敷島さんの呪われたナイフ

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 とても悲しい夢を見た。敷島さんの泣いている夢だ。誰かの死を悼んでいるようで、その悲痛ばかりがじくじくと僕の胸を締めつける。敷島さんの為ならば、僕はネクロノミコンだろうと手中に収め、どんな悪党だろうと善人だろうと蘇生させてみせるのに――。


「敷島さん……?」

 ベッドの隣に、僕に縋って嗚咽を漏らす、敷島さんの姿がある。狂った人形遊びなんかに現を抜かさない、いつもの、学校の、敷島さんである。僕がそうっと黒髪に触れると、ぴくりと肩が跳ね、恐る恐るといった様子で、ゆっくりと、顔を上げる。

 窓から差し込む眩いくらいの月光に、彼女の姿がぽわあっと照らされて、神秘的である。驚きに染まる表情も、黒真珠みたいにきらきらの黒目も、学校で見慣れた制服姿も、一切合財、美しい。ただ、涙だけは見たくないので、僕はシャツの袖口で、不意打ち気味にそれを拭った。

「妹尾くん……」

 ぽつりと呟く。プリメラでも、リーリエでも、フォングハインでも、シュトゥールでもない、僕の苗字を彼女が呟く。彼女に名前を読んで貰えたのは、何時ぶりだろうか。気づけば、僕の身体を簀巻きのようにしていたガムテープや麻紐が、切り捨てられてフローリングに散らばっている。その傍らに、例の、血みどろのサバイバルナイフが転がっているが、月の光の下にあると、あれすらも、禍々しくは見えなくなるから不思議である。

「妹尾くん」

 泣き止んで、妙に生真面目になった敷島さんが、僕を真正面に見つめてくる。僕はどきどきして見つめ返す。こんな間近で彼女の顔を見るのは、何気に今夜が初めてである。

「私――」

 彼女の声に被さるように、サイレンの音が聞こえ始めた。月光の注ぐ格子付きの窓の向こうから、明確にこちらへ近づいてくる気配を感じる。僕らは揃って窓の方を見て、どちらからともなく、また見つめ合う。敷島さんの瞳が、とろんとしている。僕の背筋はひんやりと凍りつく。

 ――酷いわ、アリス。

 ぽろぽろ、ぽろぽろと涙を零しながら、敷島さんは低く呟く。見開かれ、憎悪に淀んだ暗い瞳が、射殺すように僕を睨めつける。ぎりぎりと噛んだ唇から、容赦なく鮮血が滴り落ちる。

「敷島さん!!」

 僕は彼女へと手を伸ばす。しかしするりとその手を逃れて、彼女はすっくと立ち上がる。そのまま辺りに目を配り、ナイフを見つけ、拾い上げる。

「綺麗ね」

 紅く濡れたナイフの刃を、夜のライトの下へ掲げて、惚れ惚れとする、狂った彼女。僕は、怖ろしくも、そんな彼女を美しく思う。

 ただ、今回ばかりは事情が違う。すぐそこまで、サイレンの音が迫っているのだ。僕は壁に手をかけて傷口の痛みにヒイヒイ言いながら身体を起こし、貧血でふらつく足を踏ん張り、精一杯で立ち上がる。彼女は未だ、彼女の手ほどもあるナイフの刃に、じいっと見入っている。

「しき、島さん。早く、逃げて……」

 彼女が警察に捕まってしまうようなことは、出来れば、僕は避けたかった。その場凌ぎでしかなかったとしても、目の前で、どこの馬の骨とも知れない連中に彼女が押さえつけられたりするのを、見ていたくはなかった。もし、そんな状況になってしまったら、きっと僕は、半狂乱で警官に襲い掛かるに違いない。――僕も、大概、狂っているのだろうか?

 敷島さんは僕の呼びかけに反応を示し、ちろっとこちらへ視線を向けた。黒目がブラックホールみたいに、どこまでも、暗く澄んでいる。もう、涙は流れていない。窓硝子に残った雨粒の痕跡のように、微かに、痕が残るばかりだ。

「敷島さん……、早く……」

 ひゅうひゅうと、鳩尾の辺りで空気が抜けている気がしてくる。息をするだけで、全身の内も外も、焼かれたみたいに痛みが走る。意識はもやもやするし、喉がカラカラだし、なんか、寒い。

 僕は敷島さんの手を取ろうと、一歩、踏み出す。途端、びくりと彼女の肩が跳ねて、素早く一歩、後ずさる。

 僕はもう、朦朧として意識が持ちそうにない。兎に角、早く、彼女の手を取って逃げ出したいのに、これ以上、彼女へ近づくことすらままならない。奴らは今や、マンションの真下にまで迫っているようで、ちろちろと、赤色灯の定期的な照り返しが、薄ぼんやりと窓硝子に反射している。

「し……」

 どってんと、僕は床に転倒した。吐きそうなほどの激痛が、体内のあちこちで弾け回る。それでも僕の眼中には敷島さんの可憐な姿しか見えていない。彼女以外、もう何も見えない。盲目とは、彼女以外が見えなくなるという意味だったのか。今回のことでよく分かった。

 倒れた僕に駆け寄って、彼女はナイフを振りかざす。報われないなと、どこかの誰かが馬鹿にしたように耳元で囁く。十五センチの刀身が、何度も何度も僕を貫く。もう痛みさえ感じない。敷島さんの可憐さや美しさばかりが、走馬灯のように僕の視界を何度もくるくると目まぐるしく駆け抜ける。やっぱり僕は敷島さんが好き。それだけを理解して、僕の意識はぷつんと途切れた。

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