第5話

 洗われるたび記憶は抜け落ちて、最後には自分のことも忘れてしまう。洗濯が終わる頃には、洗濯物も、その人自身もここから消える。

 その先に何が待っているのか、タナベにはわからない。完全に消滅してしまうなら悲しいなと思う。もしかしたら天国と呼ばれる場所に行けるかもしれないけれど、全てを失わないと行けない楽園なんて、全く意味がない。

彼は何となく、ここを出たらまた生まれ直すのではないかと考えている。そして一からまた始めるのだ。それは、幸福なことだろうか。

 ここにいることが幸福とも、タナベには思えない。きっと摂理に従うべきなのだ。その方が正しい。こんな場所でいつまでも死にきれないなんてそれはそれで酷い話だ。

 ここで何が起こるのか知らない人に全て告げて、あえて引きずり込む必要もない。だから、タナベは誰にも何も言わなかった。

 タナベがここに来たとき、他にもたくさんの人間がいた。みんな淡々と洗濯機を回した。ここが何なのか理解するよりも、手の中にある洗濯物を綺麗にしなければ、という意識が働いているようだった。それはもう、本能のようなものだ。そうしてみんな、全て忘れて消えていった。誰も、何が起こっているのかわかっていなかった。タナベだけは知っていて、頑なに自分の洗濯物を守り続けた。そのうちみんないなくなった。それからも時折誰かがやってきた。みんな何食わぬ顔で機械のボタンを押した。その指が、全てを失うスイッチを押していることを誰も知らなかった。タナベだけが知っていた。


「おかしいな、俺も呆けたかな」


 キシモトは呟くように言う。記憶が消えていくことに、取り乱したりはしなかった。透明な表情をしていた。

 時々、忘れていく恐怖に気が狂ったように暴れる人もいた。途中でこの洗濯乾燥機のせいだと気付く人もまれにいた。そんな人間に殴りつけられることもあったけれど、ここにはもう痛みなんてないし、タナベは恐怖に歪んだ相手の顔をじっと見ているだけだった。殴られたってひとつも痛くはなかったけれど、胸のあたりはじくじくと苦しくて、いつだって泣きそうだった。

 そんな人も、洗濯が終わる頃には恐怖も悲しみも忘れて、透明な表情になった。彼らは自分が人を殴ったことに驚いて、平謝りして、いなくなった。

「あいつな」

 キシモトが、ぽつりと言った。乾燥中のランプが点滅する機械をぼんやりと見つめる彼は、この数分のうちに、急激に老けこんだようにタナベには映った。彼は気付いているのだろうか。この洗濯物に染みついていたものが自分の記憶だったと言うことに。気付いていないのかもしれない。彼は失いたくなんてなかっただろう。こんなとき、俺は酷いことをしているのかもしれないと、タナベは思う。

「あいつ、何年か前からすっかり呆けちゃって」

 キシモトは必死に記憶を手繰っていたようだった。アズミに関する記憶だ。驚くべき速さで消えていく記憶を掴もうとするように、口を開いた。

「どんどん、忘れていってな。最後には、俺のことも、わからんようになってしまったよ」

 ふ、と懐かしむようにキシモトは笑った。

「忘れられるのは寂しかった。でも、忘れるのも寂しいことだったんだな。怖かったろうな。あいつ、俺のこと忘れたくなかったろうにな」

 そう思うことも、忘れるんだろうな。

 キシモトは言った。彼はもう、俺のことを覚えていないかもしれない、と、タナベは思う。

「キシモト」

「うん?」

「お前、いくつで死んだ?」

 キシモトはぼんやりとタナベの顔を見る。彼は応えなかった。多分もう、覚えていないのだ。けれどタナベは一瞬だけ、皺が深く刻まれ、膝を悪くして耳も遠くなった、八十過ぎの白髪の老人の姿が、キシモトに重なるのを見ていた。ああ、俺が死んでもう六十年以上経つのだな、とタナベは思った。洗濯乾燥機は温風を吹き上げる。あと十五分、とランプが告げている。

 そのときだった。

 コインランドリーに、ひとりの女性が入ってくるのがわかった。タナベとキシモトはそちらを見る。彼女の顔を見て、その手が持つ荷物の少なさを見て、タナベはそっと立ち上がった。彼女はあの夏の海で、両手でピースを作ってカメラに笑みを向けた女性と全く同じ顔をしていた。タナベは何も言わず、彼女と――アズミとすれ違い、コインランドリーの外へ出た。


 記憶力の良い人ほど、洗濯物の量は多い。逆を言えば、覚えていることが少ない人は、ほんの少しの洗濯物しか持って来ない。

 アズミはたった一枚の薄手の毛布を手に、ぼんやりと座っているキシモトの前を通り過ぎて、真ん中あたりの下段の洗濯乾燥機の前に立った。

「あれ」

 アズミは扉に手を掛ける。が、それはうんともすんとも言わない。おーまじかー、とアズミは小さく呟いた。彼女はあの手この手で扉を開けようとする。上手くいかなくてぐぬぬぬ、と唸る。

 それをしばらく黙って見ていたキシモトが吹き出した。アズミは人がいたことを忘れていたようで、驚いて振り返ったあと、赤面しながら、

「あらー、どうもこんにちは」

 と言った。

「これ、何で開かないんですかねー、あはは」

 照れを隠すように笑う。キシモトは立ち上がって、

「ちょっと貸してください」

 扉のノブを手にした。そしていとも簡単に開けてしまった。アズミは目を見開いて、

「えっ、どうやったの?」

 と、手品でも見せられたかのようにキシモトと扉を見比べた。

「ここを押して、こうひねったら開くんだよ」

 キシモトは言う。ああ、とアズミはまた恥ずかしそうに笑った。

「全っ然気付かなかった。魔法でも使ったのかと思った」

「まじか。魔法使いですって言えば良かった」

 キシモトはけらけらと笑う。それから少し、沈黙が流れる。

「あー……あなた、洗濯物は?」

 アズミが尋ねる。あれだよ、多分ね、とキシモトは応える。言い切れない。忘れてしまった。もう、何も覚えていない。

 アズミは少し不思議そうな顔をして、それから洗濯乾燥機の開始ボタンを押した。

「ねえ」

 彼女はじっとキシモトの顔を見る。

「何処かで会ったことある?」

 キシモトは一瞬だけ顔を歪めた。首を振る。

「はじめましてだよ」

 その言葉に、アズミは目を細めて、そっか、と応えた。

「はじめまして」

 アズミは言う。

「これ一枚だったら、十分あれば終わるかな」

「そうだね」

 彼女の言葉にキシモトは応える。

「まあ、もし終わらなくてもそっちの洗濯が終わるまで、ここにいるよ」

 そう、とアズミは頷いた。二人は少し赤くなり、はにかみながら微笑んだ。


 コインランドリーの外で、タナベは洗剤を抱えたケシと並び、窺うようにキシモトとアズミを見ていた。

「何で入らないの」

 タナベの言葉に、ケシは眉間に皺を寄せて、

「何かそういう雰囲気じゃないでしょ」

 と言った。

「お前ここの管理人でしょうよ」

「それでも!」

「甘いなあ、だから俺みたいなのが出てくるんだ」

「アナタが言いますか」

 呆れたようにケシは言った。タナベは笑い、キシモトとアズミの方へ視線を戻す。そして、

「……写真撮りたいな」

 と、ぽつりと呟いた。そんなことを思ったのは、酷く久しぶりだ。はあ、と隣のケシがため息を吐く。そして洗剤の入った袋に手を突っ込み、はい、とその中から取り出したものをタナベに渡した。カメラだった。

「……お前、なんで」

「仕事の一環です」

 ふふ、とケシは笑う。タナベは泣きそうな顔をして、でかした、とぐしゃぐしゃケシの頭を撫でる。

「アナタに褒められてもこれっぽちも嬉しくないですが」

 ケシは照れを隠すように、不機嫌そうな顔をして言う。タナベはコインランドリーの手動ドアを開けた。乾燥機が動いている。二つの機械は、同じ時間を表示する。

 あと、二十秒。

「キシモト、アズミ」

 二人の名前を呼ぶ。あと十五秒。もう、自分の名前なんて忘れてしまっているはずなのに、二人は揃ってタナベの方を振り返った。

「写真、撮るよ」

 そう言って、タナベはカメラを構える。あと十秒。キシモトとアズミは一瞬驚いた顔をして、すぐに笑った。ファインダーの中にいるのは出会った頃の二人だった。二人は一度顔を見合わせ、寄り添う。穏やかな透明な笑顔。アズミはカメラの方を見て、両手でピースサインを作って見せた。カシャリとシャッターを切る音。ピピー。洗濯乾燥機が二台同時に止まる。タナベが覗き込むファインダーの向こうには、もう、誰の姿もなかった。

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