Dance with Midians 24

「あ? ……」

 なにが起こっているのか理解出来なかったのか、坂崎が間の抜けた声をあげ――次の瞬間、口蓋からあふれ出した大量の赤黒い血が床を濡らす。

 それは全長七メートルはあろうかという、コンクリートで出来た鈎爪状の物体だった――だがそんな物でも高速で振るえば、人体くらいは簡単に貫くらしい。

「ぎゃぁぁぁぁッ!」 それでもまだ悲鳴をあげる余力はあったのか――坂崎の喉から悲鳴が漏れる。だが次の瞬間鈎爪が振り回された拍子に彼の体は爪からすっぽ抜けてあさっての方向に飛んでいき、カウンターの角に背中から叩きつけられて――ぼきりという嫌な音ともに背骨が折れたのか、そのまま動かなくなった。

「……!?」 戦慄しながら、背後を振り返る――そこには巨大な影が屹立していた。

 発電機の電力供給のおかげで、無事な蛍光燈はちゃんと点燈している――それが逆光になって詳細は窺えない。が、下から見上げた限りでは、それは石で出来た巨大なカニの様なものだった――左右四対の脚と、巨大な両腕。カニと違うのはハサミが無く、代わりに両腕には鈎爪がついていることだった。

 その体の大部分は床に沈んでいる――否、どうやったのかは知らないが、板張りの床を突き破って床下から這い出してきたのだ。

 いったいどうやってこれだけ大きなコンクリートの塊が滑らかに動いているのかはわからないが、間違い無く一体の塊であるにもかかわらず、それは滑らかに動いて床から這い出した。

「うわぁぁっ!」

「な、なんだありゃ……!?」

 男たちが口々に悲鳴をあげる――巨大なカニは腕同様に先端が鈎爪状になった脚をついて、体を完全に床下から引き出した。

 不思議なことにあれだけ巨大な物体が床から這い出てきたにもかかわらず、板張りの下のコンクリートの構造材には損傷が見られない。

「『がーごいる』か……」

 天を仰ぐ仕草をしながら、コートを身に纏った青年が小さく息をつく。

「やられたな」 法衣の男もそう答えて、胸元で厄払いの仕草をしながら溜め息をついた。

 ふたりの男たちは目の前で荒れ狂うカニから視線をはずし、吹き飛んだ坂崎のほうを見遣っている――その視線を追うと、カウンターに激突して即死した坂崎の体が先ほどふたりの乱入者たちに頭蓋を陥没させられた三人同様まるで藁灰の様な塵になって崩れ始めたところだった。そしてその崩れた塵も、まるで元から存在しなかったかの様に衣服だけを残して消えてゆく。

 ぱん、ぱん――乾いた銃声が響き渡り、同時にカニの様な怪物の頭部で一瞬ではあるがなにか光った。拳銃を持っていたチンピラのひとりが発砲したらしい。ただ光は純白で、火花の様には見えなかったが――

 いずれにせよその攻撃はなんの意味も為さず、ただカニの注意を彼らに向けただけに終わった。一歩脚を動かすたびに先端の爪で床を引っ掻きながら、カニがそちらに向き直る。重い風斬り音とともにカニが爪を振るうと、攻撃の軌道に巻き込まれた男たちの体がその衝撃に耐えられずにばらばらに砕け散った。

 引きちぎられた手足の破片やその正体を想像もしたくない様な長い紐状の物体が宙を舞い、周囲にべったりと血糊が飛び散る。

「う、うわぁぁぁっ!」 悲鳴をあげながら、男たちが手にした拳銃を発砲する。勇敢にも警棒を手に立ち向かった者もいた。

 だが、直径一メートルはあろうかというサイズのコンクリートの脚を警棒で殴りつけたところで、どうなるというほどのものでもない――男の体は持ち上がった脚に跳ね飛ばされ、次の瞬間倒れ込んだその腹の上に降ろされた脚の尖端に腹腔を貫かれた。生きたままピンで刺された昆虫の標本の様に手足をばたつかせて、男が水音の混じった悲鳴をあげる。

 カニが両腕の鈎爪を振るい、攻撃範囲に巻き込まれたチンピラたちの体が薙ぎ払われてばらばらになりながら吹き飛んだ。そのたびに引きちぎられた手足の破片が飛び散り、夥しい血糊が床を汚す。

 びしゃりと音を立てて――すぐそばの床の上に、なにかがへばりついた。

「きゃぁぁぁぁっ!」

 それが跳ね飛ばされてきた脳髄なのだと悟って、思わず口から悲鳴が漏れた――それを聞きつけたのか、チンピラどもを蹂躙していた巨大なカニが、再びこちらに向き直る。だがこちらが至近にいるせいで見つけられなかったのか、カニは地響きとともに数歩後ずさった。

 それでこちらを見つけたのか――カニが右側の前脚を振り上げる。次の瞬間には、鎌の刃にも似た形状の鈎爪が彼女の体を粉砕するだろう。

 うなりとともに振り下ろされた鈎爪が、蛇に睨みつけられた蛙の様に動けないままの理紗の体を粉砕せんとして肉薄してきた。

 だが――

 ばさりという風を孕む音とともに、視界を黒いものが埋め尽くす。

 ギャァァァァッ!

 ヒィィィィィッ

 あァアぁあァあァッ!

 突如として――男性のものとも女性のものともつかぬ悲鳴が耳に届く。

Woooaaaalieeeeeeeオォォォォァァァァラァイィィィィィッ!」 次の瞬間、理紗の前に立ちふさがる様にして前に出た黒いコートの青年が咆哮とともに右腕を振るった。

 彼がなにも持っていないのは、明らかだった――にもかかわらず振り下ろされたカニの鈎爪状の前脚が火花とともに半ばから切断され、慣性に任せて背後の壁に激突する。

 背後を振り返ると――切断された前脚は轟音とともに背後の壁に衝突し、床の上に落下したところだった。

「はっ――」 それを肩越しに見ながら――黒いコートの青年が端正な口元をゆがめて、背筋の寒くなる様な笑みを浮かべる。

「ああも据わりが悪いんじゃ、漬物石にもならねえな」

 カニが残ったもう一方の前脚を振り上げ、そして鈎爪を水平に振るう。今度の一撃は間違い無く、彼と彼女を同時に巻き込むだろう。

 が――

 一瞬視界が暗くなる。それがあまりにも急激な移動によって引き起こされたブラックアウトであるなどと、彼女に理解出来るはずもない。だが次に視界が開けたとき、彼女の体はもうひとりの少女のかたわらで床の上に放り出されていた。

 すぐ横には、黒いコートを羽織った金髪の青年。いったいどこから聞こえるのか、周囲には老若男女のすさまじい絶叫の合唱が響き渡っている。

「きゃぁぁ!」 背後で、もうひとりの少女が悲鳴をあげる――あわてて振り返った彼女の視界に飛び込んできたのは、床を突き破って姿を見せた無数のカニだった。

 先ほどのが親ガニなら、こちらは子ガニと言うところか――体高五メートルに至ろうかという親ガニに比べれば小さいが、代わりに数がざっと数えただけでも三十を超えている。

「まあ素敵。またえらく趣味の悪い玩具を置いていったもんだ」

 たいして動揺もしていない口調で、コートの青年がそんなことをつぶやく。彼はコートの裾を払い、棒状のものを肩に担ぐ様な仕草をして一歩前に出た。

「ライル、細かいのは任せた。俺はあのデカブツをやる」

 はいよ、と適当に手を振って、法衣の男がコートの青年を送り出す。そして彼は子ガニの群れに向き直り、わずかに目を細めた。

「さてと――」 法衣を身に纏った男が、手にした包みの布を解いて中身をあらわにする。

 布の包みの中から姿を見せたのは、槍だった――豪奢とも言える様な実用性とは無縁の装飾が施された拵えは、しかし至高の芸術品と言うよりはまるで神像を前にしたかの様な荘厳さを湛え、見る者に感銘をいだかせる。だが、それを槍と呼んでいいものかどうか。

 槍の穂先は大剣と呼べるほど長大で、三メートル近い全長の半分近くを刃が占めている。鎬の部分に刻まれた複雑な紋様には虹色の光が走り、絶えず色調を変えながら明滅している。そして穂先からはまだ血を吸ってもいないのに、ぽたりぽたりと紅い血が滴り落ちていた。

「俺も行くかよ」 そうつぶやいて――首から下げた十字架を揺らし、法衣を身に纏った男はかすかな笑みをこぼして床を蹴った。

 

   *

 

 回避出来たのは奇跡に近かった――無限に引き延ばされた一瞬の中で、頭を傾けてその一撃を躱す。それでも鋏の先端が右の頬をかすめ、皮膚が裂けて血が噴き出すのがわかった――もっとも心配しなければならないのは傷そのものではなく、不潔な園丁鋏で受傷したことによる感染症だろうが。

 間合いが近すぎる――体を旋廻させながら、ヴィルトールはかたわらを通り過ぎた老人の背中を思いきり突き飛ばした。

 ごん、と音を立てて壁に顔面から激突したヤコブの背中に長剣の鋒を突き立ててくれんと廊下を駆けるも、その突進はローゼの攻撃によって中断を余儀無くされた。

 掴みかかってきたローザの腕を短剣で傷つけて、ひるんだ隙にその体を蹴り剥がす――あらためて、騎士としての剣術だけでなく白兵戦のための組み討ちの技術も積極的に研究していた養父アドリアンと養祖父ラズヴァンの賢明に感謝せざるを得なかった。今といい先ほどの戦闘といい、叩きこまれた技術の蓄積が無ければこうも迅速には対応出来なかっただろう――子供のころは、蹴り技や投げ技まで容赦無く仕込んでくる養父をずいぶんと恨んだものだが。

 ヤコブは顔面から壁に激突した時に脳震盪でも起こしたのか、その場で頭を押さえてふらついている――すぐには回復しないだろう。

 ならば、まだ反撃の能力を維持しているローザを先に仕留めたほうがいい。

Wooaaaraaaaaaaaaaaaaオォォォアァァラァァァァァァァァァァァッ!」 咆哮とともに――踏み込み様に一撃でローザの頭を薙ぐ。壁に切断された髪の切れ端が混じった血糊がびしゃりと音を立てて飛び散った。鼻から上を削り取られて、胸の前で手首を押さえていたローザが祈る様な姿勢で膝を突き、そのまま崩れ落ちる。

 子供のころはよく懐いていたものだが――しばらくぶりの再会で、みずからとどめを呉れることになるとは思いもしなかった。

 視線をめぐらせ、再び襲いかかってきているヤコブに視線を呉れる――ヤコブはすでに脳震盪から回復したのか、再び剪定鋏を向けて襲いかかってきていた。

 こちらの顔をめがけて繰り出されてきた一撃を、体を沈めて避ける――動きは速いが、それだけだ。素人の悲しさか、視線の動きと予備動作で次の行動が読めてしまう。それに、やはり老齢だからか廊下で交戦した彼の息子たちほどの速さではない。

 ヴィルトールはそのまま踏み込んで、手にした長剣の鋒を老人の下腹部に突き立てた。鋒が背中まで突き抜け、鍔元まで腹に喰い込む。

「がぁぁぁっ――」 老人が水音の混じった悲鳴をあげるのが聞こえた――それでもまだこちらに攻撃する意思があるのを見て取って、太腿の隙間から引き抜いた刺殺用の短剣を脇腹へと突き立てる。

 ぎりりと奥歯を噛んだとき、ヤコブの口蓋からしたたり落ちた生温かい血が首筋を伝い落ちた。

「あ、あ、若、様――」

 ヤコブが自分を呼ぶ声が聞こえる。

「私を、殺すのです、か――」

 その言葉に、彼は短剣をヤコブの脇腹から引き抜いた――逆手で握っていた短剣を両手で握り直し、肋骨の隙間から肺を貫通して心臓に届く様に角度を定めて再び突き立てる。

 それが致命傷になったのか、庭師の体が崩れ落ちた。

 動かなくなったのを確認して、そのままよろよろと後退し、壁に寄り掛かる。

 早鐘の様に脈打つ心臓を甲冑の上から手で押さえ、呼吸が整うのを待って、ヴィルトールは壁から離れた。

 ヤコブの腹に突き刺さったままの長剣と刺殺用の短剣を引き抜き――足音を耳にして、背後を振り返る。

 見知った顔が、そこにいた。

 炎と同じ色合いの輝く様な赤毛を肩のあたりで切り揃えた十代後半の少女が、静かに立っている。まるでなにかの袋の様に左手から下げているのは袋などではなく、人間の生首であると知れた。

 手にはぼろぼろに錆びついた短剣――ヴラド二世のもとで武勲を立てた、養祖父ラズヴァンの遺品のはずだ。

 保存状態がさしてよくなかったために錆びついて、刃毀れもそのままになっている――別に装備として実用するつもりは無かったからだろうが、記憶にあるよりも刃毀れがひどく血脂でべとべとになっている。彼女が芋の袋みたいにぶら下げている生首を、胴体から切り離すのに使ったからだろう。

 ガタガタの刃に返り血と衣服の繊維、こそぎとられた肉片がこびりついて真っ赤に染まった短剣と口の周りを紅く染める血糊、まるで袋に入った果物の様に髪の毛を掴んでぶら下げた人間の生首が、少女の飛び抜けて美しくはないが溌溂とした容貌を禍々しく彩っていた。

 剣の柄を握り締めた指が痛むのを自覚しながら、奥歯を噛む――震える唇が、にこりと笑う少女の名を紡ぎ出した。

「……ラルカ」

 ラルカと呼ばれた少女が、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。口の周りが真っ赤に染まっている――唇の端が吊り上がり、白い歯が覗いた。

 身構えるべきだ――頭ではわかっていたが、体が動かない。

 金髪の女性――彼女の母親の首を吊るしていた髪が少女の指の隙間からずるりと抜け落ち、躊躇うこと無く歩みを進める少女の爪先に蹴飛ばされていずこかへと転がっていった。

 少女が彼の眼前で足を止める――喩え様も無い懐かしさとおぞましさを同時に感じながら、彼は目の前の少女の瞳に魅入られて動くことが出来なかった。

 ラルカが――彼と話すときにいつもそうしていた様に――どこか照れくさそうな、はにかんだ様な微笑とともに上目遣いでこちらを見上げる。

 小さな唇が動いて、体の一部であるかの様に肌に馴染んだ声で彼の名前を紡ぎ出した。

「ヴィー――」 そして次の瞬間、焼ける様な激痛とともに――帷子の隙間から刺し込まれた短剣の鋒が、彼の脇腹に柄元まで突き立てられていた。

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