第17話 青い世界

目を開けたら晴が泣いていた。


「千里のばか!」


 ぽたぽたと頬に落ちてきた滴。彼女はぼろぼろと涙をこぼしていた。


「晴?」


 女の人の涙を見たのは久しぶりだった。


「ここは……?」


 目をくるくると動かして室内を探っていく。晴の後ろには真っ白な天井。例の部屋……? と思ったが、違っていた。緩い風が頬撫でつけていく。部屋には窓があった。


「治療室ですよ」


 涙をこぼす晴の反対側、自分の右側にマキシムが立っていた。


「マキシム……」


 首を右に捻ろうとしたときピリリと痛みが走った。首が思うように動かない。ならば……と上体を起こそうとしたら今度は体全身に痛みが走った。


「っ、た…………」


 体中が痛い。


「千里、動かないで! 酷い怪我なんだから!」


 怪我? ……酷い?


「一体何があったんだ?」

「覚えていないのですか」


 マキシムがそう言って、ベッド脇に置いてあった椅子に座り、晴の方を見た。


「晴さん、話してあげて下さい。千里さんは知っておかなければいけません」

「っ、」


 晴の涙は止まらなかった。自分の意識の回復を確認してもなお彼女は泣いている。何か他に理由があるのかもしれない。


「では、私が……」


 晴が言葉も出せない状態なのを確認したマキシムが代わりに、と口を開いた。マキシムが言葉を紡ぎだして幾たびに蘇っていく記憶。


「千里さんが空へ舞い上がったその次の瞬間、千里さんは地面で倒れていました」

「え?」


 いや、それはおかしい。だってあの時は空に舞い上がって後、ちゃんと自分の足で歩いて下に降りて、赤い壁を青く変えて、それで……徐々に蘇ってくる記憶。一つ目の赤を青に変えて、その後に見たもの。仮面の男。


「仮面の男……」

「仮面の男? あそこには始めからたくさんいたよ……?」


 晴が涙を拭いながらとても不思議そうにこちらを見ていた。


「その中に一人だけ違う仮面を付けた奴がいた。その男が自分の前に現れて、それで……」

「それで?」


 それで、どうしたんだっけ。


「それで……確か。その仮面の男が"探していた"と言って」


 頭が痛い。


「酷く気分が悪くなって、その場にうずくまってしまって」


 朦朧とする意識の中、安堵した。…………あぁ、そうだ。アイさんだ。彼が来てくれたから。


「アイさんが、来てくれた。それで自分は安心して、…………そういえば、アイさんは?」


 改めて室内を見回すけれど、そこに彼の姿はない。彼は一体どこに? という質問に対して清もマキシムも答えてはくれない。嫌な感じがした。自分はそこで意識が飛んでしまって、その後、アイさんとあの仮面の男がどうなったのかを知らない。


「アイさんは? どこに?」


 もう一度、二人に問いかけた。


 彼がこの場にいない。晴が泣き止まない。マキシムの表情が暗い。いつもの流暢なしゃべりが出てこない。そんなのもう話し始めてからすぐに分かっていたはずなのに、自分は見て見ぬふりをしていた。真実を知ることが怖くて。おそらく、アイさんは……。


「彼は…………亡くなったのですか?」

「っ、ううん、違う! 違うよ! ちゃんと生きてる!」


 晴の言葉にほ、と肩が降りた。でも二人の顔は暗い。何か別に理由があるのか。


「生きているのにどうして……」

「目をね、覚まさないの」

「どうして?」

「呪縛がかかっていて」

「じゅ、ばく?」

「その呪縛はね。とても高度な魔術技術でかけられたもので、一介の魔術師にはとてもじゃないけど、解呪できるものじゃないの」

「マキシムでも……?」


 彼ならできるんじゃないか、そう思ってマキシムを見た。マキシムは目を閉じて、首を左右に振っていた。


「私には無理でした。相当腕の立つ魔術師によってかけられています」


 マキシムよりも腕が立つ? それは一体……。脳裏に浮かんだのはあの仮面の男だった。


「あの仮面の男」

「さっき言っていた男?」


「そう。少し変わった仮面をしていた。他の連中の仮面は目と口がついているだけだったけど、その仮面の右側には縦に走る大きな刀傷がついていて、左目元には滴のマークがついていた」


 カタン、と音が鳴る。音のする方へ顔を向けた。そこに立っていたマキシムの顔が歪んでいる。一歩引かれた彼の足。あのマキシムが狼狽している?


「マキシム。何か知っているのか?」


 ハッ、と顔を上げたマキシムは視線を落として口を結ぶ。


「自分はあの仮面の男が怪しいと思う。青い世界の中で彼は動いていた。彼だけが」


 天井を見上げた。


「青い、世界……」

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