第2話失せ物の名は信用〜緋色の雪女との対峙〜《中編》


 それからも毎日のように張り込みを続けた。アリサも懲りずに僕を茶化しながら張り込みをしていたが、お互いに収穫はゼロだった。

 そして再びマリーが事務所を訪れる日がやってきた。


「一◯年前、娘が亡くなりました……」


 ——娘が亡くなった——


 僕とクララはマリーの口から語られた事実に思わず絶句してしまう。知ってはいたが、やはり本人の口から語られた真実には重みがあった。応接間に物言えぬ空気が流れる。

 幸せな家庭環境が一転、奈落の底へ。

 依頼主の心の無くし物の根源は深いところにある。

 静寂を破ったのは語り部であるマリーだった。


「夏の風の強い日でした。家族三人で海へと出かけたんです。事件が起きたのはその帰り際……荷物を片付けている時でした。娘も一人で出かけられる歳だったのでしばらく目を離していたんです。そうしたら、姿が見当たらなくなって……娘が履いていた片方のビーチサンダルだけが海岸で見つかって……警察の調べでは波に攫われてしまったと……」


 マリーの咽び泣く声が部屋に反響する。その音は哀しさと一言では表せない。一◯年間で移り変わっていった様々な思い——後悔、自責、捜査への不服、絶望、失望——が詰まっていた。


「これが娘のセレーネです」


 彼女は夫婦で身につけているというロケットペンダントを外し、中の色褪せた写真を僕に見せる。写真に写っていたのは一◯歳前後の少女だった。右目の下にある泣きぼくろが特徴的だ。


「昔から物を隠す手品が得意な子だったんですよ……セレーネは構って欲しかったのかよくいたずらで物を隠すんです。でも、忙しかった私たち夫婦は『物を隠しちゃダメ』と軽くあしらうばかりでした……まさかあの子自身が神隠しにあってしまうなんて思いもしませんでした……こんなことになるならもっとちゃんとセレーネを見てあげればよかった……私たちが悪いんです……」

 どう声をかけてあげればいいのかわからない。

 僕には子供を失った時の気持ちがわからない。こんな時ハードボイルド小説の主人公たちは依頼人になんと声をかけるのだろうか?

 考えても考えても言葉に詰まる。何度口を開こうとしても、次の瞬間には閉口している。若輩者故の至らなさに苛立ちを覚える。挙句、投げかける言の葉が浮かばないまま時間だけが刻々と過ぎていく。


「あの頃の私は悲しみに暮れることで精一杯で……だから夫も……私に愛想を尽かしたんでしょう」


 果たしてそうだろうか?

 残された家族を置いて別の女の所へ行くのだろうか?

 現状の証拠では真っ黒な夫ダリル。会ったことも話したこともない相手だが、子供想いであった父親がそんな簡単に忘れられるのだろうか? 浮かび上がってきた疑問は飲み込むことができず、この事件の違和感となっていく。


「夫はセレーネを忘れる道を選んだんですよ」

「それは違うと思います! あ、いや……現状ではそんな確証はないんですが……でもなんか違うんと思うんです。それにたった一人の家族でしょう? なら信じてあげても……いいと私は思うんです」


 僕の違和感を代弁するようにクララが叫んだ。その叫びは痛切でどこまでも真摯な気持ちで一杯だった。相手の気持ちを逆撫でするかもしれないことなんてお構いなしでどこまでも愚直だけど素直な想いの塊。

 僕はなんて未熟だろう。こんなふうに素直に想っている気持ちすら届けられない。高校生のクララの方が依頼人の心に寄り添っているように見えた。


「所長さん……」

「すいません……出過ぎたことを言いました。今はなんとも言えない状況なのに」 


 クララはガラステーブルに頭をぶつける勢いで謝罪を述べる。彼女の膝の上に置かれた手が力んで震えているのが見てとれる。


「ううん。いいの。あなたの素直な気持ちは伝わったわ。あの人のことをそんなふうに信じてくれる子がいるなんてね……」

「え、あ、いえ! でも、本当にすみません!」


 マリーの言葉で顔を上げたクララが再度頭を下げる。


「探偵さん。お願いします。夫ダリルが浮気をしてないことを証明して下さい」


 その言葉には家族を想う気持ちがこもっていた。「本当は疑いたくない。信じたい」。そう訴えていた。


「ええ。お任せ下さい。このアルフレッド・ダント・ムントが必ず依頼を果たしてみせます」


 僕の言葉を聞いたマリーは優しく微笑んでみせた。憑き物の取れた晴れやかな笑顔が僕の胸のエンジンを鼓舞させる。


***



「あんなこと言っちゃってよかったのかな……?」


 マリーが帰った後、クララはぼそりと独り言ちた。


「いいんじゃない? アルフレッドだって同じこと思っていただろうし」


 クララの言葉に反応したのは普段は無口なイリーアだった。いつものようにパソコンと向き合いながらではあるが、会話に自分から参加するのは珍しい。


「だよね! だよね! だってアルが人を疑ってるのってなんからしくないもん!」

「らしくない?」

 ——出会って間もない君が何を知っているんだ?——

 と言い返しそうになったが、その言葉は自然と腑に落ちた。自分らしくないのかもしれない。


「うん。だってアルは依頼人の私に寄り添っていてくれた。どんな内容だろうと依頼人の裏になにかがあっても依頼人の信じる気持ちを大事にしていた。じゃなきゃ『死んだ兄さんを探して』なんて私の依頼を受けてないと思うから。だから、私もマリーさんが本当はダリルさんを信じたい気持ちを大事にしてみたかったんだ」

「依頼人の信じる気持ちを大事にする……か」


 疑うのは大事なことだ。この世に偽りが存在する限り必要なことだ。


「お人好しがアルフレッドのアイデンティティみたいなものだしね」


 真面目に信用してしまう人間はバカを見るかもしれない。信じてしまう探偵はとても未熟で半端者のかもしれない。でも、疑り深い人間より遥かに清らかな生き方だ。


「そうか。そうだよな。『浮気してないのを証明してくれ』って言われちゃ信じるしかないよね」

「素直じゃないなぁ、アル。依頼だから仕方ないって?」

「そ、依頼だからね」


 そう言った僕の表情はどうなっているだろうか。晴れやかな笑顔であったら嬉しい。


「ボクたちは二人でこの事務所の探偵をやっているんだ。今さらなにを強がっているのさ、相棒? 素直に頼ってくれたっていいんだよ」


 イリーアの言葉を聞いてハッとした。

 やっぱり僕はアリサとの戦いに目が眩んで自分を……いや自分たちの在り方を見失っていたみたいだ。

 僕は一人で強がって一人前を名乗れる名探偵なんかじゃない。自分とは別の角度からアプローチ・推理してくれ相棒のイリーヤがいて、口やかましいけど、若さゆえの感性に率直な所長のクララがいる。

 何も一人でこの事務所の命運を背負う必要なんてなかったんだ。


「じゃあ早速お願いするよ。娘のセレーネさんの情報はどう?」

「検索済みさ。おそらくマンイーターの実働部隊の犯行だろうね」

「マンイーターって?」


 クララが首を傾げながら尋ねる。


「マンイーターは一五年ほど前に活動していた猟奇的殺人集団のことだ。クララが生まれて間もない頃の事件だから知らないのも無理ないか。マンイーターは字のごとく人を食べるカルト集団だ。人肉を食すカニバリズムをよしとしていて、当時は一種の新興宗教のようですらあったよ。まあ年々活動が減ってきてるから今は見る影もないけどね。その人攫い部隊の犯行ってわけ」

「そ、そうなんだ……世の中には変な人もいるのね……」


 話を聞いただけで顔を青ざめさせてしまったクララのためにこれ以上は話さないでおこう。

 補足するとすれば特に彼らは幼い子供たちを標的として誘拐することが多かった。幼い子供なら攫うのも楽で、肥やすのも容易で脂の乗った美味い人肉を精製できるという利点もある。個人的に調べていた時に見つけた資料にはそう書かれていた。僕にとっては因縁浅からぬ相手なのだ。


「警察の見解は波に攫われたってことになってるけど、当時は現場近くで人攫いが頻発してたって噂からそういう説があったみたい。ははぁ〜ご丁寧に色々書いてあるよ」


 ネットの海をサーフィンしながらイリーアは楽しげに語る。その様子は不謹慎に見えるかもしれないが彼女に悪意はない。ただ知ることが楽しいのだ。


「マンイーター……だとするとやはり生きている見込みはないか……」


 失われた家族の絆。今回の事件の発端はそこだ。マリーの家族の情報を掘り下げていけばわかるものもあるかと思ったが、娘セレーネの情報をこれ以上得るのは厳しいだろう。現状は娘の死を契機にダリルに変化が起きたという因果関係しかわからない。


「今はそれくらいしかわからないけど、ボクももう少しあの家族のことを調べてみるよ」

「ありがとう、イリーア」


 となるとやはり現状を打破するには足で情報を稼ぐ必要がありそうだ。僕は再びロスカスタニエへと繰り出した。



***



 こうして張り込み続けて二週間が過ぎようとしている。ここ二週間のダリルの行動はなんとも規則的なものだった。

 朝、始業よりも一時間早く出社し、夜は定時に上がり、電車を使って家へと直行する。浮気らしい行動は一切見当たらない。マリーの見間違いだったのではと思えてくるが、依頼人が言っている以上信じるのが僕たちのやり方だ。


 ——そしてその時が巡り来る——


 その日のダリルはいつも通り定時に上がったが、駅とは真逆の方向へと進んで行った。明らかにこれまでの行動とは違う。アリサと一緒に会社前のカフェを出て、彼の跡を追った。

 ダリルが行き着いた先は繁華街の路地裏にあるバーだった。人通りが少ないため、人目にはつかない。マリーの目撃情報とも合致する。「なるほど、浮気現場としてはうってつけというわけだ」と一人得心してしまう。

 「ダリルが浮気してないことを証明する」と言った直後に浮気の証拠を掴んでしまい、僕はいたたまれない気持ちになる。だが、まだ確証ではない。ほぼ致命的ではあるが、断定は禁物だと自分に言い聞かせる。

 地下にあるバーへと至る階段の入り口に若い女性が立っている。純白の髪は見る者の目を惹くほど鮮やかで、着ている白いコートと相まって雪の精のようだ。彼女はダリルが来ると小さく手を振り、彼の腕に抱き寄った。件の浮気相手と思しき人物で間違いないだろう。


「あれじゃまるで娘と父親並みの歳の差だ。若い子が好きなのはわからなくもないけど……」


 白髪の彼女の年齢は二◯代に入ったばかりに見えた。今時熟年男が若い子との逢瀬に耽るのは珍しくないが、率直な僕の感想はそれだった。


「今すぐ青少年少女保護法を強化して取り締まった方がいいわね」

「ちょっとちょっと。恋愛は当事者たちの自由だよ? 歳の差も見た目も本人たちが好き同士なら関係ないの。ま、あれは浮気かもしれないから問題大アリだけど」


 隣にいるアリサをなだめるように自分の恋愛観を語る。なんで自分を脅かしている相手にこんなことを語っているんだろうとも思ったが、語らずにはいられなかった。なぜなら……


「そんなこと言ってたらキリがないわ。男はみんな獣。取り締まりが厳しくても文句は言えないはずよ」

「君、本当に男の人を好きになったことないんだね……」


 彼女の恋への意固地さに呆れてしまったから。肩を竦めて首を振ってしまうほどに。


「な、何よ?! 間違っていないでしょう?!」


 アリサが赤面しながら反駁するが説得力の欠片もない。さながら男を知らない初心な乙女。スーツという鎧で身を固めた大人びた雰囲気からは想像だにしない中身だ。


「それは君が本当に好きな人を見つけて証明してみなよ。体験して経験則の引き出しを増やす。探偵らしいだろう?」


 そう言って彼女にはにかんで見せる。相変わらず頰は紅潮しているが、なにか胸につっかえるものがあったのか考えを巡らせている顔をしている。しかし、彼女が答えを出すのを悠長に待っている暇はない。


「と、それよりどうする? このまま二人でバーに突撃する?」

「え、え?! え?!」


 咄嗟のことで反応ができないでいるアリサ。それとなんだろうこの妙に語弊がある言い方をした感じは。さっきからはにかんだままだったから余計誤解を招いてそうだ。


「ああー尾行するかどうかって話ね? 勘違いしないでよ」

「もちろんよ。ここで決定的証拠を押さえないわけないじゃない」


 冷静さを取り戻したアリサが先を行く。「ついて来なさい」と言わんばかりの大股歩きで威圧感が滲み出ている。

 階段口の上に付けられた店の看板を見上げる。『バー・マルダムール』というのがここの店の名前らしい。『マルダムール』とは……なんと今の状況を皮肉った響きだろう。きっとこの先もそういうもので溢れているのだろう。


「それなら結構。では参ろうぞ」



***



 中に入って見ると男女のカップルが多い印象を受けた。女性客は軒並み若いが、連れの男性の年齢層は幅広い。ダリルのような中年から二◯代の若者、屈強そうなおじさんまでいる。黄色く煌びやかに光る照明が彼彼女らの賑わいをより派手やかに演出している。

 僕とアリサは手前のカウンター席を陣取った。ここなら奥のテーブル席に座っているダリルと女の様子がよく見える。ただ、カウンター席もカップル客を想定しているからか二つ分の席の間隔が狭いのは難点だった。アリサのような美人が至近距離にいると否応なく気を揉んでしまう。


「ご注文は?」


 席に着くなりバーテンダーがオーダーを尋ねてきた。あまり強いお酒を飲みたくない僕はシャンディガフを頼んだ。それを聞いたアリサが「同じものを」とバーテンダーに注文する。


「お酒は苦手だったかしら?」

「そうじゃなくて……仕事中だからだよ」


 口元を平手で隠してアリサにだけ聞こえるように囁いた。平常のトーンで言うのははばかるべきだと思ったからだ。


「それもそうね。でも、あなたの見た目じゃ普段から強いお酒を飲んでいるように見えないけど?」


 クスリとイタズラな笑みを浮かべるアリサが今は毒に思える。こんな重大な局面でからかってくるのは反則だろう。

 対するアリサは僕をいつものようにおちょくりつつも傍目でダリルたちを監視している。なにげない会話をしてカップル客を装い、尾行を悟られないように監視しているのだろう。流石だと思う反面、少し動揺している僕の至らなさを痛感する。

 アリサにつられて二人の様子を伺い見る。二人は仲睦まじく談笑している。この様子を側から見れば浮気と思うのも無理はない。時々紙に何かを書いて二人の間を行き来させている。筆談だろうか? 「そういえば子供の頃授業中に紙を回して隠れて友達と話してたっけな」なんて思い出した。

 また時折、胸元が光って見えた。ネックレスだろう。考えたくはないがダリルからプレゼントとして送ったなんてことはないだろうか?

 アリサに返答せずに間を持て余しているとタイミングよくシャンディガフが二つ運ばれてくる。泡がスパークしている黄金色のカクテルは雰囲気とベストマッチしていて、一杯口にしたいと唆られるものがある。


「それじゃ乾杯」


 アリサがグラスを差し出してきたので、それに応じる。ジンジャエールで希釈されたビールが、仄かな苦味として喉奥を伝う。こんなこと考えるとまた自分の未熟さに嫌気が差すかもしれないが……赤髪の美女とオシャレなバーで二人きりなんて状況が仕事じゃなければ、ライバルじゃなければと考えてしまう自分がいる。アリサの言う通りやっぱり男は獣なのかもしれない。

 ふと耳をくすぐるように空気が通る。なにごとかと思い、引き退くとアリサが僕の耳に顔を近づけていた。まさかシャンディガフで酔ったわけじゃないよね?


「ど、どうしたのさ」

「いいから」


 アリサは人の話を一向に聞こうとしない。強引に近寄ってくる一方だ。仕方なくアリサのされるがままになる僕。


「ねえ、気づいたアルフレッド? ここって違法ドラッグの密売で有名なバーよ」


 耳打ちされた内容が思いがけないもので僕の背筋が凍る。本当に思いもよらなかった。僕はもっと不埒なことを考えていたのだから。


「それって……」


 つまりダリルの目的は浮気なんかじゃなかったという可能性が出てきたわけだ。違法ドラッグに手を染めていることを隠すためにコソコソと動いていたという仮説が立ってしまう。

 薬物に手を染めた理由もダリルの背景を考えれば頷ける。娘を失った悲しみから逃避するには薬物しかなかったのだろうと。浮気してないことを証明するとは言ったが、真実が薬物に手を染めていたということでは状況は好転どころか悪転だ。

 見渡してみればそれも納得できる。若い派手目の女性が多いのは男どもに薬物を売りつける販売員だから。屈強な男はきっと暴力団関係の人間なのだろう。とんでもない悪事の温床に足を踏みれてしまったわけだ。

 そう言うように彼女に目配せする。アリサは悟られぬように深々と頷くだけだった。アイコンタクトだけでもなにが言いたいかよくわかる。「証拠は揃ったわ。長居は無用よ」。目が語っていた。

 ジャケットの胸ポケットからカメラを取り出す。せめて最後にダリルに突きつける物的証拠を得たかった。体を陰にしながらシャッターを切る。それと同時に肩に鈍い衝撃が走った。


 ——振り向くとそこには黒服の男たちが僕を見下ろしていた——


「来て!」


 肩を掴む男の手を振り払い、反射的にアリサの腕を掴んで走り出す。どう見てもバレた。僕たちがダリル……もとい純白の髪の彼女の周囲を嗅ぎ回っていることを気づかれた。

 全力で階段を駆け上がる。その度に掴んでいるアリサの腕はグラグラと揺らぎ安定しない。まるで後続を走るアリサがふらついているみたいに。そして、階段を登り切った直後、後ろから強い力で引っ張られた。いや——不本意にも引っ張られざるを得なかったのだ。

 よたつく姿勢を何とか安定させて振り返るとアリサが前のめりに転んでいた。

 足には大量の擦り傷があるのがわかる。掴んでいなかった方の手の平には無残にも小石が刺さっている。不幸中の幸い彼女の綺麗な顔には傷がつかなかったようだ。赤味を帯びて上気しているその顔は酩酊している状態を彷彿とさせる。


「ヒールなんて履くから!!」


 悪態をつけて起こそうとしたのも束の間。再び黒服の男たちに取り囲まれてしまう。黒服は不敵な笑みを浮かべながら拳銃を手に取った。絶対絶命のピンチに相違なかった。


「コソコソあの女を嗅ぎまわってもらっちゃ困るぜ。あいつさえいれば俺たちの仕事は誰にも知られずぼろ儲けなんだ」

「あいつさえ……?」


 白銀の髪の女がまるで特別だと言わんばかりの口ぶりであった。


「そうだ。わかったら大人しく事務所の方まで来てもらおうか」


 アリサを抱き起こし、僕は両手を上げる。ピンチに変わりはないが、今は無抵抗である態度を示すのが懸命だ。

 だがここからどうする?

 生憎、僕は戦闘が不得手の探偵だ。怪我をしているアリサに期待は出来ないし、このまま捕まったら相手の思うツボだ。


「くっ……!」


 歯を噛み締めた。もう何度目かわからない、未熟な自分への苛立ち。

 そんな時、ふと思い出したのは相棒の言葉だった。


 ——「ボクたちは二人でこの事務所の探偵をやっているんだ。今さらなにを強がっているのさ、相棒? 素直に頼ってくれたっていいんだよ」——


 そうだ。僕たちは二人合わさってようやく一人前なんだ。ピンチなら頼ればいいだけの話だ!


「イリーア!! 『フォール』!!!」


 夢中になって僕が叫んだ次の瞬間、虚空に黒服たちの銃が放られた。

 暗がりの中でそのうちの一つを確実に掴むために心の中で『アクティブ・オン!』と呪文を唱え、飛び上がる。

 目標が手に収まるまでコンマ四秒……三、二、一!

 僕の手の中には吸い寄せられたかのように拳銃が握られていた。


「形勢逆転。はい、動かないで。そのままじっとね。走れるかい?」


 男たちを銃で威嚇しながらアリサに声をかける。無言で頷いたのを確認した僕は彼女の手を取り、一目散に駆け出す。ここからは追いかけっこだ。これなら足自慢の僕にも分がある筈だ。

 走っている途中、彼女のヒールが脱ぎ捨てられていくのがわかった。

 その光景を見た僕はそこはかとなく、彼女の本心を垣間見た気がした。



***



 走ること二○分。

 僕らは人気のない別の路地裏へ逃げおおせた。躍起になって走ったせいで疲れ、建物の壁を背もたれに尻餅をついていた。


「ふぃ〜ああ〜っもう流石に走れない。足だけは自信あったんだけどなぁ」


 安堵からか僕の口から放言が零れた。安心ついでにアリサの様子を見遣ろうとすると、なぜか僕の胸の中にアリサがうずくまるように飛びついてきた。普段は身長差のせいで真逆の立場だから気分がいい……なんて思いそうになるが。


「無理もないか」


 現代における探偵の仕事は刑事事件の捜査なんかじゃない。それこそ身辺調査とか浮気調査が関の山だ。そんな浮気調査のはずがあろうことか薬物密売が絡み、さらに暴力団関係者に襲われかけた。こんなことが起こるのは映画かドラマくらいだと思っていたに違いない。一般的な調査、ましてや所長としてビジネスを切り盛りする側の彼女には正直、身に堪えるものがあっただろう。

 そんな彼女を安心させるように背中を二度優しく叩いた。「もう大丈夫」って喋りかけるように。そのまま幾ばくかの間を静寂が流れる。聞こえるのは表通りの喧騒と車のクラクション。


「ねぇ、なんで私を助けたの?」


 うずくまったまま、くぐもった声でアリサが僕に尋ねる。


「ん? いや助けたのは僕じゃなくてイリーアだよ? あれ、イリーアの能力なんだ」


 ダメ元で叫んでみたが、まさか本当に起きるとは思わなかった。恐らくどこかの監視カメラをハッキングして様子を逐一見ていたのだろう。流石は我が相棒としか言いようがない。様子さえわかれば後は銃を対象に能力を使えばいいだけだ。そして、そのうちの一つを僕が『拾い上げる』。


「違う! 能力のことは知ってるわ! 私が言っているのはそうじゃない! あの時……ヒールで躓いて倒れたのに……あなたはどうして私を見捨てなかったの?! 私、あなたの敵よ?!」


 アリサが顔を上げて、声を荒げて僕に詰問した。言われた僕はポカンとしたままだ。「なんで」と言われても助けた理由が思い当たらなかった。咄嗟のことで具達的かつ彼女が納得するような理由はない。

 でも自分なりに、なんとなく答えらしいものは持ち合わせていた。


「昔……一五年前……事故に巻き込まれたんだ。それで両親は死んで、妹は行方知れずになった。小学生だった僕はなにもできなくて、自分の手から大切なものを取りこぼすことしかできなかった。僕に力があればって何度も思った。だからその日誓った。もう自分の周りから誰も取りこぼしたくない。僕が『拾い上げられるもの』なら全部『拾い上げてやる』って。そしたら本当に『拾い上げる』力を得て……だから、誰かの悲しみを『拾い上げる』のが精一杯の僕の務めだと思った。さっきも君のことを『拾い上げなきゃ』って思っちゃったんじゃないかな?」


 どうしてだか今日の僕はえらく饒舌だった。バーで飲んだシャンディガフのせいで口が緩くなったのか。いつもだったら「依頼だから」とかテキトーに誤魔化すのだけれど、知りたくもないであろう僕の身の上話を聞かせてしまった。


「それがあなたが探偵をしている理由?」

「まあ、そう。理由の一つかな? だからお人好しって小馬鹿にされるんだけどね、まったくさ。ああ、でも君には情報提供の貸しがあったから助けたのかも。これで借りは返した。僕、こういうことには律儀なんだ」


 そう言うとアリサは得心したように笑う。落ち着いたアリサは僕から離れ、隣に座り直した。そして、彼女はビルとビルの合間に浮かぶ月を見上げて静かに語り出す。


「正直、悔しかった。小馬鹿にしてた」

「なにが?」

「あなたのこと」

「ああ、やっぱり」


 そうだろうとは思っていた。いやそもそも小馬鹿にされるのも見くびられるのも日常茶飯事である。今更そんなこと言われても僕は傷つかないぞ。うん、きっと傷つかない。はず。


「私ね、こういうふうに現地に出て調査に出たの久しぶりだったのよ? なんでかわかる?」


 顎に手を当て考えてみるが……検討がつかない。その様子を見かねたアリサが「推理力不足。探偵としてはまだまだね」とクスリと笑う。


「滅相もございません。未熟は承知の上でございます」


 彼女に精一杯の悪態をつけて返すことしか僕にはできなかった。それでも自然と悪い気はしなかった。


「バカにされたと思ったからよ。あなたに」


 その言葉で思い出す。僕が気に食わなかった彼女の一部。


「ああ。ヒールのことね」

「そう。私、いつも女だからってバカにされてきた。『女に探偵が務まるわけないだろ』って。『探偵ごっこはいいから俺と寝てくれ』とかも言われたわね。……正直悔しかった。悔しかったからそう言ってきた同業者はみんな潰してきた。潰して、吸収して……そしたらいつの間にか大きな事務所の所長になっていて。気付いた時には交渉業とか経営の方に手が回って、探偵として身動きが取れなくなってた。本当はあんなに大きくするつもりなかったのよ」

「ああ、それで『緋色の雪女』——」

「なんか言った?」

「いえ、なんでもございません!!」


 彼女の鋭い目つきで睨まれるとやはり背筋が凍る。蛇に睨まれたカエル。雪女もとい蛇女……なんて言ったら命がいくつあっても足りないな。


「でも、やっぱりヒールはダメね。『できる限り女らしい格好で探偵として認められよう』って思ってたけど、こればかりはどうしようもなかったみたい。今回みたいなことがあるなんて夢にも思わなかったわ。あなたの方が正論だった」


 あの時、彼女は「矜持」と言った。今となって彼女なりのプライドを知った。あのヒールはアリサなりに頑張った結果、辿り着いた答えだったのだ。


「ヒールなんかなくたってその綺麗で長い赤髪は女性らしく十分魅力的と思うけどね」

「なにそれ? 口説き文句のつもり?」

「あ、いや、これはその言葉のあやというやつでして」


 いけない。まだアルコールが残っているのか。調子のいい言葉が出てしまった。ただ、アリサもアリサで満更ではない様子だった。


「本当は自由に闊歩して調査できるあなたが羨ましかっただけなのかも。こんな形で初心を思い出すなんて……勝負は私の負けね」


 唐突の敗北宣言に唖然となる。「初心を思い出させる」と言ったが、推理を披露せずに負けを認めてしまってよいのだろうか? というか大事なことを忘れている気がする。そう右手には確かな重みがある。金属質の重みが。

 そこでハッとした。

 あの時無我夢中になっていたせいである制約を破っていたことを。暗闇の中に放り出された銃を確実に掴むために『アクティブ・オン』と——能力を使うことを宣言していたのだ。心の中でとはいえ、使用は使用だ。


「いやそれなら僕の方が先に負けている。僕は『能力を使わない』という制約を破った。落とした物なら位置がわかるから、僕は銃を確実に手にするために能力を使った」

「それは調査とは関係ないじゃない。不慮の事故。ああするしかお互い助からなかったし」


 アリサが言うことは最もだ。でも、こう……プライドが許さないというか……ええい! まどろっこしい!! 僕は堂々巡りになりそうな返答ではなく、自分のありのままの思いをぶつけることにした。


「ねえ、もう勝負なんてやめにしない?」

「え?」


 この言葉には流石のアリサも呆気に取られたようだ。言った自分も正直不思議な気持ちだ。


「最初はお互い気に食わない部分があったからぶつかった。でも、今はどう? 僕は打って変わってアリサのことを好意的に感じている。それに『料金そのままで二人の探偵が同時進行で捜査するサービス中』って触れ込みなんでしょ? なら、協力プレイで行こうよ。僕は君の洞察力と情報を得る。君は僕の能力を利用できる。最初に情報を渡してきたアリサならわかってるはずだ。こっちの方が今回はWINーWINだって」

「一本取られたわね。でも、本当にいいの?」

「いいも悪いもない。君は僕をモノにすることで力を得ようとしたけど、それは間違いだよ。力ってのは合わせるものなんだから。頼るって選択だっていいじゃない?」


 そう言って事務所のメンバーを思い出す。あまり喋ってはくれないけど、ピンチの時救ってくれた息の合う相棒。生意気だけど、自分が一歩詰まってしまった時に代弁し、後押ししてくれた所長。

 自分に足りないものを持つ仲間と力を合わせて進んでいく。未熟だと焦って、独りよがりになる必要なんてどこにもなかったんだ。


「じゃあ早速だけど……手を借りても……いいかしら?」

「え、あ、うん」


 おずおずと口にするアリサの様子はいじらしく、そこはかとなく嫌な予感がした。普段は堂々としている彼女が恥ずかしげに頼むこととは……


「その……そのね。あ、歩けないのよ。怪我もそうだし、靴もないし……だから」

「だから……?」

「私のことおんぶして行って欲しいのよ……」

「はい?!」

 いや、待って欲しい。

 そもそも体格的に逆——これは口が裂けても言えない!——

 いや、おぶらなくてもタクシーとか——それは繁華街から離れた路地裏じゃ厳しい!——アリサ一人置いて呼びに行くわけにもいかない。


「わ、私だってこんなことお願いするのは恥ずかしいわよ……でもこれじゃまともに歩けないし、電車にも乗れない。待てば靴が運ばれてくるわけでもないんだから! それに力は合わせるもの、頼ったっていいって言ったのはアルフレッドじゃない!!」


 トドメを刺された。完全に退路を塞がれたと言うべきか。ええ、おっしゃる通りです。

 言った手前ここで断っては男が……漢が廃る。おんぶ一つくらいハードボイルドにこなしてやる!


「ええい、ままよー!」


 意を決した僕はアリサをおぶって家路へと向かって行った……それはとても遠い遠い道のりで、長い長い夜だった。

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