第6話

 セノは、シャッターを切る。今、自分のいる場所を、一心不乱に撮る。

「ハラダくん、そっちの機材、準備してくれる?」

「はい」

 写真は、選択の芸術だ、と言われることがある。ここに映るのは、自分の目の前にあるものだけだ。それを切り取る。ここに辿り着いてしまったという事実が、写真にはありありと現れる。

「フィルム、交換して」

「わかりました」

 逆を言えば、選べなかったものは、決してここには写らない。自分の頭の中にあるものが、フィルムに焼きつくことは絶対に、ない。画家ならば記憶を絵に描ける。小説家ならば可能性を文章にできる。けれど写真家は違う。自分が選んで掴んだ今を残す。それがすべてだ。

 セノはそんな写真の在り方が好きだった。けれど今は、少し痛い。

「セノさん」

「何?」

「大丈夫ですか? 顔色が悪いですが……」

 大丈夫、と、セノは笑う。

「でも、うん、少し、休憩しようか」

「はい」

 ハラダは自分のリュックから水筒を取り出し、コップにお茶を注いでセノに渡した。セノは礼を言ってそれを受け取る。ゆっくりと飲み干し、

「ここにくる覚悟が、できたって言ったでしょう?」

 そう、呟くように言った。ハラダは顔を上げる。

「忘れる覚悟を、したの」

「……彼のことを、ですか」

 セノは目を瞑り、頷く。

「この場所を撮って、終わりにしようと思うの。だから、あともう少し」

「わかりました」

 ハラダは、セノにカメラを手渡した。

「セノさん」

「うん?」

「終わったら、この前の返事、してもらえますか」

 ハラダはまっすぐにセノを見る。


――僕は、セノさんのことが好きなんです。


 少し前、ハラダにそう言われた。セノは目を見開いて、それからはぐらかしてしまった。ハラダはそれ以上、何を言うこともなかった。いつも通りの毎日が続いていたけれど、セノはずっと考えていたのだ。そして今日、ここに来た。それが、ほとんど答えと言ってもいいくらいだった。セノは俯いたまま、

「そうね」

 と、言った。


 あの日の選択を何度も悔やんだ。彼を選んでいればきっとこんな風にはならなかった。悔やんでも悔やみきれなかったし、勝手にいなくなった彼を、タナベを、責めたこともあった。いくら泣いても声が届くことはなかった。セノがタナベのことを思い出さない日はなかった。

――でも、今日。

 シャッターを切るたびに、ひとつずつ忘れていこうと思う。ひとつずつ丁寧に思い出して、さようならを、言おうと思う。酷いことをしているだろうか。けれど、わたしは生きていかなければならない。ここに写ることのない過去だけで生きていけるほど、わたしは強くない。

 ファインダー越しに、いつかの思い出を見る。それは大学近くのコインランドリーで交わした、他愛もない会話。


 写真集を作ろうと、タナベは言った。

「コインランドリーの?」

 セノの問いかけに、彼は頷く。

「写真絵本みたいなのが作りたいんだよ。コインランドリーの話」

「どんなの?」

 二人の洗濯物が、まるい扉の向こうで回るのを見ながら、セノはふわりと問いかけた。

「世界の果てにはコインランドリーがあって」

 タナベは読み上げるように話をする。セノはその声が好きだった。

「人は死んだらみんなそこに行くんだ」

「どうして?」

「忘れるため。命を洗濯して、まっさらになってもう一度世界に帰ってくるため」

 タナベはそう言って笑った。

 二人のうちどちらかが先に死んだら待っていよう。こうしてコインランドリーで待ち合わせしよう。二人で一緒に洗濯機を回して、昔話をしながらゆっくり忘れていこう。

「そしてその先で、もう一度生まれ直して会えたらいいね。コインランドリーで、何処かで会ったことある? なんて言って。それを何度も繰り返すんだ。世界が、終わる頃まで」

 そんな話を作りたい、とタナベは言った。それとてもいい、とセノは笑い、タナベの手に触れた。


 セノは泣きながら、それでもシャッターを切る手は止めなかった。今だって鮮明に蘇る。頭の中にはこんなにもきちんと、彼の笑顔も声も温度も蘇る。けれどもう忘れよう。それはあのときから、彼女が海外行きを決めたときから、定められていたのかもしれなかった。本当は選びたくなんてなかった。どちらかを選ぶ気なんてさらさらなかった。元通りになると思っていた。また会えると思っていた。そんな虫の良い考えをしていた。馬鹿だった。でも、わたしは、ここにいるのだ。ここに写るこの世界が、わたしの望んだ世界なのだ。


――さようなら。


 最後の一枚を撮り、セノはいつまでも巻き終わらないフィルムを巻き続けた。しばらく経ってからようやくその親指を止め、息をついて、振り返った。

 ハラダと目が合う。彼は何も言わずに頷いた。

 この人と生きていこう。そのためにここに来たのだから。セノは袖で涙を拭う。

「ハラダくん」

「はい」

 少し緊張した面持ちで、ハラダは応えた。

「もう一度言って。この前の」

 ハラダはまっすぐにセノを見る。少し息を吸った。

「好きです」

 少し苦しそうに、ハラダは続けた。

「僕と一緒に、生きてください」

 静寂が訪れた。木の枝が風に揺られる音や、小鳥のさえずりが遠く聞こえる。

「お願いします、セノさん」

「……うん」

 セノは頷く。頷いて、どうにか微笑んだ。木漏れ日の落ちる地面には、雑草と小さな草花と落ち葉、供えられた花束、そして錆びついた部品が忘れられた記憶のように、佇んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る