第2話失せ物の名は信用〜緋色の雪女との対峙〜《前編》
失せ物探偵はヤクザな仕事である。
誰彼からも必要とされるような職業でもなく、依頼者も少ない。世間的に見れば実に役立たずで無駄の多い職だ。その日暮らしのこの職業には『閑散』という言葉がふさわしい。
けたたましく事務所のドアが開く音がする。デスクでコーヒーを嗜みながら思い耽っていた僕を嘲笑うかのように。平穏な探偵生活が少しずつ脅かされているのを実感した。
クララもといクラリス・ラス・ラウディウスが我が事務所を牛耳るようになってからというもの静かでのどかな日々は送れていない。
依頼人が増えたからということもあるが、なによりクララがうるさい。特にドアを開ける音が。いい加減お嬢様らしく慎ましいところを見せて欲しい限りだ。愚痴の一つでもこぼしてやろうと扉を見遣る。
「お嬢様、扉は慎ましやかに——」
そこまで言いかけて言葉が途切れた。なぜなら
——そこにいたのはクララではなかった——
スーツ姿の女性が男たちを侍らせていた。
中央に立つ女性の風貌を端的に表すのなら「キャリアウーマン」だろう。
腰にかかるほど長い赤髪にライトグレーを基調としたスーツ。長身の体躯に加え、その存在をありありと主張するかのようにたわわに実った二つの果実。そのモデル体型をさらにスラリとみせる底の高いヒール。タイトスカートから覗かせ柔肌は髪色を引き立てるような白さで艶かしい。
「依頼人じゃない」。僕は直感した。この女性からは困惑や悩みという雰囲気を感じない。鋭い目つきで明らかな敵意を僕に突き刺す。
「ようこそラウディウス探偵事務所へ。ご依頼ですか?」
黄色い声で一団の対応に回ったのはクララであった。そうだ、彼女は午後からずっとこの事務所に居座っていたんだった。というよりうちの事務所はいつから改名したんだ?
「生憎、私は依頼人じゃないの」
呆然と口を開けて立ち尽くすクララ。僕は「だろうね」とか細く呟いた。こんな美人が僕に会いに来てくれるなんて嬉しいことはない。と思いたかった。男たちを連れていなければなおさらよかったのだが、相手が相手だ。
一通り事務所を見回すとスーツの彼女は僕に気づき、デスクへと近寄ってくる。僕よりも大きい彼女が見下すように顔を覗き見る。気圧されそうな威圧感だ。
「アルフレッド・ダント・ムントね」
「ご名答。一発でわかるとは流石というところかな?」
軽口を叩いていると彼女の目尻がさらに釣り上がる。不機嫌そうな顔に拍車がかかった。
「おちょくりはいいわ。なんの用かはわかっているんでしょう?」
「そりゃあ、もちろん。探偵、アリサ・イルハ・スカーレットさん」
***
応接間にお茶を運びに行ったクララは体を震わせていた。いつも尊大なクララにしては珍しい反応だが、今は面白おかしくなじる余裕もない。
「アル、誰なのあの人」
事務所の奥の台所へと帰って来たクララが耳打ちをする。
「うーん、簡単に言えば同業者ってところかな」
応接間のソファに座っている女性——アリサ・イルハ・スカーレットは私立探偵である。別名、『緋色の雪女』。
ここ、ローゼスブルクと隣町ロスカスタニエの境界に事務所を構えている。オフィスビルの一画にあるあたり、事務所の規模はうちとは比べ物にならないくらい大きい。いわゆる商売敵というや つだ。応接間の付近で直立不動でいるスーツの連中は差し詰め部下といったところだろうか。
席を立ち、応接間へと向かう。後を追うようにクララも付いてくる。
対面のデスクにいたイリーアはアリサが来てから終始無言だった。「対応はアルフレッドに一任する」。そう目で訴えかけられた気がする。
「さて、どうなることやら」
なにせ、我が事務所最大のピンチである。
「『緋色の雪女』に睨まれた探偵は探偵として生きていけない」。
誰が言い始めたのか知らないが、彼女は同業者を許さないということらしい。お世辞にも儲けが多いとは言えないこの商売。敵を減らしておくのは最もな生存方法だろう。そして、その矛先がついに僕へと向いたのである。
「要件は僕たちの事務所の廃業ですか? それとも吸収合併とかかな? 個人的には業務提携くらいがいいのだけどね」
ソファに腰をかけながら、再び軽口を叩く。クララは押し黙って、僕の隣に座った。
正直言うと、軽口を叩いてないとやっていけない空気だ。重苦しくて、今すぐこの場を離れたい。
「私、思うの。職っていうのはプロフェッショナルでなくてはいけないって。お客様だって未熟なアマよりプロに頼む方がよいでしょう? そのために一人の完璧なプロが未熟者を監督、教育して、顧客に最高水準のサービスを与える。報酬はきっちりと配分すればWINーWINじゃない? だから、本当に必要なのは一人のプロでいいの」
啜っていたお茶をテーブルに置き、彼女が悠々と語る。『緋色の雪女』の伝承の真相はいささか違ったようだ。どうやら潰す気で来たわけではないらしい。
探偵という仕事は素人に任せられるものではない。圧倒的な経験値が裏打ちする技術とノウハウ。人脈なんかもそうだ。それを一人のプロ探偵が監督し、教育、共有すれば未熟で不甲斐ないその日暮らししかできない探偵は減るだろう。主に僕みたいな。……僕みたいな。
「率直に言います。私のモノになりなさい、アルフレッド・ダント・ムント」
応接間に沈黙が流れる。
突拍子もない話である。結局は未熟な僕が許せないと言っているようなものじゃないか。女王様気質も甚だしい。
「ちょっと待って! あなたはなんの権限があってそんなことを! それに私たちは失せ物探偵で——」
「私はアルフレッドと話をしているの。あなたの話は聞いていない」
いきり立って反駁するクララを一蹴するアリサ。睨みつけられたクララは凍ったように身を固める。なるほど。『緋色の雪女』の異名は伊達じゃないようだ。
「失せ物探偵——なんでそんな地味な仕事をしているのかと思っていたけれど……あなたそういう能力があるらしいわね」
「僕の素性もバレバレなのね」
はあと嘆息が漏れる。隠してきたつもりはないから驚きはしない。多分、彼女の目的は——
「あなたの能力、ここで燻らせるのはもったいないわ。私のところに来て。私があなたに手取り足取り教えてげるから」
アリサがソファから身を乗り出し、僕の頬撫でながら囁いた。蕩かせるような甘美な匂いが鼻腔をくすぐり、誘惑の呪詛が脳内を駆け回る。瞳孔は否が応でも見開き、溢れ出す固唾を下す余裕もない。
地味で冴えない僕の能力を初めて「もったいない」と言ってくれる人が現れた。喜んでないと言えば嘘になる。誰からも認められなかった能力を欲してくれる人がいる。こんなに嬉しいことはない。
でも、それでも僕は——
「一つお尋ねします。どうしてヒールなのですか?」
顔を遠ざけたアリサが間の抜けた表情を見せる。話していることとは関係ない話題。僕はこれを聞かないと首を縦にも横にも振れなかった。
「私なりの矜恃ってところかしら? それに仕事柄オフィスだったり、交渉業務が多かったりするから」
「それって自分では歩かないってことだよね?」
「そうなるわね。それより返事を——」
「お断りします。僕はあなたの在り方が気に入らない」
僕は微動だにしなかった。拒絶されたアリサは端正な顔を苦々しく歪ませる。
「どういうつもり?」
「あなたは自分をプロだと言った。でも、僕にはそうは見えなかった。特にその格好だ。僕が思う探偵はね、古今東西足が棒になるまで歩き続ける生き物なんだよ。安楽椅子探偵ってわけでもなさそうだしね。質のよい探偵を作るためにビジネスの道に走り、初心を忘れたあなたを僕はプロとは思えない。それに僕だって自覚があるんだ。プロの失せ物探偵の自覚がね」
止めどなく溢れる言葉に制止はきかない。こうなってしまった以上、全面戦争は不可避だろう。まあ、上辺だけ従うよりも遥かにマシだ。
「いいわ。それなら勝負と洒落込もうじゃない」
「勝負?」
探偵が勝負なんて前代未聞だろう。フィクションでしかありえない。それに僕は探偵と言っても落し物、失せ物専門だ。けれど——
「ええ。ある依頼を先に解決した方が勝ち。勝者は敗者に言うことを聞かせられる。簡単でしょう?」
「なるほど。受けて立とう。是非、あなたに探偵の初心を思い出して欲しいしね」
ここまで大きく出たんだ。今さら怖気づけない。落し物探偵と言えど探偵。探偵を名乗る以上詐称でないことを証明してみせよう。以前、詐欺だと言ったクララの鼻をへし折るチャンスでもある。
「内容は落し物探しがいいかしら?」
挑発するような下目遣いで僕を見るアリサ。背筋に寒気が走りそうになるが、グッとこらえる。
「いや、探偵らしく素行調査でいいよ」
「随分と粋な申し出をするのね」
「フェアじゃないからね、能力を使える土俵じゃ。まあ、あなたは能力を使った僕相手に余裕で勝ってみせるつもりだったんだろうけど」
アリサの睨む視線と僕の見遣る視線が交錯する。火花散り散りの一発触発の空気が漂う事務所内。
「それならそれでいいわ。依頼内容は後日またお伝えするから」
そう言ってアリサと取り巻きは去って言った。まるで局地的な吹雪のような出来事だった。
***
「勝負、受けたんだ」
アリサが去った直後、イリーアが応接間にやって来た。イリーアの表情は普段から無表情に近い。それは今も変わらないのだが、僕にはそこはかとなく不安げに見えた。
「ダメだったかな……? でも、黙って引き抜かれるわけにもいかなかったし……」
そう言いながら僕は人差し指で頰を掻いた。イリーアにまじまじと見られるとなんか悪いことをしてしまった気分になる。
「でも、アルは落し物探偵でしょ? わざわざあの女と同じ土俵に立たなくても……」
隣に座っていたクララが僕の方に向き直りながら言った。イリーアとは対照的に顔色からストレートに不安が伝わってくる。
「有利な土俵で戦って退けるのが無難なんだろうけど、それじゃ彼女のためにならない。なにより僕は落し物探偵であり、失せ物探偵だ。探偵へ依頼をする人というのは得てしてなにかを無くした人だよ。僕の仕事の範囲内だ」
今思えば、「落し物探偵」なんていうのは方便なんだろうな。探偵と面と向かって名乗る勇気もなければ、落し物だけを専門にする勇気もない。中途半端な名乗りだ。
でも、中途半端な能力持ちの僕にはこの上なく身の丈にあった肩書きだ。
「所長の私としてはこの事務所が今まで通り続いていくのならなんでもいいんだけどね!」
「待て待て。僕からしたら君が所長としていること自体が今まで通りじゃないのですが?!」
とは言え、クララの言うことも事実だ。平穏な日々を守ることに異論はない。
「あ、でも今回の勝負僕は一切能力を使わないからね」
「なんで?!」
なんの前触れもなくクララが声を荒げた。
「なんでもなにも相手は普通の探偵だ。能力を使うのはフェアじゃない。それはアリサがいた時にも言ったはずだよ」
クララは納得していない様子だった。それはイリーアも同じようだ。二人の視線が真っ直ぐこちらを見据える。
「ともかく! この件は僕に任せて。なぁに、心配はいらないよ。僕だって探偵の端くれなんだから」
視線に耐えきれず、僕は応接間から逃げ出した。デスクに向かいながらそんな強がりを口にして、冷めたコーヒーを啜る。
さて、高名な探偵アリサ・イルハ・スカーレットにどこまで「僕の力」が通じるか。
***
後日、アリサは中年の女性を連れて事務所へとやってきた。
どうやって承諾させたのか気になったが、疑問に出さずともすぐに彼女が耳打ちした。「料金そのままで二人の探偵が同時進行で捜査するサービス中」という触れ込みで承諾させたということだった。
その中年女性はマリーと名乗った。ソファに腰掛けているマリーの血色は芳しくなく、明るめな白髪と相まって薄幸に見える。
「旦那が浮気をしているかもしれない。相手の女との関係を明らかにして欲しい」
依頼内容は以前の取り決め通り素行調査であった。わかってはいたが、慣れない素行調査の依頼が自分のところに来るのは緊張する。
「旦那さんが浮気をしていると思われたのはいつ頃からですか?」
詳しい内容を書き留めるためにメモ帳を開く。
「初めておかしいと思ったのは五年前です。その頃は夫……ダリルを信じていましたし、浮気している証拠もありませんでしたから、特別なにかすることもありませんでした。浮気はここ最近のことかもしれません」
五年前。随分の間疑念があったことになる。それでも信じていたマリーの忍耐力は凄まじいものだ。
「けど、最近になって決定的な浮気の証拠を掴んでしまった。もしかしたら五年前から裏切られていたのかもしれない……と?」
テーブルに視線を落としたマリーが首を縦に振る。マリーは閉口し、静寂だけが事務所内に流れる。不躾に次の言葉を促すのが躊躇われる。アリサからなにかを言う気配もない。もしかしたら言葉を選んでいるのかもしれない。
「夫が女と腕を組んで歩いているところを目撃しました」
黒だ。瞬時にそう判断してしまう僕がいた。
男が女と腕を組んで歩くシチュエーションなど数に限りがある。加えて、そのどれもが相手と親密な場合だ。女友達なんて可能性は中年男性じゃ皆無だろう。
「いつ、どこで?」
「一週間ほど前です……その日は夫の会社があるロスカスタニエの方に用事があったんです。それでたまたま繁華街の近くを通った時に……ちょうど」
「なるほど」
証拠調査はほぼ必要ないんじゃないかと思えてくる。あとはその女がどこのどなたかなのかを調べあげるだけだ。容姿がわかれば話は早いのだが……
「写真とかは撮りませんでした? 容姿の特徴とか」
「いえ……その時は驚きばかりで。それに遠くからでしたし……男の方が夫だったこと以外ははっきりとは……でも、銀色の長い髪をしていました」
ふむふむと頷きながらメモ帳に特徴を刻む。
なるほど。ほとんど手がかりなし。これは地道に尾行するしかなさそうだ。
「最後に……五年前にどうして浮気をしていると思ったのですか? それがヒントになるかもしれない」
女の勘というものは馬鹿にできない。機微な変化に反応できるスキルとでもいうべきか。そういう意味では女性の方が探偵に向いているのかもしれない。まあ、引きこもりで女々しさゼロのイリーアは論外なのだが。
「タバコの匂いです。ダリルは真面目な人間です。家事も子育ても手伝ってくれました。昔お揃いで買ったペンダントを今でも大事に身につけているくらいです。お酒は嗜みますが、外で飲むことなんてほとんどないし、ましてやタバコは吸いません。なのにある日からダリルの帰りは遅くなり、タバコの匂いがきつくなった……その一時期だけです。本当にただの違和感でしょう?」
マリーの話を聞く限りだと浮気しそうには思えない。真面目な旦那、真面目なパパ。子供へ愛情を注いでいたのなら、浮気など考える余地すらなかっただろう。
だが、ダリルの変化は違和感を抱くのに充分である。あからさまだとすら思えてくる。
「疑う余地は充分にあるか……わかりました。その線で調べてみましょう」
立ち上がり、マリーを玄関へと案内する。マリーは深々とお辞儀をした後、事務所から去った。
「勝負の内容にしてはありきたり過ぎないかい、この依頼?」
僕と一緒にマリーを見送ったアリサに対してぼやく。
ここまでの話を聞く限り、あとは旦那の足取りを調べるだけで済みそうだ。勝負の題材としては容易すぎる内容ではないだろうか。
「素行調査にしたいと言ったのはあなたのはずよ。まあ、簡単な依頼ならスピードで優劣がつくわけだからそれはそれでわかりやすいわ」
「それもそうか」
不意に、アリサと視線が交わった。まるで僕の奥底を見透かす目だ。その瞳は変わらず僕に訴えかけている。「私のところにいらっしゃい」と。
鼻を鳴らし、目線を外す。誰が屈するものか。こんなデカ女に。
「フフ。釣れない人。まあ、いいわ。次は結果報告の時かしら? その時は私から訪ねさせてもらうわ」
アリサの去り際、僕の歯がギシりと音を立てる。なんという皮肉だろう。
アリサから訪ねてくるということは彼女が先に答えを出して、伝えにくるということだ。
「自分が勝つ」という勝利宣言。
どこまでも高飛車で高慢でいけ好かない女だと思った。
***
ロスカスタニエはローゼスブルクとは異なり、ビルや電波塔などの背の高い構築物で成り立っている。見上げる度に首が痛い。自分の低身長を無機物にもバカにされている気分だ。
「その様子だと収穫はなさそうね」
背後のカフェテリアから声が聞こえる。つい先日聞いた、癇に障る声。振り向くとアリサがテラス席でコーヒーを啜っていた。足を組んで悠然と座っていて、余裕が見える。
ロスカスタニエのオフィス街であるここは、付近にカフェやレストランが多い。サラリーマンやOLたちが昼時はごった返して商売繁盛間違いなしの立地だ。
幸い昼時を過ぎた今は、お年を召したおじいちゃん、おばあちゃんと主婦らしき人くらいしか見当たらない。そんな中でスーツ姿で優雅な佇まいをするアリサは異質であった。
「冷やかしならよそでやって欲しいんだけどね……それともなにか?」
「いえ。一緒にお茶でもどうかしらと思って誘ってるの」
蠱惑的な笑みを投げかけてくるアリサ。劣情を触発するような唇のルージュにしばし目を奪われそうになる。
だが、心の底はわからない。その笑顔はあくまで男をおびき寄せる武器であり、彼女の本心はもっと別のところにあるように感じる。
「お生憎様。張り込み中でね」
街路樹に身を隠し、手に持った双眼鏡を構える。彼女に構ってる場合ではない。
「あらそう? でもそんなバレバレの隠れ方していたらあなたの方が不審者として捕まるんじゃない? わざわざ双眼鏡を使って監視する距離でもないし、カフェの客を装ってる方が自然だと思うのだけど」
捲したてるようにアリサが饒舌に喋る。
アリサの言い分には一理ある。自分でもなにか古典的なものにこだわっていた自覚がある。
「勘違いしないでね。君の言い分に妥当性を感じたからだ。お喋りに付き合うつもりはないよ」
アリサの正面の席に座り、手を招いて店員を呼ぶ。メニューを見て決める時間が惜しかった僕はアリサのコーヒーを指差し「同じのを」と頼んだ。
「フフ。聞き分けがあるところは感心するわ。どうもあなたはステレオタイプな探偵像にこだわるきらいがあるようね」
「悪かったね、格好から入るタイプで。そう言う君こそ出で立ちが浮世離れしすぎじゃないか? 現実味がないよ。一人でこんなところにいたら注目の的だろう?」
「そうかしら?」
小首を傾げながらの笑みには余裕がある。人を見下すとは違う、高を括っているような……そんな笑み。
「そうだよ。だからこうして僕が居座って、カップル客を装う方が自然に見えるよ。きっとね」
途端、アリサの口が閉口する。
「どうしたの?」
よく見ると頰が紅潮している。暦は五月に差し掛ろうとしているが、今日は幾分肌寒い。長居して外の空気に冷やされてしまったのだろうか。いや、雪女だからそれはないか。
彼女の唇がわずかに動く。
——「これだから男は信用ならないのよ」——
僕にはそう『見えた』。
そう見えてしまった僕は瞬時、言葉を躊躇ってしまう。言葉の裏に隠された背景を嫌が応でも考えてしまう。いわゆる職業病だ。
タイミングを見計らったかのように店員がやってくる。「ありがとう」と僕の言葉でかろうじて沈黙は避けられた。
「で、そちらの進捗はどうなの? そっちから話しかけてきたわけだからこういう話になるのは予見していたと思うけど」
「正直、思わしくないわね。ここ数日張り込んでいても女の影は見当たらないし、当日の目撃情報を洗っても素性を掴むまでには至らない……マリーさんが嘘を言っていたとは思わないけど、やっぱり現場を押さえないと話が始まらないわね」
アリサが思わしくない……? 次会う時は自分が勝利した時だと婉曲的に口にした彼女が? これは本当に単なる素行調査なのだろうか?
そんな疑問が浮かんだがここは言葉を飲む。迂闊に煽っても意味がない。余裕を持って、探りを入れよう。
「なるほどね。こっちも大方は同じだ。依頼人の身辺とかは探ったのかい?」
「まあ、多少はね。ダリルとマリーは一◯年前から二人暮らしで、それはここ最近まで変わりはなかったそうよ」
「ちょっと待って。ダリルは子育ての手伝いをするって言ってたよね? 子供はいないのか? それとももう自立を?」
「彼らの子供は一◯年前に他界してるわ」
「え……」
アリサの言葉に絶句してしまう。衝撃的な背景だったというのもあるが、なにより自分がそんな大事なことを見落として、ライバルの口から聞いてしまったことにショックを受けた。すでに彼女にリードを許してしまっているという事実が胸を抉る。
「あなた……探偵に誇りがある割りに抜けているのね。それとも今はなにかに心を取り乱されていて本領を発揮できないのかしら?」
「うっ……そう言われると返す言葉が見つからないね……でも、いいのかい? そんなに情報をペラペラ喋って? 一応敵だよね、僕たち」
「そうね。でも情報力であなたに勝っても嬉しくないの。だって人手が多ければ多いほど情報は比例して多く手に入るもの。あなたが劣るのは当たり前よ。私が見たいのはもっと別のもの。あなたがどんな推理をするのか? あなたがどんな人間なのか? よ。できれば超能力の方を見てみたいけど、今回は使わないと決めているんじゃ仕方ないわね」
「ははは、随分と見下してくれるじゃない」
ここまで言われるとぐうの音も出ない。アリサが言う理屈は正論だ。そして、リードを許した未熟者を見下すのも理に適っている。
「本音を言うとね、情報共有していた方が効率がいいからよ。依頼人のメリットにも私たちのコスト削減にもなるわ。まあ、あなたから有益な情報を引き出せなかったわけだけど……施しだと思って受け取りなさいな」
「君、意外と根はいい人なんだね。認識改めないとかな? まあ、高飛車女に変わりはないみたいだけど」
見下しているのは事実だろうが、彼女は彼女なりの考えがあるようだった。単純に僕を小馬鹿にしているというわけではないみたいだ。
「どう? 少しは私のモノになる気になった?」
僕の言葉が気に入ったのかあどけなく笑って見せるアリサ。さっきの笑みとはまた違う魅力があるから、僕も少し揺らぎそうになってしまう。
「それはそれ。これはこれ。こっちにも守りたい生活ってやつがある」
その日の張り込みは結局、アリサと情報共有をして終わってしまった。証拠を掴むところまではいかなかったが有意義な時間だった。
——話してみないと相手の本質なんて読み取れない——
探偵稼業だけでなくコミュニケーション全般に通じることだ。そんな大事なことを失念していたと痛感した。
多分、僕は心の底で焦っていたのだ。
自分の中では「あたりきしゃりきのこんこんちきよ」と言わんばかりの意気込みで調査に励んでいたつもりだった。けれど、それは空回りで、形ばっかりで、ついには依頼人の背景の見落としを指摘される始末。
自身に初めて脅威が降りかかってきて「探偵としての自分の在り方」を見失いかけていたのだ……
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