第11話 ワルプルギスの夜
「ワルプルギスの夜……だと……」
つぶやいた清十郎の顔が青ざめていた。
月雲も。おそらく俺も。
「ああ、間違いない」
淡々と小角は告げる。
「馬鹿な、たった八年だぞ! 普通それは何十年か百年単位の話じゃなかったのかよ!」
「しかもまた日本で開くのですか?」
「そんな……」
俺たちは次々と声をあげる。
「日本……だけですむといいがな。過去にも何度か短い間隔で起こったことがある。その時は被害が尋常ではなく大きいと記録に残っている」
俺たちは全員が押し黙る。
「あの……なんですか、それ」
事情を知らない深夜が俺たちの様子に不安げな疑問を投げかけた。
「悪魔による……現界への一斉侵攻だ」
かつての事を思い出しながら、深夜に説明をする。
「異界が現界と接触して、各地でゲートが大量に開かれる。そのとき悪魔達が一夜に大量に出現する。瘴気による大量の陰気が現界を蝕み、人を絶望と狂気に踊らせる。魔女達の狂宴という意味で付けられたその現象をワルプルギスの夜……」
「それって……」
俺の言葉を口の中で反芻する。
「かなりまずいんじゃあ」
「まずいなんてものではない。ワルプルギスの夜が起こると現界では災厄が訪れる。かつてはヨーロッパで人口の三割が失われたなんてこともあった」
小角が俺の説明を受け継ぐ。
「それって……まさか黒死病?」
「そのまさかだ。悪魔は一般的に人には見えない。黄泉坂も知っているだろうが悪魔は現界に現れるときに人を領域に引きずり込む。そしてその領域とは瘴気の塊。厄災を招く陰気そのものだ。それが大量に地上へ現れるのだ。災害や病気という名で厄災を振りまく。中世以後の世界史で、時折出てくる人口が激減するような厄災のほとんどはそれが原因とまで言われている」
ようやく事態の重さに気がついた深夜も、俺たちのように青ざめだした。
「それが、ワルプルギスの夜……そんなのが日本で……」
「その通りだ」
小角は頷くとゆっくりと説明を続ける。深夜に、というより俺たち全員に言い聞かせるような口調で。
「八年前もここ日本でワルプルギスの夜が起こった。そのときも多くの被害をだし、尊い犠牲の上でようやく乗り切った」
ああ覚えているぜ。忘れるわけがねえ。
あのとき犠牲になったのは静乃だから。
雁谷静乃(かりやしずの)。
彼女が自ら生贄になることで、ワルプルギスの夜を止めたのだから。
静乃は元々父一人、娘一人という家族構成だったらしい。
父親は飛輪に所属する鬼祓師。月雲と同じ神道だったらしいが詳しくは知らない。
俺が知っているのは身寄りを無くした彼女の後見人になったのが亡くなったじいさんで、その縁で彼女が俺んちにしばらく住んでいたって事だ。
静乃は長い髪の毛をストレートに伸ばした、ずいぶんと神秘的な印象の女性だった。
実際彼女は綺麗だった。
ともすれば綺麗な女性は人を、子供を寄せ付けないような雰囲気があったりするものだが彼女は違った。
俺の知っている彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべていた。だからか俺はずいぶん彼女になついていた。
彼女も俺を、俺たちの面倒をずいぶん見てくれたと思う。
俺だけでなく、清十郎に月雲、まだ小さかった伊緒里の四人を嫌な顔一つみせずに可愛がってくれた。
千春の出産で母さんが入院している間は、代わって家事などもずっとやってくれていた。
その頃はすごく大人のように思っていたが、当時は今の俺ぐらいの年齢だった筈だ。
結構大変なはずだが、彼女からはそんな愚痴は聞いた事が無い。
むしろいつも俺の話をよく聞いてくれた。
「あらあら。どうしたの、八代」
柔和な表情で、そんな風に俺に話しかけてくれる彼女の顔がよく思い浮かぶ。
当時親父が忙しく、母さんが立て続けに生まれた二人の妹弟の面倒に手一杯。
じいさんとは修行以外で接しなかったこともあり、家での話し相手はいつも静乃だった。
俺は何だって彼女に話した。
じいさんにしごかれて、その修行がとても辛いこと。
清十郎と喧嘩したこと。月雲を泣かしてしまったこと。
学校であった、今思うと些細な事。
特に彼女は何かを言うことは少なかったが、いつもにこにこと話を聞いてくれた。
だから修行が辛くても平気だったし、両親がしばらく構ってくれなくても、じいさんが妹弟二人には優しいのに俺だけに厳しいのも辛いと思わなかった。
俺は彼女が好きだった。
姉のようだとか、母親代わりとかというよりむしろ恋愛的な意味で。
彼女は、俺の初恋の相手だった。
そして当時の俺は彼女と一緒の日々は永遠に続くと信じていたんだ。
彼女がうちで暮らし初めて一年以上経った頃だろうか。
清十郎と月雲、それに何人かの子供達がうちにやってきた。
ワルプルギスの夜で現れた悪魔との戦いが激化し、飛輪の家族をひとまとめにして守る為だった。
実際飛輪は追い込まれており、引退したじいさんまでもが前線にでていた。
不安に泣き出す子供もいる中で、静乃はそれでも笑顔を絶やさなかった。
俺はというと少しでも彼女にいい格好をするためか、清十郎に対抗していたのか結構大きいことを言っていたように思う。
彼女はそんな俺たちを見て微笑んでいた。
「私はみんなが好きよ。もちろん八代も。だから私はみんなを守る為だったら怖くないの」
そんな事を言った翌日、静乃は俺たちの前から姿を消した。十日にも及んだワルプルギスの夜が明けた日の事だ。
後から彼女はワルプルギスの夜を沈める為に生贄になったと聞かされた。
彼女はそういう資質をもった女性であり、自ら志願したという。
俺たちには何も言わずに。
自分一人で抱え込んで。
あれから八年が経った。
あのとき俺達に力があればと何度思ったかわからない。
もう二度と大切な者を失いたくなくて、自らじいさんに頼みこんで修行漬けの毎日を送った。
「前回は予測がつかなかったが故不覚を取った。我が国は同時期に地震、大型台風、津波、火山の噴火といった災害に立て続けに見舞われ大きな損害を受けた。その時にどれだけ人口が失われたか、黄泉坂、日本にいなくても知っているだろう。飛輪もあの戦いで多くの犠牲をだし、数を減らした。もうあのような悲劇を繰り返すわけにはいかない」
「当然だ!」
思わず大きな声をだしてしまう。
だけどよ。
静乃を俺たちから奪ったワルプルギスの夜。
もう俺はあの頃の無力な俺じゃあ無い。
二度と同じ悲劇を繰り返させるかよ。
「また犠牲がたくさんでるのかな……」
「月雲……」
今にも倒れそうなほどの青い顔だ。いつも笑顔を絶やさないこいつの顔が引きつっている。
「そうならないために戦うんだろう。臆してどうするんだ」
「だがあの当時より飛輪は数を減らしている。気合いだけでは乗りきれんぞ」
「お前は戦わないっていうのかよ!」
「そうとは言っていない。ただがむしゃらでは八年前の二の舞だ。犠牲を減らすためにやるべき事を考えるべきだと言っている」
「若宮の言うとおりだ」
小角が低いがよく通る声で言葉を続ける。
「八年前の悲劇を繰り返すわけにはいかない。それは我々の飛輪、いや世界中の鬼祓師の至上命題だ。幸い前回とは違い、我々は門が大規模に開く『歪み』の兆候をつかんでいる。奴らにいいように蹂躙されたりはしない。そのために準備も行ってきた。世界各国への救援要請も行っている……が戦力は必要だ」
一旦言葉を切って俺たちを見回す。
「当時は小さかったがお前達もすでに一人前だ。特に遠間はまだ七階位とはいえ、ダイダラボッチを食い止めた実績から精鋭部隊への参加を要請されるだろう。今回の戦い、覚悟はあるか」
清十郎、月雲と顔を見合わせる。
月雲はまだ青い顔をしているが、俺達の覚悟を感じ取ったのだろう。こくりと首を縦に振った。俺たちは同時に頷く。
小角はそんな俺たちを見て「そうか」と頷いた。
「遠間の父君は日本における防衛部隊の指揮を取ることになる。正式な飛輪からの要請を今頃本部から受けていることだろう」
母さんとのいちゃラブは数日で終わりか。
終わったらさんざんいちゃついてもらっていいから、がんばってもらわんとな。
「この件に関しては今後も逐一連絡をいれる」
「ああ……」
「だから黄泉坂」
小角は視線を俺たちから移した。
話が大きすぎたためか固まっていた深夜は、全員から突然注目されることになり、たじろいだ。
「こういう状況だ。悪魔を呼び寄せ、悪魔に力を与える能力者。それを大量の悪魔が現界に現れるという状況で放置するわけにはいかない。事件が解決するまで飛輪本部で身柄を預かる」
深夜をそっと見る。
相変わらず正座のまま身を固くしていた。話においていかれている……ということはないようだ。
真剣な眼で小刻みに身体を震わせている。
「隔離って奴か」
思わず俺は口を開いた。
「そうだ」
「他に手段は?」
「当面はない。冷静に考えてみろ。ただでさえ大量の鬼が現れるというのにそれを呼び寄せる能力者だぞ。しかもすぐ近くにいる鬼を強化させるときている。何かあって向こうの手に渡ってしまってはそれこそ人類に明日はない。もしかしたらまた新たな婆亜留すら現出するかもしれん」
大量の修羅が、しかも完全な力で現界に現れたことを想像してみる。
そいつは、本当に地獄が出来ることだろう。何せ力を失ったあの化け物一匹に、何百年も振り回されたからよ。
「霊的に強い施設で、さらに彼女自身の能力が外に漏れないように厳重管理する。能力をなくしてしまうことは無理だが抑える手段がないわけではない。しばらくそこで生活してもらうことになる」
「隔離ってまさか一生じゃないだろうな……」
「事件が終わるまでだ。ワルプルギスの夜……凶日と呼ぶが、それは一月後ぐらいにくると考えられている。それを完全に食い止めることができれば……まあ当面は問題ない」
「一ヶ月……」
月雲が「ひどい」てな顔を浮かべながらうめく。
一ヶ月も誰も知る人間がいないところで一人きりかよ。
「凶日までは普通に生活しても大丈夫だろ? その間なら俺たちが……」
「なぜ奴が、ダイダラボッチが霊的結界の強いここで黄泉坂を認識できたか考えてみろ。本能と言ったようだが、何か跡をつけるような痕跡を知らずに残していたのかも知れない。折角匿っても凶日に位置を特定されて奪われるなどという危険は避けねばならん」
だからといって、他に方法は……。
「いいさ、八代。……あたしはそこに行く」
ずっと黙っていた深夜が自分の意思を告げた。はっきりと。
「元々学校もあまり行ってなかったし。堂々と休む言い訳になるだろ?」
「お前……」
「それにさ。もう鬼を見るのもまっぴらなんだ。あんな気持ち悪くて怖いもんもう嫌だよ。あたしはあんたらとは違うんだ。今までそんなの関係なしに生きてきたんだぜ」
「だからって!」
「だからなんだよ? 仕事だろ? 仕事があたしの護衛からワルプルギスの夜だっけ? それに対応することに代わっただけじゃん。そっちの方が大事だってぐらい、あたしにだってわかるよ……」
てめえ、自分勝手なくせに……空気読んでいるんじゃねえよ。
「マヤは一緒でも……あ、飼っている猫なんだけど」
「猫ぐらいは構わない。トイレの躾はちゃんとできているな?」
「それは大丈夫。マヤは賢いから」
俺は膝を畳につけて半立ち状態だった。そんな二人のやりとりが耳に入ってくる。
だが俺には何も出来ない。
こいつの言うとおり、ワルプルギスの夜に備えることが俺に出来ることであり、優先事項だ。
「明日早朝飛輪の者が迎えに来る。それまでにでる準備をしといてくれ。持っていく物があるなら家の方にも先に寄ってから行く」
二人の会話がずいぶんと遠くで行われているような、そんな気がした。
朝の五時。
空が明るみ始めているとはいえ電気なしで家を歩き回るにはちと暗い。
電気を付けると深夜はぎょっとした顔を向けた。
「なんだよ、起きていたのか?」
「出て行くときぐらいは見送るさ」
「怪我しているんだからわざわざいいのに」
「怪我しててもそれぐらいなら出来るさ」
「そいつはどうも……あ、わかった。お前あたしと会えなくなるから寂しいんだろ?」
「ああ寂しいよ。マヤとしばらくお別れだからな」
名前を呼ばれたからか、かごの中でマヤについている鈴の音が聞こえた。
「なんだ? マヤは寂しくないってか?」
「お、マヤの喋っていることがわかるようになったのか?」
「なんとなくだよ」
ふふんと深夜は得意そうに笑う。
「なんとなくじゃあまだまだだな」
「へいへい。俺はマヤとの仲も陰陽師としてもまだまだだよ」
「……そっちは知らないけど。肩は大丈夫か? いつもあたしのせいで怪我ばかりさせて」
「怪我するのは未熟だからだ。そしてこれが俺の仕事なんだ。お前が気にする必要などどこにもない」
「……そうだよな。仕事だもんな」
「ああ仕事だよ」
深夜はふと寂しげに笑った。
「今までありがとうな。仕事とはいえずっとあたしを守ってくれて」
「殊勝な態度を突然とってもきもいだけだぞ」
「うるせえよ、馬鹿」
最後にそう言い残すと「またな」と行って出て行った。明けられた玄関から車が停まっているのが見える。誰が運転手だとか、そういうのは確かめなかった。別に寂しい訳じゃあない。だから未練がましく外まで見送りにでたりしない。
「ご飯美味かったよ。ごちそうさま、ぐらい言っておいた方が良かったか」
車が走り去るのを確認してから、一人呟くと、俺は玄関を閉めた。
その日学校から帰ってきた俺は何をするわけでもなく居間でぼんやりしていた。
ここ最近は毎日深夜と朝夕一緒だったので、なにか生活リズムが崩れた気がする。
やらないといけないことはたくさんある。
だがなんとなくやる気になれず、時折台所の方に足を伸ばした。
意味なんて、特にない。
「どうしたの? お兄ちゃん」
俺がうろうろしていると、台所で冷蔵庫の前にいた伊緒里が見とがめてきた。
「何となくだ」
その答えに納得がいかなかったらしく、伊緒里は居間に戻る俺に付いてくると、そのまま横にちょこんと座る。
「シンヤさん行っちゃったね」
「そうだな」
「……寂しくなったね」
「ああ……」
認めるよ。
あいつの口汚い言葉を聞くのも、眼を輝かせながら古代遺跡の話をしているのを見るのも、存外嫌いじゃなかった。
偉そうなくせに人見知りで、わがままなくせに気を使ってばかりの矛盾の塊みたいな性格を、俺は結構気に入っていた。
ワルプルギスの夜。
狂乱の前夜祭。
あいつが早く元の生活に戻るために、一日でも速く終わらせねえとな。
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