前日

早朝の練習に来たものの、まだ歌っていない。

雨が降っていてなんとなく気分が乗らなかった。それに、今は、特に練習なんてしなくていいかな、と思っていた。

昨日もそうだったが、今日もヒヨさんは来ない。

ヒヨさんが来るなら歌ってもいいかな、とは思っている。

いや待て……今日は文化祭の前日準備の日だ。授業はなく、部活動所属者だけが学校へ登校する日なのだ。

つまり、部活に所属していないヒヨさんが来なくても当たり前。

僕は声を出さずに、ぼつぼつとベースを鳴らしていた。

「いたな、宮本」

来栖が部室に入ってきた。「ごめん、明日のステージのことで相談なんだけ――」

「歌うよ、僕。自由に、勝手に歌ってみる。やりたいように歌ってみる」

と、来栖が喋るより早く、僕は言った。

「え? え、お前、あ、え?」と、来栖は大いに混乱している。「いや、大黒の話だとお前、そういうのはダメだって……」

「気が変わったんだよ」

「変わるの早すぎだろ」

「変わったものは変わったんだ」

「あやしいな……」

「なにもあやしいことは、ございませんな」と言いつつ。

僕は、もう聞くことのできないフィールズの原田陽世の声を思い出した。

「聞いて欲しい人が、できたんだよ」

と、僕は口の中でひとりごちた。


大黒を交えたリハ以来の練習や部の全体ミーティングなどを経て、僕ら部員は機材の搬入を始めた。

持ち込むものは多くはない。業者に用意してもらえなかったモニター用スピーカーと、あと各々の楽器や小道具くらいだ。

ステージ設営やミーティングが終わったころ、体育館の丸い時計の針は、はちょうど3時を指していた。

ばらばらと解散する部員達と一緒に歩き出そうとしていると、中庭への扉が少し空いている。その向こうに、ふと、見たことのある人影が動くのを見つけた。

外は雨。傘も差さずに。

僕は扉のほうへ駆け寄って、

「風邪引きますよ! そんなとこいたら!」

と、僕が呼んだ。

ヒヨさんはこちらを向いた。

そして、何も言わずに、また背中を向けて歩き出した。

「なんなんだあの人は……」

機材搬入の時に使った汚いビニール傘をひっつかんで、彼女を追いかける。

「ちょっと、ヒヨさん!」

ようやくおいついて傘を差しだした手を、ヒヨさんは、ばちん、と払いのけた。ちょうど切った親指の付け根あたりにヒヨさんの平手が当たり、じん、と痛みが復活する。

「あ! せっかく傘を……」

「せっかく、なに?」

めちゃくちゃ声がちっちゃい。ハスキーボイスは小声になるとすごく聞こえづらいということが分かった。

「いや、だって、風邪引いちゃうでしょ」

「引いてけっこうです」

なぜ敬語。「なに怒ってるんですか。そうだ、昨日実は――」

「その話、聞きたくない」

と、ヒヨさんは、僕を睨んだ。いつもの眠たそうな視線が、今日は、僕をその場に射すくめる。

「え、なにを、ちょっと……僕はヒヨさんの歌聞いて、すごく――」

「人から……勝手に……奪わないでよ……!」

ヒヨさんがずんずんとこちらに歩いてくる。マイクよりも近い距離、そして僕の胸ぐらを思いっきりひっつかんで押した。その拍子に一番上のボタンが飛んだ。

「な、なんですか、いきなり」

どんどん押される。

「私の壁を、私が壊さなきゃいけない壁を……なんでミヤが取っちゃうの!」

雨のなか後ずさり続け、僕は体育館の壁に背中をぶつけた。

「あの音源を聞けば、私は私の壁を壊せるんじゃないかって思ってた。その先が見えると思ってた。でもずっと、怖くて、それが出来なかった……それを、なに? 勝手に横から入ってきて……そういうの、余計なお世話って言うのよ。そりゃ私だって今まで逃げてたのが悪いんだけど! 私が出来ないこと、ミヤなら出来るかなーとか思ってたのも私なんだけど! でも、でも……」

それは、紛れもなく、CDで聞いた原田陽世の叫び声だった。

「ヒヨさん……」

「それが、なんでこんなに寂しいのよ! なんで、こんなに……」

僕の首もとに、こつん、と彼女の頭がぶつかった。

「……ヒヨさんは、たぶん勘違いしてると、思います」

と、僕は言った。

「何よ、説教?」

「あのCDは、本当にヒヨさんの壁なんですか? まだヒヨさんの壁は……壊れてないと、僕は思います」

「……ッ」

短く息を吸い込む音が聞こえた。ぎりり、と歯を食いしばる音も。

僕の胸元に一粒だけ、生ぬるい雨粒が落ちた気がした。

先輩は、フイと僕から離れ、そしてまた雨の中を歩いて去って行く。

「明日、僕は僕の壁を壊します! 絶対に!」

僕は叫んだが、彼女は振り返えらずに、校舎の向こうへ消えて行った。

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