悪夢と起床

     a-1.

 ぽーんと。ボールみたいに身体が跳ねた。少女はころころと転がって、フローリングに蹲る。少女を蹴り飛ばしたのは父親である。清々しい笑顔で、ガッツポーズなんかをしている。彼を咎める人間は、この家には存在しない。なぜなら、彼が蹴り飛ばしたのはボールであって、少女ではないのである。だから少女の母親は彼を止めたりしないし、寧ろ手拍子で場を盛り上げたりする。ここはそういう家なのだ。少女は静かに唇を噛み締める他、両親への抵抗心を示す術を、まだ持たない。


「ねえ、ルナ」

 両親の寝静まった夜更けの頃、脱衣所に転がされた少女は、くつくつと笑って独り言を呟く。

「なあに、アリス」

 口調やトーンをまるで別人のように変え、少女の独り言は綿々と紡がれる。

「大丈夫? 痛くない?」

「痛い? どうして?」

「だって、あんなに蹴られていたから……」

「蹴られる? 私が? ――クスクス。アリス、あなたきっと、怖い夢でも見たのね?」

「……そうかな」

「そうよ! だって、この世界には私たちしか居ないもの!」

「そっか……。そうかも……」

「ねえ、アリス。大丈夫。どんなに怖い悪夢でも、いつかは必ず目が覚めるのよ?」

「うん……。うん!」

「ふふふ。いい子ね、アリス。――そうだ、お腹は空いてる? 美味しいケーキがあるの」

「ほんとう? うん、おなか、ぺこぺこ」

「そう。さあ、いただきま――」

 ――うるせえぞ!!

 パンと手の鳴る音がして、風船が弾けたみたいに少女は意識を取り戻す。寸前まで、素敵な夢を見ていた気がするのに、もう、何も思い出せない。ほろほろと脆い、安心感の僅かな残滓ですら、恐怖と絶望に塗りつぶされる。怒声が、また響く。


「うるせえんだよ!」

 自身の声量を省みず、父親は轟々と罵声を放つ。少女は謝罪を繰り返すばかりである。その小さく丸まった弱者の存在が、父親の心の優越感という風船を、むくむくと膨れ上がらせる。

 ――ねえ、アリス。大丈夫。私が悪夢を終わらせてあげる。

 耳元で、誰かの声が囁いた気がした。

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