第1話落し物はなんですか?〜失せ物探偵事務所へようこそ〜《後編》
僕はクララの下校の時間まで周囲の住宅街で情報を集めることにした。この場に留まったのはクララにも聞きたいことがあったからだ。
周囲の目撃情報を聞くと、やはり僕で間違いないようだ。「今日と同じ黒いベスト姿だったから間違いない」と言われてしまったらもうお手上げだ。
僕自身は心当たりが全くない。しかし、疑わしきは疑え。僕が真実に関わっていると見ていいだろう。探偵が被疑者とは皮肉な話である。被疑者の推理など自分優位なものになってしまうかもしれない。
では、うちのもう一人の従業員に働いてもらおうか。
僕はそそくさと指を動かし、メモ帳の情報をスマートフォンでまとめる。そして、メールで事務所にいるイリーアに送った。こういう僕に嫌疑がかかった時は相棒に頼るしかない。
『わかった。僕も推理する』
数秒も経たずして、一列の返答が来る。頼もしい限りだ。
「あれ? アルフレッドさん? まだこの近くで調査していたんですね」
不意に、もう耳慣れた声が舞い込んだ。クララだ。午後の日の光を反射した艶やかな金髪がまばゆい。
「ああ。君を待っていた。君のことを知りたくて」
「え、キモいです」
「え??」
いきなりなんの気なしに言った言葉を罵倒された。一瞬、なぜだと思ったが理由はすぐにわかった。いい歳した男性が女子校の前で学生を待ち伏せていた。しかも、「君を待っていた。君のことを知りたくて」などと言い出したら、それはまさにストーカーである。
「そういう趣味だったんですね! 最低!!」
「ち、違う!! 調査の一環で君を……君のお兄さんを知る必要があると言ったんだ! そもそも君は言葉を額面通りに捉えすぎるきらいがある! もう少し言葉の裏をだな……」
僕が慌てて釈明とともに諭すと、彼女はゆっくりとはにかんだ。その笑顔が今までに見た笑顔よりも幼くて可愛くて、ドキリとしてしまう。
「ふふふ。冗談ですよ、探偵さん。むしろそこまで真剣に考えてくれて嬉しいです」
そう言って彼女は再び足を進め出した。
「まあ、依頼だからね。その分きっちり報酬はいただくし」
追うように僕も足を進める。彼女は僕に振り返らず前を歩いている。時折道の小石を蹴って足を躍らせているあたり、機嫌は良いようだ。
「もちろん。解決したらたんまりとお支払いします。兄の話でしたよね? 聞きたいのは」
「そうだ」
「私の兄は私を庇って死んだんです」
告げられた事実に、言葉を失う。「謝りたいこと」というのが引っかかっていた。なんとなくそんな気がしていたが、いざ本人の口から聞くと重たく感じた。僕が押し黙っていると、彼女が続きを話し出す。
「バカだなぁと今でも思います。スマホによる前方不注意。メディアでよく注意されてることが自分の身に起こるなんて思いもしませんでしたよ。あの日は兄と久しぶりに二人で買い物に出かけたんです。浮かれてSNSに投稿しながら歩いていた時に車が来て……兄さん私を押し出す形で庇ったんです。……あの光景は思い出しただけでもう……言葉が出なくなりますよ。兄の体はめちゃくちゃになっていて……私も兄も……兄が助からないことをすぐに理解しました……私、その時なにも言えなくて……すいません……ちょっと、ちょっと言葉が……」
語る口調と歩調は次第に勢いがなくなっていき、終いには涙声が混じっていた。歩みはついに止まり、レンガ敷きの道路にはポツリとそこだけ小雨が降ったような跡ができていた。
当然だ。彼女は今、人生で一番辛い出来事を思い出しているのだから。
「無理しないで。焦る必要はないから。ゆっくり、自分の思ったことを喋ればいい。言い落とした言葉はちゃんと僕が拾い上げるから」
そっと、クララの肩に手をかけ、乳白色のハンカチを渡す。僕より少し背の高い彼女の肩は寒さに耐えるかのように小刻みに震えていた。
「優しいんですね、探偵さん。ありがとうございます」
「だから、依頼人だからだって」
ハンカチで目元を拭う彼女の姿を尻目にぶっきらぼうに僕が言う。照れ臭いという気持ちと泣き顔を見るのは失礼だと思う気持ちを綯交ぜにした感情が心を巣食っていた。
「照れ隠しなんて可愛いところあるんですね」
「な!?」
心配してやったらすぐこれだ。まさか嘘泣きなんてことないよな? と思ってハンカチを見遣ると涙のシミは広がっていく一方だ。どんなに声色が明るくても、ハンカチで隠れた彼女の表情はまだ泣いている。
「こうして楽しくからかい半分で話していると兄さんと話している時を思い出します……。ああ〜思い出したらなんか、泣いてるのもバカらしくなっちゃうなぁ。やっぱり私は笑顔じゃないと! 兄が最期に言ったんです。『俺の分まで精一杯笑顔で生きて。俺は笑顔のクラリスを見守っているから。お前の笑顔が俺の誇りだから』って。遺された人が居なくなった人の分まで精一杯生きる。だから、前向いていかないと!」
咽びながらハンカチのヴェールをはがした彼女の顔はまさにくしゃくしゃの笑顔だった。字のごとく顔は崩れ、涙と鼻水まじりの表情は汚らしいとも思える。でも、この上ない最上の笑顔だ。クロヴィスが誇りにするのも頷ける。彼女が明るく生きていて、兄は満足な気がする。僕の心が暖かくなっていくのがわかる。
「だから君に陰りがないのか。納得がいったよ」
「そう思っていただけたのなら、笑顔でいた甲斐があります」
涙の雨は止み、道路についた跡も引き始めていた。そして彼女は身を翻し、青空に向けて喋りかける。
「でも……だからこそ、もし兄がなんらかの形で存在しているのなら話したいんです。一言だけ伝えたい、あの時言えなかった言葉を。だた一言『ごめんなさい』って」
彼女はまっすぐと空を見据える。まるで、天国に行った兄が宙に見えているかのように。
「なら、なおさら頑張らないとだな」
「え?」
「なんでもないよ」
ふと漏れた言葉を誤魔化した。聞き返されるといささか恥ずかしい。依頼人の背景を聞いて頑張っちゃうところを見せるなんて後でこの子にからかわれるに違いない。
でも、一言彼女に伝えるとしたら。
「大丈夫。もう答えは決まってるから」
かな?
***
そのままクララを事務所へと連れてきた。恐らく、もうイリーアの推理が一通り纏まっている頃だろう。それに彼女の推理はきっと僕が思っているものと同じはずだ。
「ただいま」
「お邪魔します」
クララと二人で事務所に入るとイリーアが短く「おかえり」と返してきた。相変わらず背中を見せながらの挨拶だが、すぐに表を向き、接客テーブルへと足を運んだ。
入り口側の席にクララを座らせ、対面に僕とイリーヤが座る。クララはなにやら落ち着かない様子だ。
「推理の結果発表の前に最終整理といこうか。僕とイリーアの間でも認識を擦り合わせておくべきだろう」
二人は僕の言葉に無言で首肯した。承認を得た僕が続けて話す。
「まず、クロヴィス・ラス・ラウディウスの生死について。調査結果は……誠に残念ながら死の事実は覆らなかったね。依頼主とその家族が葬儀をしていること、イリーアの能力の影響がなかったこと——いや、これは別の形で発動したわけだが——以上二点からそう推理できる」
再び彼女らが首を縦に振る。ここまで異論はないようだ。
「二つ目。クララのネックレスの拾い主について。目撃情報からして僕で間違いないだろう。当の本人の記憶がないからこれ以上先はなんとも言えないが……今回の調査結果だけを端的に伝えるなら『僕が兄と騙って君のアクセサリーを届けた』ということになる。でも、それじゃ納得できないだろう?」
クララを見遣る。「納得出来ません。その先の真実が知りたいです」と言いながら首をぶんぶんと横に振っていた。
「だろうね。では、事件の真相解明だ。三つ目は『僕たちの能力』についてだ。ここからはイリーア、頼む。一応僕なりの答えはあるんだけど、君の口から聞きたい」
「わかった」
イリーアの表情が突如引き締まる。そして、僕をじっと睨んで尋ねる。
「始める前に一つ聞いておく。アルフレッド。君は『落とした物』なら何でも拾えるんだよね?」
「ああ。そうだ」
それだけ聞くと満足気にクララの方へ向き直した。
「先に断っておくとボクたちはボクたちの能力を深く知らない」
話から置いてけぼりにした釈明をするかのようにイリーアがクララに語る。
「え?」
言葉を零したクララの口が開く。あんなに得意げに能力説明していたのに今さら「よく知らない」と言われればこうもなるだろう。
しかし、生まれながらに自分の能力や適性を完全に把握している人間がどこにいる? 僕たちは誰かから能力をもらったわけでもなければ、誰かから能力の説明を受けたわけではないのだ。ある日、ふと自分に『拾い上げる』超能力があると気づいただけなのだ。
「あくまでボクらが検証した域での能力説明はできるよ。でも、未知の部分も多いし、これからも自分の能力について知っていくことになるんだと思う。それで今回、新たなことが二つわかったんだ。一つはボクの能力は『限定的に実体以外』に影響すること。もう一つはアルフレッドの拾える物は『実体に限らない』ということ」
「それってつまり……」
「そう。クロヴィス・ラス・ラウディウスは『幽体』でこの世に存在している」
「嘘……そんなことって」
衝撃の事実に耐えられず、クララは両手で口を覆った。双眸は大きく見開かれ、どれほど驚いているかは想像に難くない。
「まあ、ボクとしては超能力なんかある時点でこの世はオカルトに満ち溢れていると思っているから驚かないけど、無理ないよね。今回の事件はアルフレッド・ダント・ムントが知らず知らずに体から抜け『落ちた』クロヴィスの魂を拾い上げていたことに起因する」
——クロヴィスの魂が僕の中にいる——
やっぱりそうなるか。薄々気がついていた。自分の記憶が欠落しているのも、クララを見ると時折暖かな気持ちになるのもこのためだろう。
僕の能力は『落し物を拾い上げる力』。落し物に貴賎もなければ、形の有無もきっと問わなかったのだろう。そもそも僕の能力は限定的になにかを拾う能力ではない。自分でも気付かぬ無意識のうちに名も知らない誰かの落し物を拾っている『パッシブ』状態が本当の能力なのだ。
「ボクの『フォール』がアルフレッドに効いた理由は一つだ。クロヴィスがアルフレッドに憑依ないしは同化していたからだね。だから、本来存在しない……『実体』のない人間に『フォール』が効いた。アルフレッドが寝ている間に何度かクロヴィスを対象に試したけど、その度にアルフレッドはベッドから落ちてたからほぼ間違いないね。まぁ、本人は寝相が悪いから気づいてないけど」
「おい! そんなことしてたの?!」
イリーアがドヤ顔で僕を煽る。一体なんの恨みがあってそんなこと……全く、僕が落ちたおかげでミステリの欠片を拾えたとは皮肉である。
「ボクの推理は以上だよ。一つ付け加えるとしたら、呼びかければクロヴィスを表舞台に上げられるんじゃないかな? なにせ、拾い『上げる』能力だし」
「どんな屁理屈能力だよ」とぼやき、うんざりする。僕の能力が屁理屈なのは今に始まったことじゃないのだが。ぼやきついでに思ったことを口しようか。
「イリーア、一つ言っていいかい。君、普段からそれくらい饒舌に喋ってよ」
「無理」
僕のお願いは二文字で一刀両断された。イリーアが自身の推理を語る姿は嬉々としていて、自慢げだった。それが僕には楽しそうに見えて仕方ない。でもイリーアが変わる気配がないなら、無理強いはできない。
話を戻そうとクララを見遣る。じっと僕を見つめていた。多分、僕の中にクロヴィスがいると知った時からずっと。
「お願い……できますか?」
双眸を潤ませ嘆願するクララを見て、僕は折れた。僕の中の僕じゃない部分がたまらなく会いたがっているからだ。僕は席から立ち上がり、クララに背中を向ける。
「乗り掛かった船だ、仕方ない。最後まで面倒見るよ」
その言葉が起動の合図かのように僕の意識は深い海の底へと沈んでいた。底へ行く途中、クララの生き写しかのような男性——クロヴィス——とすれ違った……
「ありがとう」と言われた気がする。感謝されるようなことはしていないのに。だって
「依頼だからね」
***
「久しぶり、クラリス」
俺は久しぶりに会った妹ににこやかな笑顔を見せようとした。けど、長い間肉体がなかったからか、頬が引きつっているような気がする。
「本当にクロヴィス兄さん……なの?」
恐る恐るクラリスが俺に尋ねる。首を縦に深く振りはしたが、クロヴィスである証明はできていない。どうやって証明して見せようかと考えていると青い髪をサイドにまとめた女の子がこちらをじっと見て、コーヒーを手渡してきた。飲めということだろう。俺はコーヒーを一口含んだ。
すると——
「アルフレッド、好きよ」
彼女は俺の肉体に対してとんでもないことを言い放った。無論、俺はアルフレッドではないのでなにも反応できない。なんの真似だ?
「うん、こいつはアルフレッドじゃないよ。アルフレッドなら演技してても霧吹いてる」
どんな確認方法だと思ったが、どうやらこれが証拠となってくれたようだ。クラリスは青髪の——イリーアという彼女——の言葉にうんうんと何度も頷いている。
「どうやら俺がクロヴィスだってわかってくれたみたいだね」
耳慣れない男の声が俺の言葉を代弁する。体は窮屈だし不便だが、無い物ねだりは仕方ない。今は体があるだけありがたいのだから。
「でも、どうして兄さんがアルフレッドの体に……」
「それはね、クラリス——」
そして、俺はクラリスに昔話を読み聞かせるように全てを語った。
俺が彼に宿ったのは死んで間もない頃だった。魂のまま彷徨っていた俺は街をグルグルと回って探し物をしていた彼に偶然拾われた。偶然——最初はそうとしか説明しようがなかった。彼の能力を知った今となっては必然だったのだろうと思う。
未練があったつもりはないが、俺は成仏ができずにいた——というより『幽体でいる』能力を得たようだった。詳しくはわからないが、俺の『妹を見守る』という意思が能力として萌芽したと解釈している。アルフレッドの話では能力は人それぞれで、死に際に能力が開花するまたは気付くタイプもいても不思議ではないはずだ。
拾われてからすぐに彼の体を使って妹に会いたいと思ったが、容易に表層に出ることはできなかった。俺は憑くだけの能力でコントロール権の掌握はできなかったのだ。あくまで俺が表に出るのは彼の意思によるもの。加えて拾った本人が拾うだけ拾って気づいてないのだからおいそれと出ることはできない。
そんな折だった。彼がクラリスのアクセサリーを拾ったのは。
俺はたまらず、「その落し物を届けてくれ」と内側から念じてしまった。すると彼はアクセサリーと同時に俺の想いを拾い上げてしまったのだ。気づいた時、俺は再び現世に立っていた。いても立ってもいられず、妹の学校へと駆け出した。
本当は届けるだけのつもりだった。でも、一言。一言でいいから妹に伝えたい。俺はいつでも見守ってるって事実を。人伝でも伝言でもなんでも良かった。
妹はきっとどこかで自責の念に駆られている。それは気丈に振る舞っていても拭うことのできないシミのような呪詛だ。それを解呪するためには俺がちゃんと見守ってるという事実が必要だと思った。「兄は死に際の言葉を守っている。庇って死んだことを後悔していない」と。亡くなった後だからこそ意味を成す言葉だと思った。
その結果が今回の事件。アルフレッドがクロヴィスと騙ってネックレスを届ける形となってしまった。
アクセサリーを届けると憑依は切れ、俺は再びアルフレッドの中でなりを潜めた。基本的には内からアルフレッドに念じてもなにも伝わらない。落し物を代わりに届けた事実も伝えられない。落し物を拾ったあの時だけ、彼は俺の心を拾い上げたのだ。
これがこの珍妙な事件の真相だ。一人の男がただ妹に一言伝えたかっただけの話。一人の男が妹の心を闇の底から拾い上げようとした話だ。
「でも、俺が過保護で心配し過ぎたかな? 実際、依頼人としてこの事務所に来たお前と会った時、お前は笑っていた。アルフレッドの体の中でお前と過ごしていけばいくほど、お前が過去に縛られていないのがわかった。『遺された人が居なくなった人の分まで精一杯生きる。だから、前向いていかないと!』。お前は俺が思っていたよりずっとタフだったみたいだ」
そう語り終えるとクララは涙で目を腫れ上がらせていた。溢れる涙は止まることを知らず、ポタポタとフローリングに染み付いていく。
「兄さん!!」
クラリスが叫びながら、抱きついてきた。アルフレッドの身長が低いせいもあるが、俺を抱きしめるクラリスは大きく、たくましく立派で成長を感じざるを得なかった。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、兄さん」
妹の涙声が部屋に鳴りはためく。ただ申し訳そうに、ただ物悲しそうに。
「お前が伝えたかったのはその一言だったんだな。言わなくてもお前が申し訳なく思っていたのは知ってたのに」
「それを言うなら兄さんも一緒です! わざわざ霊体になってまでして『見守ってる』なんて言う必要なかったんですよ……? だってずっとわかってましたもの」
「やっぱり兄妹だな、俺たち」
クラリスの顔にはにかんで見せようとする。先ほどよりも頬の引きつりが激しい。刹那、温かな水滴が頬を伝う。留めようとする自分の意思とは裏腹に涙の堰は切られたままだ。僕が泣いていた。
「俺がいなくても生きていけるね、クラリス?」
「ええ、もちろん。遺された人が居なくなった人の分まで精一杯生きる。亡くなった兄さんの願いですもの。心配ございません!それに……」
再び明るく喋る妹だったが、途端言い詰まる。それは次の言葉が今のクラリスにとって大事なことだと察知した。
「それに私には……私の心を拾い上げてくれるお友達がいますもの!」
「そうか」と言葉が漏れた。
——俺はもう必要ないか——
心でも言葉が溢れた。
正直、俺がいないと妹は生きていけないと思っていた。幼い頃は俺がいないとなにもできなくて、なにをするにしても「兄さん、兄さん」とついてきたのに。
あの日だって、二人でシルバーアクセサリーを買いに行ったわけじゃない。一人で街に買い物に出た俺をクラリスが追いかけてきたのだ。本当はもっと身なりにあった高価な物を一つ買いたかったが、ついてきた妹のために安価なネックレスをお揃いで買った。自然と悪い気がしなかったのはやはり兄妹だからかな。
——「必要とされない」とは、こんなにも悲しいものなんだな——
でも、自然と晴れ晴れとした気分だ。自分がいなくとも歩いていける妹の強さが、今を大切に生きていく妹の強さが、新しい仲間を作れる妹の強さが。その全てが愛おしく、儚く、なにより誇らしい。俺は今、とても満たされている。こんなに立派に育った妹を見て、兄として誇らしくないわけがないじゃないか。心残りはもうない。
「いい人に巡り合えたな、クラリス。羨ましいよ。イリーアさん、お願いがある」
呟くように緩く口が開いた。多分、もうこの感覚を得ることはないだろう。
「なに?」
はたから見ていた彼女が短い言葉とは打って変わって丁寧な口調で聞き返す。
「最後に、アルフレッドに伝言をお願いしたい。本当は自分で伝えたいけど、どうも彼とは共存できなくてね」
死者は本来生者に関わるべきでない。今を生きるものがいない人の分まで精一杯生きる。死者の想いを拾い、繋ぐ。この世界はそういう世界だ。
「わかった。なにをアルフレッドに伝えればいい?」
でも、俺のような例外が許されるのなら……
「妹をよろしく頼む」
少しくらい身内の身を案じたってバチは当たらないだろう?
それにきっとこの男は俺の想いも拾い上げてくれる。そう信じている。
妹はなにも言わず、ただ唇を噛み締めていた。「開いたらダメ」と暗示しているかのように。痛いくらい妹の気持ちがよくわかる。本当は二度目のお別れなんてしたくない。でも、死者は今を生きられない。寂しいけれど、これでお別れだ。想いは今を生きる者に託したから。
「じゃあな、クラリス。元気で暮らせよ」
クラリスは力強く何度も何度もかぶりを振った。俺の言葉を嚙み締めるように、抱き締めるように。
クラリスの姿を収めていた視界がぼやけ始める。意識が遠退いていくのがわかった。自分の能力がどうなっているかなんて知らないが、成仏するんだなと直感した。
——さようなら、現世——
遠退いていく意識の中、アルフレッドに遭遇した。彼は力強く頷くだけでなにも喋らない。でも、なんとなく意味は伝わった。
「依頼は引き受けた」
俺の知っている彼はそう言ったはずだ。
……もし、生きて出会うことができたのなら君と一度でいいからお話してみたかったな。さよなら、共存できない俺の友達……
***
心地いい日差しが事務所の窓から差していた。体の気怠さを助長するかのような陽気である。
僕はあくびを一つして、コーヒーを口にした。うーむ、今日もいい天気なのに仕事のない、実にコーヒーを嗜むだけの日になりそうだ。
「アル! アルいる?!」
「ゴフッ」
蹴破る勢いでドアが開き、聞き慣れない呼び名が事務所にこだまする。耳にした刹那、僕の口からコーヒーが溢れ出す。デスクに茶色い水溜が広がっていく。仕事がないのが幸いして資料を汚すことはなかった。
「あのねぇ……なに、その呼び名。っていうか仕事は終わりましたよ? クラリス・ラス・ラウディウス嬢?」
「あら? 依頼が片付いた途端随分と余所余所しくなるんですね。またクララって呼んでくれていいのに」
不服そうな顔つきでこっちを見遣るクラリス。たまらず、僕は目線を外した。そんなにジト目で見ないで欲しい。
「では、クラリス。なんの用だい?」
「クララ!」
「あ、はい。クララ」
「それ、偽名だろ」とぼやきつつも、睨まれたので仕方なくクララと呼んだ。クララという方が呼びやすいと言えば呼びやすい。口馴染みがある。
「報酬。まだ渡してなかったでしょう?」
「ああ。それね。今回は僕もにも原因あったからコーヒー豆で勘弁してあげるよ。学生からお金はいただけないしね」
回転式の椅子を回して、背を向けながら言い放った。肩をすくめるおまけ付きで。こんなふうにカッコつければ少しは探偵の貫禄というやつが出るような気がした。これ以上この女学生に舐められるわけにはいかないし、これで彼女も僕を男と見直すだろう。
「ラウディウス家はここに出資することに決めました」
「はぁ?!」
即座にクルリと椅子を翻す。開いた口が塞がらない。嬉しいことこの上ないのは事実だが、僕の立場が……それに看板もあれだし……
「今日からは所長ってお呼び!」
「いやさっきクララって……」。
「やっぱり今のなし!! クララでいい! クララがいい!」
態度が大きくなったクララにツッコミを入れると、すぐさま訂正した。正面のデスクで相も変わらずパソコンをいじるイリーアが微かに笑みを浮かべたような気がした。また変な人間拾っちゃったかなぁ。まあ、仕方ないか。これも縁だ。
「はいはい、クララ所長ね。ようこそ我が事務所へ」
「そうです! その呼び名です!」
このローゼスブルクでは落し物が後を絶たない。きっとまた依頼が来て、その度に多くの人と巡り合うだろう。
「あれ? でも、私が事務所にいるのには反対じゃないんですね」
そして、その度に僕は失くしたもの、落としたものの想いを拾い上げていく。縁を繋いでいく。僕たち三人の仕事はそういう仕事だ。
「しょうがないでしょ。友達からの依頼……だしね」
失くしたものの想いを拾い上げ、繋ぐ。それが僕の落し物探偵としての矜持。僕たち失せ物探偵事務所の日常はこれからも続いていく。この世から落し物がなくならない限り。今日もまた事務所の扉をノックする音が聞こえる。
さあ、あなたの落し物はなんですか?
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