最終話 遠間八代の想生論

 伝説の巨人。

 そんな異名を名付けたやつが恨めしい。いやそれとも広めたのはやつ自身か。

 思い当たることはあったのだ。

 最初に俺たちの前に現れたとき、確かに身体は滅びた。

 そもそも親父を含めた精兵と幾度も戦いながら無事だってのは妙な話だった。奈落に逃げているだけだと思われていたが何度か身体がやられていたのだろう。 

 倒しても倒しても現れる雲のような存在。それが奴か。

「でもそれじゃあ結局倒せないってことじゃあ……」

「いや、少なくとも眷属とは違ってやつ自身と思われる身体がやられると精神にダメージがある。幽霊みたいにふわふわ浮かんでるんじゃない。精神が通っているから最初にお前を通して精神体の傷を癒しに来たんだろう。身体を滅ぼされるとどこかで本体に戻っているはずだ」

「本体……じゃあそれを倒せば」

「奴を倒せるはずだ」

「その本体って?」

「奴の会話からおそらく現界にあるなにかだ」

「どうしてさ」

「あいつは封印されたときも人間界の様子がわかっていた。ずっと現界に、その本体にいたんだ。それから封印が解ける日を待っていたんだろう」

 封印されていたのは力の大半ってところか。

「封印が解けたときってどんな状態だったの?」

「飛輪の本部で封印の状態を管理しているところがあるんだ。風呂の温度とかが部屋でも見られるみたいな奴だな。それが数百年ぶりに解ける寸前ってことになったんで討伐部隊が編成された。お前と会うひと月ぐらい前かな? そして封印塚で目覚めたやつと延々と戦っていたわけだ」

「……それおかしくねえか。封印されていたのが精神体だったらどうしてそこに身体があらわれるんだよ」

「欺くためにそこに現れたか。それとも最初の身体に入っている時にそのまま一緒に封印されたか」

 多分後者だろう。本体ではなかったから全部封印しきれなかったってところか。

「じゃあ現界に戻らないとダメってことか?」

「いや、次々と現れているってことは本体もこっちに持ってきたんだろう。この魔界のどこかに」

 周囲を見渡す。

 ここは魔界のはずだが、どちらかというと物質界にある奈落に近い雰囲気がある。広さは段違いだが。

 奴の結界とか、領土とかそういうものだろう。さすがに広大な精神界すべてを探すのは無理だが、この中なら探すのも不可能じゃない。

 やつの体がこのどこかにあるはずだ。俺は適当な場所に霊符を放り投げて地面を作る。そこに二人で降り立った。

 足で立つと痛みでふらつく。深夜に支えられ、懐から六壬式盤を取り出した。

「やつの本体を探し出す。魔界の瘴気で俺だけなら無理だがお前の力を上乗せすることでできるかもしれない。疲れるだろうが協力を頼むぜ」

「あたしはどうしたらいいの?」

「心の中であいつの正体はどこか願ってくれ。外で術をつかったためだろうが、お前の力にリンクしやすくなっている。お前の力を術で引き出す」

 こくりとうなづくと深夜は外でしたように目をつぶって式盤に手をかざした。

 周囲では魔界の生き物が蠢いているが、ちゃんと集中できている。普段結構メンタル弱そうだが、いざという時の集中力は大したものだ。こいつなら本気で修行したら2年ぐらいで一人前の鬼祓師になれるかもな。

 まずは深夜の能力に触れる。

 そのしようとした矢先、赤い光が一直線に向かってくる。間一髪で避けるが、式盤が光にあたり消滅した。

「強力なマホウツカイと言ったのは訂正シヨウ。ニンゲンには惜しいほどの小賢しさだ。我らに近いのではないカ?」

 ち、追いつきやがったか。

「不死身様のご到着かよ。だが、もう種はわかったんだ。身体を守ってブルブル震えていろよな」

「貴様の憶測二過ぎん」

 話を聞いていたのか? 術は感じなかったがやつのテリトリー内だからな。

「どうだか試してみるか」

「仮に貴様の推測が当たっていたとしてモ、無駄だ。もう逃がさん。ここで貴様を仕留める」

 奴の眷属が現れる。何百も、いや何千も。

 あらかじめ伏していたのか。今まで襲ってこなかったのは万全の体勢をとっていたか。

 深夜を逃がそうかと一瞬考えるがやめる。俺から離れるとまず深夜を捕まえるだろう。

「死ね」

 奴の声と共に小さな火の玉が一斉に飛び出した。

 同時に虫ほどの眷属が針を伸ばしてこちらに向かってくる。

「この手できたか!」

 俺は術を拳につかい火弾を飛ばす。一撃の威力が低い。深夜に当たっても死なない程度。瀕死でも生きていたらそれでいいという考えか。

 次々と現れる火の玉を術で弾き飛ばす。

 結界術をこの場に張っては物量で消滅し、虫を術で削っても次から次へと新しいのが襲ってくる。

「どうした、貴様のことだ。まだまだ作戦はあるのではナイか?」

 奴の哄笑が響き渡る。

 痛む身体では動きがにぶく、術の速度が追いつかない。

 術の切れ目から火の玉が、針が俺たちを容赦なく狙う。

 それは俺だけでなく、もちろん深夜にも。

「くそ!」

 声をあげて体で庇う。火が俺の身体を容赦なく焼いた。

 一瞬息が詰まるとまた術が途切れる。そこを切れ間なく襲ってきた。

「動きが鈍っているのではナイか。ほらほらほらほら」

 術を連続で使っているが支えきれない。撃ち漏らした虫が俺たちを襲う。

「っ!!」

 深夜が悲鳴をあげた。虫にやられ、手のひらと額が出血している。

「てめえら」

 術をつかい虫たちを全て焼き払う。だがその隙に火弾が俺たちを襲う。

 慌てて結界を張るが圧倒的な物量にすぐに破壊される。次の術が間に合わない。

「ちくしょう!」

 深夜を背中で庇う。熱が幾度も俺を打ち付けた。

 術で対抗しようにもこの体勢だとおっつかない。それに次から次へと重なる火弾の痛みが集中力を削り取っていく。

 痛みに耐えながらも術を編む。

 なんとかこの攻撃をしのいで次を。

 そう思考した俺の首元に強烈な痛みが走った。

 火とは違う、また別の原始的な痛み。

 針が首元に突き刺さったのだ。

 一瞬意識が刈り取られる。

 次の瞬間耳元で轟音がなり、俺の身体が舞い上がる感覚があった。

「やしろー!」

 耳がキーンとなる。 

 かすかに深夜声が聞こえる。

 大丈夫だ。

 そう言いたいが声がでない。まぶたが動かない。身体が動かない。

 体中の至るところでどろっとしたものが溢れているのが感触でわかる。

「あの時素直にしてイレば、せめて楽に殺してやったものヲ」

 頭に奴の声が響く。

 勝ち誇るんじゃねえよ。まだ負けてない。

 必死で身体を動かそうとして、まぶたがようやく反応した。開くとわずか先に深夜の苦しそうな顔。

 どういう……

 俺は自分何をしているか知った。

 深夜の腕を折ろうとしているのだ。

 こいつ俺の身体を操って……。

 ちくしょう、なんてことを。

 抵抗するが身体が動かねえ。いや、勝手に動いて深夜を締めてつけていく。

「殺しはせぬ。長い間探し続け、再びみつけた楔故に。だが力を呼び覚ますために少々イタメつけさせてモラう」

 楔だと?

「鍵となるべくナハトのオトメ達を我らの世界の楔とする。九世界は塗り替えられ、六道は全て我らの世界となる。それこそが我らが悲願」

 六道っていうのは仏道でいうところの天上界や修羅界とかの六つの世界を指すことだ。

 俺たちが精神界を魔界と呼ぶように、修羅界と仏道では呼ぶこともある。

 清十郎たちほど詳しいわけじゃあねえが、この世界が様々なバランスで成り立っているのは間違いない。

 深夜をねじ上げようとする力に抗いながら、必死で考えを巡らす。

 こいつらの目的はその世界バランスを壊すこと? 

 それがどういうことになるのかは分からないが、必死でナハトの乙女を探してるのはその楔に使うためというのは確かだ。

 深夜や静乃といっと生贄を……。

 苦しそうな表情を向けながら抵抗する深夜。こいつをあの時笑顔を向けて生贄となった静乃と同じようにするわけにはいかねえ。

 ふと脳裏に過去の情景が浮かびはじめた。

 静乃とガキの頃の清十郎に月雲。

 オヤジと母さん。伊緒里と千春。

 鬼祓師の仲間や学校のクラスメイトたち。

 様々な連中の顔が、パソコンのバナー広告のように現れては次々と消える。

 おい、なんだこの走馬灯みたいなのは。血を失いすぎて意識が混濁とする。

 だがまだだ。まだ死ぬわけには行かない。奴を倒して深夜を助け出さねえと。

 だが俺の気持ちとは別に映像が浮かぶのが止まらない。断片とした記憶が頭に流れ込む。

 また別の光景が現れる。静乃とすこし若い小角だ。二人がなんだか幸せそうに笑っているのが見えた。

 それから別のシーン。絶望に沈んだ小角が一心不乱に調べ物をしている姿。

 ……なんだこれは? 俺はこんなシーンを見たことがないぞ。どういうことだ。

 それからさらに多くの映像。俺の知らない顔がたくさん浮かぶ。多くのものが絶望的な表情を浮かべていた。

 この記憶は……

 俺の知らない記憶。

 だが誰の?

 そうだこれはダイダラボッチ、奴だ。あいつは俺の身体を操っている。

 あいつは別の身体を操っているときは他の身体を動かせないのだろう。深夜の身体を操っていたときも姿を見せなかった。

 これがやつの記憶なら、静乃や小角のやりとりがあるのはなぜだ?

 この時、俺の中で何かが音をたてて繋がった。

 奴は長いあいだナハトの乙女を探していた。

 静乃のことも知っていたようだし、そもそも自らが封印が解ける時を見計らってやってきた飛輪の連中のことを熟知していた節がある。

 今回のこと。小角の企みをしり、それで術によって門を閉じるのを申し合わせたように深夜を攫った。

 そしてこちらの意図を十分熟知していた手回しの良さ。

 静乃、そして小角のそばにあって、かつ現在この魔界にあるもの。

 小角が渡してくれた、静乃の首飾り。それは俺の首元にかかっている。

 俺は冷や汗をながしながら耐えている深夜を見下ろす。身体の自由はまだ聞かない。だが最後の力を振り絞ればこれだけはできる。

 これが最後の力の使いどころだと、俺は決断した。

「シンヤ……」

 全力を声帯にあてて呼びかける。

「聞こえるか。やつの本体は俺の首にかけてある首飾りだ。これを壊せ」

「こ、壊せって……」

 腕を引き離そうとしながらも深夜は声を振り絞る。

 できねえって顔だな。

「お前ならできる。俺を痛みつけても構わない。壊してくれ」

 既に約束したぜ。もうお前は守ってもらうお姫様なんかじゃない。

 俺の、相棒だってな。

 額に汗をながしながら聞いていた深夜は真剣な目でみるとうなづく。

「うおおおおおおおお」

 と、うら若き乙女とは思えない声を上げると身体を沈めた。

 そのまま右腕を中心に回転し、両足を真上に向けて蹴り上げる。俺のねじようとする力に逆らわず、それを利用したのだ。

 火事場のバカ力というのだろう。

 体操選手も驚嘆する離れ業が決まり、あいつの足は俺の首を蹴り上げた。

 衝撃はあるが痛みはない。

 勢いで首飾りが飛び上がるのが目視できた。

 深夜は一目散に首飾りへと駆けた。俺の手がこいつから離れたのだ。

 身体の自由が効いたのはその一瞬だけ、またもや俺の身体は自由を奪われてしまう。

 深夜は首飾りに追いつくと鎖を握り、そのまま拳で殴りだした。

「無駄だ。人間の、それも女ノチカラで壊れるものではない」

 やつの勝ち誇った声が頭に直接聞こえる。それでいて邪魔をするわけではないのは、二つの身体を同時に操れないという俺の推測が当たっているのだろう。

 深夜にもその声は聞こえているはずだが、一心不乱に殴り続けていた。

 右手の拳の皮がやぶれ、白い手が血まみれになっているのが見える。

「あああああああああああ!」

 痛みをごまかすように声を上げながら殴り続けた。

 必死の形相がだんだんと近くで見える。奴の力で俺が深夜に歩み寄っているためだ。右手も傷が痛々しい。

 ゆっくりと俺の身体が再び深夜をつかもうと動く。

 深夜は逃げることもなく、狂ったように拳を振るい続けている。もしやつが俺の身体の支配を俺に渡せばすぐにでも術で壊すが、それはできそうにない。

 生身の女が金属を素手で壊すなんてできるはずがない。

 確信が奴から流れている。

 だがよ、てめえは一つ忘れている。

 俺ですら抵抗できないお前の身体の支配を、深夜が跳ね返したことを。

 必死に殴り続ける深夜の右手に変化が見える。拳に白い気が集まり始めているのだ。

 深夜は術の訓練を受けたことがねえし使うことができない。

 だが自分の意思の力で掛けられた術や、気を増幅させることができる。

 無意識の陰気で門を開けるほどなんだ。痛みを忘れるぐらい必死なら、これまでの戦いで俺がつかった術から周囲に漂うわずかな陽気を、何百倍にも増幅させるぐらいはわけもないだろ?

 深夜の拳が輝き、金属を叩きつける鋭い音が響き渡る。

 首飾りがへこみ、煙のように瘴気が溢れる。いいぞ、後少しだ。

 深夜を捕まえようと動く俺の身体より、あいつの拳が砕く方が早い。

 そう確信したとき、突然身体の自由が戻って来た。

「ヤメロオオオオオオ!」

 ダイダラボッチが別の身体で閃光を放つ。深夜を殺してでも自分の本体を守るあがき。

 深夜の拳が首飾りを砕くのと、奴の光線が深夜に突き刺さるのはほぼ同時だった。

 その瞬間、深夜の身体がその場からかき消える。

 ように見えたはずだ。

 飛行術。自由が利くと同時に使い、深夜を抱き上げる。

 コンマ一秒でも遅ければ危なかったであろう絶妙のタイミングだ。

 もうこれが最後の術だ。俺にはもう術を使う力も、身体を動かす力も残っていない。

「よくやった深夜」

「当たり前だろ、相棒」

 痛みも忘れ互いに笑い合う。

 同時に首飾りからものすごい量の瘴気が溢れ、断末魔の悲鳴が響き渡った。

 ダイダラボッチの本体が破壊されたことを確信する。

 それにしてもまさか静乃の形見が本体とはな。小角も思っていなかっただろう。

 それともこいつが術で小角にそう思わせたか、もっと前、静乃やその先祖にかけていたか。

 疑問はつきないが最後にやるべき事があった。

 本体から瘴気はどんどん消えていくが、まだ別の所では健在。

 深夜に肩を借りながら二人して振り返る。

「お、オノレエエエエエエ!」

 さっきまでのダイダラボッチが憎々しげにこちらを睨んでいる。

「もう不死身の種は終わったぜ。この身体を倒したらもうてめえに復活する術はない」

「それは貴様等の方こそダ!」

 ダイダラボッチはなおも俺達を倒そうと鬼の豪腕を振るう。

 無数の火球が俺達に向かってきた。

 血を失いすぎて意識が朦朧としている。情けない話だが肩を借りないと立ち上がることも出来ない。

 俺には奴を倒すすべは全く残っていない。

 俺には、な。

「シンヤ、俺の呼吸に合わせてくれ」

「ああ」

 俺から流れた血が深夜の白袴を黒く染める。

 最後に残っていた式神を通して深夜に印術を伝える。深夜は映るイメージから器用に印を組み、術を構成した。

 俺の血を通して術を発生させ、深夜が唱えるのと増幅を担当。まさしく二人がかりの術。

 深夜の手に輝きが宿る。魔璋を払う剣、将軍剣。俺の最後の霊符だ。

 直後に迫ってくる火球。深夜は右肩で俺を支えながら左手の剣先を奴に向けた。

 俺の呼吸に合わせて剣を薙ぐ。火球が剣に払われ、かき消える。動揺した奴の姿が俺達の眼に映った。

「ダイダラボッチ、てめえの長い人生と野望が潰えるときだ」

「人間様をなめんじゃねえよ」

 剣の柄を二人で握り、奴に向かって構える。

「貴様等なんゾに!」

 火球の連発を切り裂きながら俺達はゆっくりと奴に向かう。

 幾度もの攻撃を跳ね返し、俺達は奴の眼前に立った。

 一瞬互いの意思が交錯する。

 奴の豪腕が俺達に振り下ろされるのと、俺達が剣を振るのは同時だった。

 奴の腕を切り落とし、将軍剣が鬼の胸元に突き刺さった。

「グギャアアアアアアアアアアアア!」

 断末魔の叫びをあげながら奴の身体が崩れていく。

 伝説の巨人。

 魔王。

 不死身の鬼。

 様々な異名をもつ修羅が滅びる瞬間だった。

「ダイダラボッチ、最後に教えろ。てめえは人間界で長い間暗躍していたな。静乃を生贄に仕立て上げたのもてめえか?」

 解答が返ってくるって期待していたわけじゃあない。

 だが崩れていく身体で、奴は哄笑する。狂ったように。

「ナハトのオトメ。楔となるノウリョクシャを集めるのは我らが悲願。物質界の様々なところで幾重の準備をオコナッテイタ。たまたまマエのオンナとそのオンナが我のテリトリーに入ったにスギヌ」

「さっきも言ってやがったな。てめえらが能力者を集めてやろうとしていることはなんだ?」

「セカイのサイセイ。あるいは書き換えとも言うカナ。そのため二無数の人柱を楔としてキタ」

「世界を書き換えるだと? 何が起こるって言うんだ?」

「サアナ」

 鬼の身体が崩れ続けている。奴の表情はわからないが、くぐもった笑いをあげたのは理解できた。

「最後に一つ教えてやる。人柱とはそのナの通り生きたままセカイの底に、貴様等が魔界と呼ぶ奥地に楔として封印されてイル」

「なん、だと」

「シズノとかいうオンナもきっとイキテイルダロウ。ムリだとわかっても貴様は助けに向かうか? ワレラノセカイの最奥へと」

 静乃が生きている。まさかそんなことが。

「モットモおマエ達が生きてそれを伝えらればだがナ。我が滅ぶとそのまま貴様等は魔界に呑み込まれる。生きて出ることなど不可能だろうが」

 もう原形はほとんど残っていない。奴の身体が塵になろうとしていて、その最後の瞬間まで哄笑をやめようとしない。

「貴様に言った通り滅ぶとどうなるのか、その答えをエラレソウダ。先に地獄で待っているゾ」

 そう言い残し、奴の身体は完全に消滅した。

 次の瞬間、俺の視界が暗転した。

 


 完全なる闇。

 何も見えない、何も聞こえない、何もにおわない。

 だが周囲で何かがうごめくのだけは感じられるおぞましいまでの闇。

 人類が生きていくことが、存在が許されない瘴気の漂う世界。これが精神界の中か?

 深夜の姿を探すが、どこにいるのかわからない。どう探していいのかも。

 声を上げようとするが声が出ない。

 それどころか俺の思考が何かに食い尽くされていく。息をすることもできず、何かに身体を侵食されていく。そしてそれに身をゆだねてしまいそうな感覚。

 ダメだ、飲まれるわけにはいかない!

 何とか深夜を探し、脱出しようと術を試みる。

 だが、術が発動しない。声が出せないからか、そもそも手で印を結べているのか感覚すらなかった。

 どっちが上で、どっちが下なのかもわからない。

 これが魔界の感覚。

 それとも、死んでしまったのだろうか。俺も深夜も。

 清十郎に月雲。伊緒里と千春、親父や母さん。鬼祓師の仲間や学校の連中。そんな顔が次々と浮かんだ。

 俺は帰れないのか?

 俺も、深夜もここで消えるのか。

 せめて深夜だけでも……。

「違う!」

 心の中で叫ぶ。俺も深夜も二人とも帰らないと意味が無い。俺が深夜を助けられないと後悔するように、あいつだって自分だけが助かったら後悔する筈だ。

 二人とも助かるには深夜の、あいつの力が必要だ。

 あいつの力ならこちらからでもゲートを開けるかもしれない。

 深夜はどこにいるんだろう。

 なあ、深夜・応えてくれよ。

 お前だってまだ両親やマヤとまた会いたいだろう? ようやく月雲や伊緒里たちとも打ち解けそうになってたのに。

 何より、俺だってお前のことまだそんなに知らないんだぜ?

 たのむ、お前の力を貸してくれ!

「……ろ」

 ん? 何か聞こえた気がする。幻聴か? 音もない世界で?

 ふと気付いた。

 腕に感覚が戻ってくる。それは人の体温。

「シンヤ?」

 俺の口から言葉が出た。はっきりと。

 ゆっくりと視力が戻ってくる。腕の中にいたのは、間違いなく深夜だった。

 そして体温が感じられるってことは、こいつは生きている。

「シンヤ、帰ろう」

 声をかけてもやっぱり反応はない。だが、代わりに誰かが別の人間が返事をした気がした。

 まさかな……。

「……しろ」

 また声だ。さっきよりはっきりしている。女の声だが……深夜じゃあない。 

「誰だ?」

 返事はない。だが、変わりに深夜の身体がほのかに光りはじめた。 

 発せられた光はすぐ近くを照らし、そこにぽっかりと穴が開く。

 まるで何かに手を引かれるように、俺達の身体はその空間へと引っ張られていった。

 穴を通る寸前、誰かが俺たちのそばにいる気配をはっきりと感じた。

「静乃?」

 どういうわけだか、彼女だと思った。

 なぜだか静乃が笑った気がして、気がついたら暁の空が広がっていた。


 空を背中から一直線に落ちていく。

 それがわかっているんだが指一つ動かすことが出来ない。落ちているということと腕の中に深夜の体温があるのだけはわかっているんだけどさ。

 なんだかひどく眠い。意識がぼんやりとしていてなんだか現実感がない。

 このまま落ちたら俺たちはどうなるのか。ああ、なんだかどうでもよくなってきた。とにかく寝たい。深夜が上だからこいつだけは助かるかな……。

「……ろ」

 こりゃ完全に寝るな、という直前の俺に何か聞こえてくる。

「……しろ」

 ひどく遠くから聞こえているようで、すぐ近くのような気がした。

「……やしろ」

 誰だよ。

「八代!」「女の子もいるぞ!」「このままだと激突する!」「これだけいて止める術は誰も使えないのか?」「無茶言うな! 突然なんだぞ」「じゃあどうするんだ!」「がたがた言ってないで勢いを殺す術を唱えろ!」「そうだ、絶対必ず助けるぞ」

 それが知った声だと気づき、急速に意識が覚醒し始める。

「八代!」

 清十郎の頼りがいある声と共に背中になにかがぶつかる。誰かに背中にぶつかった感触。

「八代、シンヤちゃん!」

「八代!」

 続いて月雲と親父の声。同時に背中から伝わる重みや熱が増えたような気がした。

「八代」「お嬢ちゃん!」「遠間さん」「若!」「総統!」「兄貴!」

 次々と声があがり俺たちの背中に人が増えていく。もはや誰が誰のことを読んでいるのか全く解らなかった。

 周囲がえぐれるような音と激突音が響き、一瞬意識が飛ぶ。

 おお、背中いってえ……。

 悶えながら目を開けるとすぐ隣に、清十郎と月雲の顔があった。二人は目が合うと、

「おかえり」「お疲れ」

 と笑いかけてきた。ああ、ただいま……ってここは?

 首だけで周囲を見渡すと親父や小角、鬼祓師の仲間の身体が横たわっている。木が山火事の後みたいになっているが、これはさっきまで俺たちがいたところか。

「シンヤは?」

 いや、聞くまでもねえか。

 腕の中にはぬくもりがあった。暖かい、生きた人間特有の。

「ううん……」

 と、声を上げ力なく目をあける。焦点のあってない瞳で俺を見ると「八代」と名前を呼んだ。

「おはよう、姫さん」

「どう……なったの?」

「終わったよ。何もかも全部な」

 笑いかけると何度か瞬きをして、力なくはにかんだ笑いを浮かべた。

 ああ、生きて戻って来たんだな。

 異界では時間の流れが違うのだろうか。空にはすでに朝日が昇っている。

 「なお」とどこかで聞いた鳴き声。

 威風堂々と俺たちの身体をまたぎながら、一匹の猫がそばにやってきた。

「マヤ……」

 もう一度鳴くと、彼女は俺と深夜の顔を交互になめた。

 長い夜が、明けた。


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