夏の在りし情景
b-1.
セミが鳴いている。
開け放った窓からは、風よりもセミの声ばかりが入ってくる。秋の落ち葉が晩秋を想わせるのと同じように、真夏のセミは地獄の猛暑をよりホットに感じさせる。今すぐにでも、高校の敷地内のありとあらゆる樹木類を片っ端から切り倒してやりたい衝動に駆られるが、当然、駆られるだけで、実行に移す勇気も度胸も資金も時間もチェーンソーも僕は持ち合わせていない。そう、僕は何も持っていないのだ。学業的な能力すらも。
普段、黒板よりも敷島さんの背中ばかりを見つめている僕は、夏休み直前の期末テストの成績をレッドライン以下にまで零落させて、夏休みの最中の強制補修者リストへと名を連ねることに相成った。これはつまり、名誉の負傷である。僕は自身の成績と、親、教師からの信頼をかなぐり捨て、彼女への愛を選んだのである。これを名誉と言わずして、何が名誉か。
という話を歳の離れた弟に打ち明けると、影で親に告げ口され、僕は親から大変な叱責を浴びせられた。全く
なので今、僕はサウナの如き教室の中に押し込められ、じわじわと頬を炙られながら、窓際の席にて追試の用紙に噛りついている。切実に、チェーンソーよりも理数の点が、今は欲しい。
何とか追試のテストにて、成績をV字回復させることに成功した僕は、ほうっと溜息を吐きながら、教室内よりはまだ清涼な、外廊下へと躍り出る。
蒼穹がどこまでも高く広がっている。僕は校舎の陰になっているところへ腰を下ろし、転落防止用の柵の合間からグラウンドの方を覗き見る。灼熱の太陽の下、陽炎沸き立つグラウンドの上で、運動部員たちの影が、ゆらゆらと揺れている。
メインは野球部とサッカー部である。半袖半ズボンのサッカー部は兎も角、工場の作業員のような重装備の野球部員は、見ているだけで酷な気持ちにさせられる。最早、修行のようである。一転して、サッカー部は和気藹々といった様子である。うちのサッカー部は殆ど無名で、実体としては楽して内申点の欲しい連中のお遊びクラブとなっている。あれらを並べて活動させるのは、傍目から見ても野球部に気の毒である。士気が駄々下がりである。
そしてその二つのメインクラブに圧される形で、グラウンドの二十パーセント程を陸上部が利用している。僕の主観だけでいえば、こちらの方がメインである。
陸上部は、グラウンドの端の一辺を直線で走れるように間借りしている。短距離走者はここで走り込みをし、長距離走者は校外をぐるぐるとひたすら走らされる。別途、道具の必要な、ハードル走や走り高跳び等々の選手は、市営の大きなグラウンドへと片道一時間かけて自転車で通っている。
敷島さんは短距離走者である。それも、二百メートルまでなら三年まで敵なしというくらい、ぶっちぎりで足が速い。遠目で見ているとはっきり分かるが、彼女の加速は抜きんでて異様である。他選手より小柄であるのに、一歩が大きく、そして早い。気持ち悪いくらいにぐんぐんと前に進む。本当に人類か怪しいレベルで、彼女はグラウンドを駆け抜ける。
そんな敷島さんを、僕は一時間でも二時間でも、陽が傾くまで眺めている。文庫本を適当に開いて、いかにも読書に励む文学少年を装い、彼女を盗み見るのである。敷島さんは見ていて飽きない。とんトンとんトンとリズムよく地面を蹴って走る姿も良いし、走り終えて、タイムを計っているマネージャーと楽しそうに笑い合う姿もこれまた良い。ボトルを高く上げ、給水している姿も様になっているし、レーンが空くのを待って、軽く準備運動をしている姿も凛々しく思う。敷島さんの一挙手一投足が僕の目には真新しく、眩しく、
その日、僕は偶然にも、彼女と言葉を交わす機会を得た。
夏の、盛大な夕暮れの空に、堂々とした積乱雲が立ち上る。顧問と監督からの有難いお話を聞き終えて、陸上部員は解散する。僕も退散する。
外廊下から、一旦、校舎の中へと戻り、僕は階段をのろのろと下った。校舎の中はじめじめとした蒸し暑さで満ちており、風の通りの良かった外廊下とは天と地ほどの差が出来ている。その中を、僕は下る。途中、遠くから足音が聞こえだす。テンポよく、とんトンとんと走っている。一瞬で、敷島さんだと分かる。リズムだけで足音の主が分かるとは、僕は相当な変態かもしれないと自虐的な考えが浮かぶ。つい、口元が綻んだところで、敷島さんの、顔が覗く。
「あ」
僕と視線がぶつかって、敷島さんが声を漏らした。彼女にとって、僕は後ろの席の男子生徒以外の何者でもなく、良くて、プリントを渡す人、悪くて、友達の居ない人、と思われているのが関の山だろう。というのが僕の見解である。当然、名前など憶えて貰えているわけがない。
「妹尾くん。今帰り?」
――絶句した。
「ダメだよー。勉強はきちんとしとかないと!」
想像以上に、敷島さんはフレンドリーであった。適当な挨拶でも出来れば及第点かなと想定していただけに、これは嬉しい誤算である。
「妹尾くん? ……何か嬉しいことでもあった?」
敷島さんが、自分の唇の両端を、人差指でむにっと押し上げる。僕は思わず口元を覆い隠す。
「んー……。あっ。テスト、良い点取れたんでしょ!」
彼女が上手くあらぬ方向へ舵を切ってくれたので、僕はそれに便乗して何度も頷く。
「そっかあ! やったね!」
少し話して、満ち足りた表情で僕らは別れの挨拶をする。夕焼け色の階段を、彼女は跳ねるように駆け上がっていく。僕は彼女の背中を見送る。
これらは今や懐かしき、在りし日の情景である。
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