデシラはテージョ川流域、リスボンから街道を北上していった先にある街で、アルハンドラよりさらに北側に位置する。

 テージョ河はアルハンドラのあたりで急激に川幅が広くなるのだが、それよりもう少し北側で、ここからだとかなり遠い(※)。

「否、俺はこのままリスボンに行く。船賃を稼ぐための仕事だったからな」 リスボンの組合ギルド支部に行けば、報酬をくれる――そう付け加えて、彼は片手で盗賊の頭の生首を包んだ布を小突いた。

「虫けらの頭ひとつで金貨一千枚。まあ悪くない稼ぎだ」 そう続けてくる。金貨一千枚を支払うとなると、その運送業者の組合ギルドは相当山賊に手を焼いていたのだろう――金貨一千枚というのはものすごい大金だ。それだけの金額を支出しても掃討する価値があるほど、厄介な相手だったということなのだろうか。

「船に乗るの?」

「ああ」

「いいなあ、わたしも一度でいいから船に乗って海に出てみたい」

「故郷で平穏無事に暮らすのが一番だと思うがな」 あこがれを口にする少女にそう返事をする彼の言葉は、どこかさびしげだった。

「君はどこから来たの?」

「ワラキアだと言ってもわからんだろう」 彼はそう返事をして、石畳が少し沈んで水溜まりになっているところに足を踏み入れて舌打ちを漏らした。

「ここからだとかなり東のほうだ」

「船に乗ってそこに帰るの?」

「否、内陸だからな。それに、俺の故郷はもう無い」 ぎくりとする様なことを言ってくる。

「住民を皆殺しにしたからな。もう俺が知ってる奴はひとりもいない」

 そう答えたところで、彼は足を止めた。

「どうしたの?」 少女の問いには答えずに、彼は馬車の車体後部へ廻り込んだ。一緒についていくより早く、

「目が醒めたか?」 という若者の言葉に続いて、短い悲鳴が聞こえてくる――御者席側から幌の中を覗き込むと、幌の合わせ目からにゅっと顔を出した若者の姿を目にした叔父がこちらに向かって後ずさってくるところだった。

「おじさん」 背後から呼びかけると、ひっくり返った亀みたいな動きで後ずさっていた叔父が肩越しに振り返り、

「ぶ、無事だったのか」

「うん――その人が助けてくれたみたい。なんでそんなに驚いてるの?」

「おまえの親戚か」 若者の問いに、彼女は小さくうなずいた。

「うん、わたしの叔父さん。母さんの弟」

「そうか」 若者はうなずいて、

「まあ、驚くのも無理はあるまいよ――彼はおまえと違って、俺が奴らを始末するところを見てるからな」 彼はそう返事をしてから、

「無理もないとは思うが、別に俺が痛めつけたわけでもないのにおびえられるのもそれはそれで傷つくな」 そんなぼやきをこぼして小さく溜め息をつく。

 それが彼なりの冗句だと気づいたのは、数秒たってからだった――本人は冗談が通じなかったと思ったのか反応を待つのをあきらめたらしく、

「それより、傷はどうだ」

 叔父はその質問でようやく自分の脚絆が脱がされて傷が手当てされているのに気づいたらしく、

「これは、君がやったのか」

「まあな。傷を洗浄してから、縫合しておいた――傷跡は残るだろうが、順調に経過すれば後遺症にはならないはずだ。今リスボンに向かってるから、向こうに着いたら医者にかかってちゃんと診てもらえ」

 彼はそう返事をしてから、荷台に積んであった見慣れない大きな雑嚢に手を伸ばした。雑嚢を手元に引き寄せて、目深にかぶっていた外套のフードを払いのける。

 まずは整った面差しの若者だと言っていいだろう。年齢は自分とそう変わらない、十代半ばを数年過ぎたくらいだろうか。長旅で薄汚れた暗い色合いの金髪を長く伸ばし、少々伸びすぎた前髪の向こうの瞳は血の様に鮮やかな深紅だった。

 籠手と拳の装甲が分割された構造になった手甲は、水に濡れたせいか鋼材の表面が薄く錆びている――下膊の外側に鉄板フランジが張り出した、奇妙な構造になっているのがわかった。

「どれ、脚絆を穿く前にもう一度傷口を見せろ。包帯と綿紗を変えて、もう一度消毒をし直しておこう」


※……

 リスボンとビラフランカデシラは直線距離で五、六十キロくらい離れています。もちろん、当時としてはかなりの距離です。

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