第3話

 ガラスのまるい扉の向こうで、キシモトの洗濯物が白い泡と一緒にぐるぐると回っている。

「キシモトはあれから、アズミさんと結婚したの?」

 タナベは尋ねる。キシモトは頷いた。

「うん。二十六になる年だったかな」

「それからずっと?」

「ああ」

「長い付き合いだ」

 そうだな、とキシモトは笑う。

「キシモトはアズミさんと付き合うようになってから急激に俺と会わなくなったな」

 タナベが懐かしそうに言うと、キシモトは眉間に皺を寄せた。

「そんなことねーだろ。学内では大体一緒だったじゃねーかよ。お前だってほら、あの、なんて言ったっけ、あの彼女と付き合うようになってから疎遠になっただろ」

「そんなことない。俺は友情も大切にするタイプだった」

「そうだったか?」

 記憶にないな、と言うようにキシモトは笑う。

「四人で出かけたよな。海行ったろ。覚えてる?」

 キシモトの言葉に、タナベは薄く笑って頷いた。


 夏の海だった。みんな大学生で、卒業も就職も遠くて、心配なことなんて何ひとつなく笑っていた。タナベはずっと、自分がカメラのシャッターを切っていたことと、恋人がシャッターを切る自分にカメラを向けて楽しそうにしていたことを覚えている。二人は、写真部で出会った恋人同士だった。

 キシモトの恋人、アズミカオリとタナベが会ったのはそのときが最初で最後だった。表情がくるくると変わる、快活な女の子だった。カメラを向けると子どもみたいに笑って、どんな体勢でも必ず両手でピースをした。バランスを崩して転ぶこともいとわなかった。何がそこまでアズミをダブルピースに執着させるのかと不思議に思うくらいだった。始終、キシモトがおかしそうに笑っていたのをよく覚えている。二人でいれば笑ってばかりのカップルなのだろうとタナベは思った。

 現像したあの日の写真を、タナベはそれからあとも何度も見返した。自分と彼女の撮った写真を一冊のアルバムにまとめて――もしかしたらあの頃が、一番楽しかったかもしれない。あのアルバムは、あれからどうしただろうか。

「四人で遊んだのはあれっきりだった。まあそもそもが接点なかったし……俺たちの出会いが出会いだったからな」

 回る洗濯物を見て、キシモトは言った。その目がぼんやりと遠くなる。

「どんな出会いだったっけ?」

 タナベはキシモトを見る。答えを確かめるように尋ねた。

「そう、それを思い出そうとしてるんだけど」

 キシモトは眉間に皺を寄せ、

「変だな、思い出せないんだ」

 と、言った。タナベは少し、顔を歪めた。始まった、と思った。

「……結婚までは、どうしてた?」

 タナベは前を向いたまま、話題を変える。回る洗濯物から、どんどん染みついたものが落ちていく。

「大学卒業してから……二人とも別の場所に就職して、ちょっと遠距離になった。あの頃はよく喧嘩した。でも、何とか結婚できたよ。子どもも生まれて愉快だった。うん。あれ、何だかぼんやりするな。変だな。何だっけ。何があったんだっけ」

 キシモトは不安げな表情を浮かべる。確かめるように、彼はアズミの話をしようとした。開いた口は、動かなかった。キシモトは洗濯乾燥機を見つめながら、眉根を寄せた。タナベも洗濯物に視線を移す。白い泡は容赦なく丸窓の向こうを埋め尽くして、翻弄されるように洗濯物は回転を続ける。 

洗濯乾燥機は、記憶を洗い流していく。

ここで生前の記憶を全て失うことが、人間に与えられた最後の仕事だ。

 沈黙が続いた。

 タナベは目を伏せて、キシモトの頭から消えてしまった二人の出会いを思い出していた。そう、いつか学生食堂で、彼女ができたのだと、キシモトは自慢げに報告したのだ。


「何処で知り合ったんだよ。部活か? まさか学部の子じゃないよな」

 訝しげな顔をするタナベに、キシモトはくつくつと笑い、したり顔で応えた。

「コインランドリー」

「え? コインランドリー?」

「そう」

 キシモトは頷く。タナベは一層怪訝そうな表情になる。

「コインランドリーって、あの、洗濯するとこ?」

「うん」

 タナベの顔を見て笑いながら、キシモトはまあ聞けよ、と言った。

「その日雨降っててさ、でも洗濯物超溜まってて明日着る服もねーじゃんってなって、コインランドリーに行ったんだよ。俺ひとりしかいなくてさ、終わるの待ってたわけ。そしたらその子……アズミカオリっていうんだけど、彼女が来て、洗濯機の扉開けようとして悪戦苦闘してんのね。レバー押してひねれば良いのに気付かなかったみたいで。可愛いし面白いしで俺しばらく見てたんだけど」

「お前性格悪いよな」 

「うっせ。まあ埒あかないから俺が手助けしたの。話しやすい子でさ。やべえな、これ一目惚れってやつじゃねーかなと思ってたよ。俺もう洗濯終わってたんだけど、まだ終わってない振りして話してた。それから自分ちの洗濯機使わなくなったね、俺は」

「コインランドリーで待ち伏せてたわけな」

「人をストーカーみたいに言うなよ。まあでも、不思議とタイミングよく会えたんだわ、何回も。だんだん仲良くなって、メールアドレス教えたりして、次はいつ、コインランドリー行きます、みたいなさ、そういう待ち合わせみたいなのが続いて」

「付き合うようになったと」

「そういうこと」

 キシモトは、幸せそうに笑っていた。まだ、十九歳だった。その話を聞いてから、タナベは何となく、街にあるコインランドリーに目をやるようになっていた。

 その翌年、タナベは付き合い始めた恋人にキシモトとアズミの出会いの話をした。彼女はそのエピソードをとても気に入って、一緒にコインランドリーの写真を取りに行ったこともあった。キシモトたちに倣って、コインランドリーで待ち合わせをしたこともあった。そうだ。その頃から、タナベはコインランドリーという場所が好きになった。

 いつの間にか自分の記憶に行きつく。そしてまた、あの夏の海のことを思い出す。

 そういえば、あのときの写真を、結局キシモトに渡せなかった。いつでも会えると思って、気付けば二度と会えなくなっていた。大事な思い出を二人にもきちんと手渡すべきだったのに。

 写真に切り取ったアズミの笑顔を、タナベは今もよく覚えている。キシモトはどうだろうか。まだ、思い出せるだろうか。

「死ぬまでずっと好きだった? アズミさんのこと」

 沈黙を破り、タナベは、キシモトに尋ねる。

「急に何お前。何言わせようとしてんの」

 キシモトは力いっぱいタナベの背中を叩く。照れ隠しをするときのキシモトの癖だった。懐かしいな、とタナベだけが思う。

「いいから答えろよ」

 タナベの言葉に、キシモトは不機嫌そうな顔で、

「そりゃあな」

 と言った。

「そりゃあ、好きだったよ」

 もごもごと口ごもりながら言って、キシモトは両手で赤くなった顔をぺちぺちと叩いて座りなおした。息を吐き、話題を変えようと彼はタナベの方を見る。

「タナベは、あれからどうしてた?」

「俺はあれからすぐに死んじゃったからなあ」

 タナベは困ったように笑って、そう応えた。

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