第5話 門


 静かだった。

 何の気配も無い、いや――無さ過ぎた。

 当然あるはずの他の住民の気配が何一つ無い。

 エレベーターの上についている明かりが突然消える。

「あれ、球切れてんのかな?」

 ここに来てようやく深夜もきな臭い何かを感じ取ったようだ。不安そうに周囲を見回す。あいつもそういう気配を感じているはず。

 そう、俺たちは引きずり込まれた。

 奴らの、悪魔達の領域(テリトリー)に。

 悪魔は身に纏った瘴気から襲ってくるとき現界とは少し位相がずれた特殊な結界を生み出す。

そこに引きずり込まれると一種の別世界が形成される。奈落だとか魔界の限界とか呼ばれている世界。

 昔から言われる『神隠し』って奴で、人が突然姿を消したり、気がついたら別の場所にいたってのはこれが理由だ。

 陰の気が高まると『門』を通して現界に現れる。

 それが奴らにとっての逢魔の刻。

 悪魔はどこかで俺たちを、いや深夜を狙っている。

 やってくるのはどこからか? 俺は入り口からマンションの外全体を見回すように警戒しつつ、ゆっくりと深夜の方に下がっていく。

 チン、とエレベーターの降りてきた音が場違いなほど大きく響き渡った。

 次の瞬間だった。

 エレベーターが開く音と同時に、背後で醜悪な気配がふくれる。

「ひぎゃああああ!」

「シンヤ!」

 外から来ると思ったが中からかよ。振り返るとちょうど気色悪いピンクのロープみたいなものと、シンヤの足がエレベータの奥に消えていくところだった。

 エレベーターの扉は俺がたどり着くとほぼ同時に閉まった。ち、更に向こうに引き込まれてしまったか。

 かなりの瘴気だ。今回現れた奴は相当強力な鬼らしい。

 だが、おかしい。俺は鬼がいつ現れても対応できるように術をかけた六壬式盤を持ち歩いている。どこかで、門が開いて悪魔が近づいてくるその前に反応したているはずだ。

 この瞬間まで気配がなかってことは、『今この場』で門が開いたということになる。

 門というのは向こうから場所と時間を選んで開けれるようなもんじゃない筈だ。

 偶然、タイミング良く、深夜の近くで、たった今開いたって言うのか? そんなバカな。

 いや今は考えている場合じゃない。深夜を助けねえと。

 エレベータの扉は閉じている。こういう場合結界の術式を解析して術で開けるか、現界ごと干渉して無理矢理開ける……要はぶっ壊すかの二択。

 一見してすぐに簡単に解析できるものではないとわかった。

「つまりは後者だ。呪・爆・縁・言・開!」

 印を組みながら五芒の星を描く。直後に爆発が置き、扉は砕け散った。

 人命優先だ。マンションの管理人さん、許せよ。

「シンヤ、大丈夫か!」

 ドアが壊れると同時に、不快な臭いと湿気の混じった気持ち悪い空気が肌をなでた。

 中に飛び込むと、次に異様な光景が眼に入る。

 エレベーターの中にしては明らかに広い部屋。どす黒いピンクというか赤黒いものが部屋中で脈打っている。

 足下は粘着しており、妙に柔らかい。熱が靴を通して伝わってくる。奴らが住む魔界に近い世界の光景。

 深夜は……すぐ正面だ。

 同じ色をした太くて長いものに身体を巻き付かれていて、それは深夜を更に奥へと引きずり込もうとしていた。

「なんだ、これ! 気持ち悪い! 離せ、こら。離せ!」

 三番目に入ったのは深夜の混乱したような声だった。

 深夜は必死で抵抗しているみたいだが当然細腕で抵抗できるわけなく、徐々に引っ張られている。

 その先は、完全な闇。まさか魔界か?

 やべえな。魔界にひっぱり込めるってことは、最低でも第三階級以上の悪魔か。

 正五階位の鬼祓師がチームを組んで討伐を受けるぐらいの奴だが……

「や、八代助けて!」

 飛び込んだ俺に気づき、深夜がすがるような声と眼を俺に向けてくる。

 ち、迷っている暇ねえか。

 構えたその時だ。

 闇の中から別の何かが、俺に向かって高速で向かってくる。

 石のようなとがった、牙のような二つのモノ。

 やがて響く激突音。

「八代!」

「大丈夫だ!」

 俺の手には剣が握られている。霊符に込めてあった『護身剣』だ。

 いわゆる術のこもった武器で鬼を直接切ることができる。牙を受け止め、二本ともたたき切る。

「必ず助ける! もう少しだけ我慢してくれ」

 深夜に叫ぶと、印術を唱える。

「……示せ。縛!」

 術と同時に深夜を引きずる力が止まる。これで時間を稼いだ。

 ここは奴らのテリトリー。それにこいつは俺を倒すより深夜を連れ出すことを優先している。

 深夜を助け、ここで必ず滅っさないといけない。

 結界の霊符を発動させると、すぐさま新たな術を唱えた。

 陰陽術は密教の術などより一撃の威力に欠けるが、その分多くの術を連続で、複合で使うことが出来る。

 お家自慢じゃないが、飛輪でもっとも強力な術は陰陽術だと俺は信じている。

 自分を、陰陽術を信じて、奴を滅す!

 そんな俺の頭上に天井から液体が落ちてきた。それは身体に纏った結界で防がれるが、術を発動する媒体である霊符がそのしずくを受け少し黒ずんだ。

 酸か! そういえば部屋全体がまるで、そう。口の中みたいだ。

「てことは足下のは舌かよ。趣味悪いぜ」

 悪態をつきながらも術を急ぐ。この結界は長く持たない。

 俺は印を組み替えながら次々と術を唱える。

 天井から落ちてくる液体の量が増し、結界を穿つ。霊符はもう真っ黒だ。

 足下もさっきから靴を通して伝わる熱がだんだんと高くなっている。

 緊張で汗が全身から噴き出し、ともすれば焦りで心臓が高鳴っていた。

 だが俺は出来る! 手早く、正確に、冷静にだ!

 やがて霊符が完全に力を失い、燃え尽きる。そして俺を守っていた結界が破れる。

 大量の液体が俺の全身に降り注ぐのと、術が完成するのは同時だった。

 まず浮遊感。それから足下の熱が消え去り、背後で液体が落ちる音。そしてすこし離れていた深夜の顔が手を伸ばすところにあった。

 神行業の術の一つで身体を浮き上がらせたのだ。

 続いて第二の術を次々と打ち出す。

 第一に『金』の刃が深夜を拘束する舌を切り裂き、

 第二に『水』が天井から流れ込む液体を流し、

 第三に『木』が深夜を守るように覆い、

 第四に『火』が身体から離れてもなお、深夜に巻き付いていた舌を焼き払い、

 第五に『土』が足下から飛び出そうとした何かを止めた。

 五行相生術。

 陰陽師の使う五気の力を同時に使い、それらを相生させて威力を底上げする術だ。

 五枚の霊符を解放することで一つ一つの気を強めてある。

 術威力を高めれば高めるだけ調整が難しくなり、わずかでも術のにミスが許されなくなる。

 練習でもこれほど威力を増した術を五行全てで、しかもこの速度で試したりなんかしたことなかったが上手くいったぜ。

 解放された深夜を空中で受け止めると、そのまま作った足場に降り立った。

「すまん、待たせて。痛いところはないか?」

「……お、おう」

 この数日で見たことが無い表情をして口をぱくぱくさせている。

 よほど驚いたんだろうな。

「……ところでお前軽すぎないか。やっぱ飯足りてないんじゃあ」

「い、いいだろうそんなこと。早く下ろせよ!」

「ああ。わかったから暴れるな」 

 蹴飛ばされては敵わんからそっと地面に下ろした。この土はいわば術による霊的な保護なので多少は安全だ。

「倒したの?」

「まだだ。本体がどこかにいる。お前を狙っているんだから離れるなよ」

 制服の内ポケットから新しい霊符を取り出す。結界の術を発動させると、六壬式盤を取り出し術をかけた。

 ……駄目だ。陰の気はそこら中に充満しているんだが。もっと深く術をかけないと探せないか。

「なんか変な音が聞こえないか?」

 言われてみて耳を意識してみた。確かにかすかに音が聞こえる。

 いや、かすかだった音がだんだんと、大きくなっていく。

 印を結び、その方向に軽い術を放つ。

 赤黒い肉がはじけ、音の正体が姿を見せた。

 それはやや赤みのかかった黒い虫だった。それが無数に、部屋の肉っぽい部分を食い破りながらでてくる。

 ぐちゅ。

 ぐちゅぐちゅ。

 ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ。

 嫌な音を立てながら次から次へとそいつらは溢れでてきた。

 蜘蛛の子が親の腹から、あるいはゴキブリが一斉に卵から孵るような。

 両方見たこと無いけど、たぶんインパクトとしては同系列で、しかもこっちの方がグロテスクだろう。

「い…………」

 すうと深夜の髪の毛が逆立ち、見える限り身体全てから一斉に鳥肌がたつ。

「いやあああああああああああああああああ!」

 深夜が悲鳴を上げると同時に更に音が大きくなった。

 それは俺たちがいるところ以外の全ての床、壁、天井からだった。

 恐ろしい速度で周囲を埋め尽くし、次々に空を飛び始める。

「深夜、眼を瞑ってうつむいていろ!」

 印術による結界を張る。呪符の結界は数が多すぎてすぐに駄目になってしまったのだ。

 虫たちは数を増やしながら俺たちの周囲を飛び回る。俺は術を唱えながらも本体を探る。

 音はいつの間にか虫が飛び回る不快な耳鳴りへと変わっていた。

 深夜は耳をふさいでうずくまっている。悪い、もう少し辛抱してくれ。

 やがて式盤が大凶を、本体の場所を探り当てる。そこは――

「真上か!」

 護身剣を天井に向かって投げつける。確かな手応えがあった。

 周囲の酸が溢れ、俺たちに降りかかってくる。

 大量の虫が、気色悪い歯音を立てながら飛びかかってくる

 そして剣が切り裂いた先から、醜悪な怪物がうめき声を上げながら飛びかかってきた。

 俺は五芒を切ると、続けざまに霊符を投げつけ、術で発動させる。

 土壌を隆起させる霊符を発動し、酸の雨を防いだ。

 火と木の霊符を組み合わせた火爆結界を作り、虫を焼き落とす。

「あひぃいいあ!」

 醜悪に身体がつぶれながら、なお動こうとする虫の不気味さに深夜が壊れた声をあげた。

 見ていないはずだが、声と匂いだけでも、人の本能的な恐怖をかきたてるのだろう。

 悪いがもう少しだけ我慢しろよ。

 体中酸で溶けたような塊が俺たちに迫ってくる。

 そいつに向けて、再度術を唱えると、指先で九字をうつ。

「南斗、北斗、日形、月形、四神の解放以て凶事を祓い給へ!」

 確かな感触が指先から全身へと伝わる。

 渾身の術が護身剣を通して悪魔の全身を破壊する感触。

 人には聞こえぬ断末魔があがった。

 そこを中心に天井から床へと光が室内を照らす。

 同時に虫たちが次々と消滅していった。

「脱出するぞ、シンヤ!」

 うずくまっていた深夜を立たせ、手を引いて走る。吉の方角へ。

 何もない空間を五芒の印と共に術をかけると出口が、現実の世界がボンヤリと浮かぶ。

 深夜をひっぱり、その空間へと飛び込んだ。

 次の瞬間――

 見慣れたマンションの入り口が現れた。ここ一週間毎日朝夕みているエントランスだから間違いない。

 やれやれ、ようやく終わったか。

「もう大丈夫だぞ」

 深夜は俺の声に顔をおそるおそるあげる。眼はぎゅっと閉じたままだ。どうやら眼を瞑ったまま走っていたらしい。よくこけなかったな。

 俺の声にゆっくりと震えながら眼を開ける。

 俺が後ろを指差すとそっと振り返る。いつものエレベーターがあった。俺たちが今まで入ってきた扉は、無残に壊れていたが。

「はははははははは……」

「おい、もう人が戻ってくるんだから座り込むな」

 乾いた声を上げながら尻から床に座り込んだ深夜を、視線を外しながら手を引いた。

 なぜ眼をそらしたかというと、スカートで足を開いた体勢なので、長い足の奥が見えそうになったからだ。

 見ていないよ? 水色なんて知らない。

 なんとか深夜を立たせ、今日は部屋の前まで送ることにする。

 さすがに壊れていないもう一つのエレベーターを使う気にはなれなかったらしく、部屋があるという六階まで手を引いて階段を登ることにした。

 それにしてもなんでさっきはなんでゲートがここで開いたんだ? ゲートは陰気が集まるところに現れるとされる。

 おおよその見当はつくが、確実にいつ、どこで開くなんてことは予想がつかない。ましてこのマンションの辺りにそんな陰気が溜まっていないことは確認しているのだが。

 そんな風に考えていたら六階にたどり着いた。こいつの部屋らしい608号室だとのことでその前までついていく。

 念の為に視てみたが結界はきちんと作動していた。小角の奴かなり強力な結界を張ってある。

 これは複数の術士で行った複合結界だな。これなら安心だ。

「また明日な」

 さっき悪魔を倒したが、深夜を狙っているというのはあいつではないだろう。能力に惹かれた鬼という所か。

 まだ狙いをつけている特定の鬼がいるのか、それとも能力が目覚めるとありとあらゆる鬼を招き寄せるのか。

 この辺りの事は本部の連中に解析して貰うしかない。俺に出来ることは護衛任務を続けることだけだ。

 そして当面はまだ護衛が必要なのは考えるまでもなかった。

 後は帰って今日現れてた鬼について報告書をあげるか。第三階級を一人で倒したって信じてくれるかねえ。

 帰ろうと部屋の前で「じゃあ」と手を上げたんだが、動こうとしない。

 ……てかこいつ俺の服の裾握ったままじゃねえかよ。さすがに少し恥ずい。

 どうしたもんだと頭をかいていたら、ようやく口を開いた。

「よ、夜になったらあんなのが一杯でてくるのか? 前みたいなのとか」

「逢魔の刻は陰気が集まり鬼が現れる夜の時間をさす。穢れは祓うと陰気を清めるからこの辺りは逆にしばらく安全だぞ。なんにしろ部屋にいる限りは大丈夫だ」 

「あ、あたし、いや、あたしだけじゃなくて、マヤもいるけど。その……」

「もしかして怖いのか?」

「べ、別に怖いわけじゃ……」

 怖いんだな。……ま、こんなこと普通に生きていたら体験することなんか無いわな。

 まして女の一人暮らしだし。

 ――ふむ……仕方が無いか。

「ちょっと待っていろ」

 深夜の手を無理矢理はがすと、俺は携帯電話を取り出す。

 何回目かの呼び出し音の後、「もしもし」と定型な返しが聞こえた。

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