第7話 婆亜留(バアル)①
身体がぞくぞくする。
頭の芯から指先までしびれるような、暴力的な寒気。むろん風邪じゃねえ。強力な鬼の気配だ。
「まさか……俺んちだぞ? この街で一番安全な所だろうがよ」
非難した小学校が災害で真っ先に沈むのと同じことだ。
飛び起きるとありったけの霊符をもって、部屋を飛び出して客間に向かった。
いろいろ腑に落ちない点は多いが、狙われているのが誰かははっきりしている。
走りながら家全体が引きずり込まれたわけではないことを確認し、紙に術を施すと外へ飛ばす。目的の場所に近づくと瘴気の強さがはっきりとわかった。
「にいちゃん……」
眠気眼の千春が廊下にいた。こいつはうちの女衆と違って資質がある。この瘴気に眼を覚ましたか。
「千春、お前もうちの子ならわかるな。兄ちゃんは今から仕事してくる。お前は親父が帰ってくるまで母さんと姉ちゃんを守るんだ。できるな?」
まだ頭ははっきりしていないようだが千春は力強く頷いた。頼むぜ、未来の陰陽師よ。
走る弟の背中を一瞬だけみやり、俺は印を結ぶ。そして客間に飛び込んだ。
「シンヤ! 大丈夫か?」
探すのはただ深夜の姿。無事であることを切に願って。彼女は……いた。
部屋は鍾乳洞のようになっている。既に奈落に落ちているのだ。
部屋の中心にいるそいつは人型。身体全体にアスファルトを重ね合わせたような、アメリカンのヒーローコミックに出てくる悪役っぽいシルエット。
身長は三メートルって所だろうか。悪魔の見かけなんかあてにならねえが。
そいつのすぐ足下に寝間着代わりのジャージを着た深夜がいた。部屋のどこかの部分が崩れたがれきがあり、それに押しつぶされている。ズボンが赤く……染まって……
「何しやがるんだてめえ!」
霊符を投げつけると同時に発動の術を唱える。寸分違わず額の所に吸い付き、それは爆発を起こした。俺の持っている霊符の中で、もっとも強力な術を仕込んだ霊符だ。
爆炎が身体を包むのを確認すると、すぐに結界を込めた霊符を二枚設置し、発動させた。
「シンヤ! おい、返事しろ」
「なお」と飼い主に変わりマヤが返事する。お前が無事なのは良かったが深夜は? まさか……。
「や、八代……」
倒れたままだが不思議な色の瞳を開き、確かに俺を見あげていった。
「良かった! 生きていたか? 怪我は大丈夫なのか?」
「怪我? ……あ、そうか。マヤが大きな声で鳴いて、起きたらちょうど天井が崩れてきて……足が……」
「そうかマヤ、ご主人を守ったか。偉いぞ、お前は男だ!」
「マヤは雌……」
「……すまん。それより傷は?」
「痛い……けど動けない程じゃあ、ない、と思う」
「わかった。傷の手当てをしたいところだが少し待ってくれ」
まずは眼の前の悪魔を倒すことからだ。爆風の中で気配がある。
次の瞬間悪魔から光線のような何かが飛んで来た。
それは俺の結界に阻まれて……
「何!」
二重に張った霊符が瞬く間に黒く染まる。まさか一撃で?
慌てて印を組み術を連続して唱える。霊符の結界をあっさりと貫通し、更に俺が今しがた張った結界と干渉する。
「く……やらせるかよ」
次々と印を組みながら何度も結界を張り続ける。どうやら攻撃が電気のようなエネルギーの塊であることが理解できたのは、幾重もの結界をかけてようやく反応が止んだ時だ。
たったそれだけで、今にも倒れそうになるほどの疲労感。
「まさかこれほど……」
二枚を結界に回したのは深夜の無事を確認し、必要ならば何らかの応急処置を行う時間が欲しかったからだが……。
もし一枚なら……俺は今のでやられていた。
霊的に強い我が家に入り込むのだからそりゃ並の悪魔じゃあないだろう。しかし、いくらなんでも強さが段違いだ。こんな奴が現界に……。
「八代、危ない!」
深夜の声が届くころには、すでに眼前に奴がいた。
巨体を音も無く忍ばせいつの間にか俺の目の前にいた。そして無造作に巨大な腕を俺に振るう。
駄目だ、術が間に……
頭蓋骨がひしゃげるような轟音が耳元で鳴る。
しばしの浮遊感があり、直後に背中に強烈な衝撃が伝わる。
「いやああああ! やしろおおおおおお!」
深夜が妙に色っぽい悲鳴を上げるのが聞こえる。
あ、あぶねえ。もう少し神行業の術に切り替えて、身体の耐久力をあげるチャクラを解放するのが遅れていたら、今頃全身トマトだ。
大丈夫だと深夜に伝えたいが、背中の衝撃が思ったより強くて声がでない。
なんとか身体を起こすと奴の巨体が移った。さっきと同じ……いや、腹の辺りにある黒い部分がはがれ、中から生々しいというか肌みたいなものが見えている。
「やしろ、八代! 死んじゃあ嫌だ!」
どうやらあいつの位置から俺は見えないらしい。その声に反応している訳じゃあ無いだろうが、また一部黒い部分がはがれ、脈打つ身体が露わになる。
おっと観察している場合じゃねえな。
わざとらしく大きな音を立て、印を構えながら立ち上がる。
「おいこら。いきなりぶちかましやがって。そいつ相手するより先に俺にお礼参りさせろや」
「八代? 生きてた!」
深夜の声が遠くで聞こえ、それはすぐ近くに変わる。神行業の術で間に飛んだためだ。
眼の前に立つとやはりでかい。術をかけたい所だがこいつの底が知れない。
しばらくは守りに徹して身を固め、とにかく深夜からこいつを引き離さないと。
コノクニノマホウツカイカ
ん? 今声が聞こえた気が……
「しゃ、しゃ、喋った!」
深夜にも聞こえたってことは空耳じゃねえ。てことは……
「てめえ……まさか婆亜留(ばある)か」
キサマラアッシャー(物質界)ノモノガツケタナマエナラソウナル
おい、マジかよ……。
魔界の鬼の中でも高位の奴は、人間と意思の疎通が出来る。そいつらを悪魔とか修羅とか読んでいるんだが。。
その中でこいつのように人間のように言葉を必要としない。伝える意思をこうして声の代わりに脳裏に直接伝えてくる奴がいる。
これならどんな国の言葉だろうが関係無いって事だ。
もっとも俺だって話で聞いていたぐらいだ。
それが出来るのは異界でも最高位である悪魔の王とか魔貴族とやら言う意味である奴ら、『婆亜留』に限られる。
中世の騎士英雄譚や神話に登場する悪魔のモデルとすら言われる大悪魔。俗な言い方をすれば魔王。
まさかこんな大物が現界に来ていたのかよ。
「バールって何さ」
「歴史にその名前を残す有名人(スター)だよ。嬉しいぜ。サインをお願いしたいからちっと向こうにいかないか」
ムスメヲニガスタメカ、オロカナコトヲ
「お褒めに頂いて嬉しいね」
ふてぶてしい笑いを作って見せたが、俺の全身は汗でびっしょりだ。
まともに暴れると街すらあっという間に消滅させるような相手だ。強がりでもなんでも叩かないとプレッシャーでぶっ倒れそうだぜ。全く。
「それでシンヤをどうするってんだ。お前達に取ってこいつはなんだ? この街一番の霊的結界を破る程まで必要だってか?」
ソノトオリダ
無言だと思っていたのだが反応があって驚いた。
「深夜を狙っていたのはお前か? こいつが何に必要なのか教えて貰いたいねえ」
能力の正体を知りたいのは嘘ではないが、こいつの気を少しでも逸らしたい。
コンタンハ読メテイル、浅知恵ダナ
ですよねえ。
「ありがとよ」
汗を流しながら必死で応対する。喋るだけでなんて瘴気を発するんだ、こいつは。
ダガソノユウキハショウシヨウ。若キ魔法使イ
……おや?
我ガ必要トスルノハソノ娘ダケ。オトナシク渡スナラバ貴様ハミノガス
……どういうつもりだ? 言葉がわかりやすいの慣れたからだろうが、なんでこいつ俺を見逃す必要がある。
貴様トテ格ノ違イハワカッテイルダロウ。短キ命ヲ無駄二スルコトアルマイ
わからねえ。何の魂胆があるっていうんだ。
「なあ、八代……」
俺の思考を一時中断させたのは、背後からの声だった。
「そいつすごく強いんだろ? 勝てないんだったら……せめてお前とマヤだけでも」
「……次それを言ったらゲンコツで殴るぞ」
「でも……」
「二発だ」
娘モソウ言ッテイル。素直二従ッタラドウダ
「うるせえよ、悪魔」
そうだ、こいつは悪魔だ。
悪魔の目的ってなんだ? もちろん人間と思考回路がまるで違うんだが、俺が知る限りは人に恐怖を与える事を目的にしている。
ところで人間が本当に恐怖するものは「理解できないもの」だ。
正体もわからず、ただ原始的な恐怖が押し寄せるもの。
人が暗がりを本能的に恐れるのもそれだろう。身近な物だとゴキブリもそうかも知れねえ。
それに比べて会話が通じるってことはそれだけで安心感があり、恐怖は和らぐという。
だがあえて意思を伝えるのにも当然意味がある。
まず原始的な恐怖は正体がわからないだけに抗うか、屈するかの二択しかない。
それに比べて会話が成り立つということは「希望を抱かせる」ことを出来る。だからその希望にすがるようになる。今の深夜みたいに。
悪魔との契約がはじめから不平等なのは最初から誘導されているからだ。
じゃあこいつがそうする理由は何だ?
一つには俺がこれで深夜を見捨てて苦悩することを楽しむ、という理由だろうか。だがこいつがわざわざここに来た目的は深夜の何らかの力。
他に意味があるとすれば……。
「もう一度言うぞ。陰陽師は悪魔との取引に応じない。あるのは貴様等を現界から追い出すか消滅させるかの二択だけだ」
愚カナ。後悔スルゾ。
「お前がだろ。余裕ぶっているんじゃねえ」
……ナンダト
「お前実は一杯一杯だな? その黒いの鎧っぽく見えるけど実は傷だろ。少しだけ見えている身体に比べて光沢がまるで違う。その傷はどうした? 誰にやられた?」
希望的ナ観測ダナ
「言いたくないなら言ってやるよ。お前は他の鬼祓師達に追い込まれているんだろ? その状態で無理矢理霊的結界を破ってまでシンヤの力を狙ったんだ。力なんか残ってないだろうよ。シンヤを手に入れれば何が出来るかしらねえが、ここにいる俺が邪魔ってわけだ。もう危ない橋をなるべく渡りたくない。だから俺を遠ざけたいってところだ」
考えるまでもなかった。
こんな大物が何匹もこっちに来ているわけがない。
こいつ先月封印から解けて親父達が夜な夜な追い回している数百年前に封印されていた鬼だ。
かつてばらばらだった日本中の魔術師達が手を組み合い、『飛輪』を作ったってほどの。
酒呑童子や九尾の狐と並ぶ最強の修羅。
日本名ではダイダラボッチ。
いくつもの伝説を刻んでいる大悪魔だ。
数百年前に当時の法力僧に追い込まれ、目覚めたところで強力な鬼祓師に狙われ、俺んちにある霊的結界を無理矢理破ったのだ。無事ですむ訳がない。
己ヲ過大評価シスギダナ。地獄デ後悔スルガイイ
「そうさせてくれよ」
同時だった。
奴の頭が黒く光るのと、俺がかがみ込んで移動するのが。
おそらくは先程の光線を放とうとした奴の動きが躊躇する。
それをみるや結界に使うつもりだった霊符から別の霊符を投げつける。それは奴の右手から放たれた光によって妨げられ、霊符は床に落ちた。
「後悔させてくれるんだろ?」
あいつの表情はわからないが、人間と同じなら歯ぎしりしているところだろう。
やはりあいつは深夜を多少傷つけても殺すことは出来ない。俺が深夜との直線上に入ったから攻撃を躊躇った。
初撃の時も無造作に見えて倒れている深夜に当たらないようにしていた。むしろ俺と戦うことを避けようとしたのはこっちが理由かもな。
深夜が奴にとってどういう意味で必要なのかまだわからない。
だがあいつらにとっては生きている必要があることがわかれば充分だ。
躊躇わずに撃たれていたら止めるためにかなりの霊符を使うことになっていただろうが、危険に見合った成果は得られた。
「シンヤ、悪いが少しばかり待っていろ。巻き込まれないようにな。動けるか?」
「う、うん」
声をかけると慌てながらもしっかりした声が返ってくる。
「あたし八代を信じる。だからお願い……八代も無事で」
「当然だ」
嬉しい事を言ってくれるじゃねえか、お姫様よ。
だったらそれに答えるのが侍ってもんだ。俺は侍じゃ無くて陰陽師だけどな。
「さあて、それではとことんやり合いますか。ダイダラボッチの旦那」
左手で何枚もの霊符を握り、右手で印を組み、俺は不敵に笑って見せた。
奴の身体が動くのに合わせ、俺は矢継早に術を唱えていく。
五芒の星が闇に光り、無数の霊符が舞った。
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