第3話 虎女と鯉男

 目を覚まして飛び込んできたのは見慣れた自室の天井だった。

 しかし。


「君の目は何処にいったの?」


 そんなことをいうものだから君をおかしな目で見てしまった。渡された鏡を覗き込む。左目はいつものところに収まってはいなかった。そこに広がるのは漆黒の世界。


「えっと、君は確か……」

「晴だよ。よろしくね」


 はい、と手渡された古めかしい手鏡。


「あぁ、それマキシムからプレゼントだって」


 あの部屋への通行証だから大切にしなさいって、言っていたよ。そう笑い、晴は立ち上がる。肩まである黒髪がなびく。前髪が少し動いた。


「千里と私は二人で一人ね」


 嬉しそうに笑う彼女の右目には黒い眼帯がついていた。あぁ、君も無くしてしまったのか。こぼれ出た言葉は晴の笑い声の中に消えていった。


「じゃあ、行きましょう」

「一体どこへ?」

「まずは説明しないとね」

「説明?」

「私たちの役割、知りたいでしょう?」


 さぁ立って立って、とせかされて立ち上がる。


「あ、でも……先に朝食を食べてもいい? お腹すいた」


 深く長いため息が出る。どうやらペアを組まされたらしい。それに彼女がいるということは、あれは夢ではなかったということだ。目を開けた瞬間のあの安堵したときに戻りたい。自分は、一体何を間違えてしまったのだろうか。


 一階に降りる。一人暮らしの男の部屋。彼女は平気なのだろうか。狭いキッチンに晴を案内し、一人用の机に座ってもらう。昨日買って来ていた食パンを取り出して渡した。


「驚いた。この時代にパンなんてものあるんだね」

「この時代?」

「調べたの。私がいた世界はここから数百年先の未来」

「…………驚いた」


 今度はこっちが驚く番だった。


「驚いたでしょ? この前あったメンバーはみんな違う時間軸から集まっているんだよ」

「……そんなこと信じられない」


 ま……だよね、とパンを口に放り込みながら晴が笑う。この家唯一の椅子に座る彼女と少し距離を取って壁に背中を預けながら、彼女の様子を長し見た。自分の方を真っ直ぐに見据えながら晴が言う。


「ではでは、中国人の私と日本人の千里がこんなにもスムーズにお話できているのはなぜでしょーか?」


 あぁ、そうだ。そうだった。あの部屋にいたときに思っていたじゃないか。自分は一体いつ、外の世界の言葉を覚えていたんだと。


「これはね、マキシムがそうさせているんだよ」

「彼が?」

「そう、彼はね。いわゆる神様なの」

「は?でも、管理人と」

「うん、彼はそう言うんだけどね。彼は神様で、それで私たちは世界の為にやらないといけないことがあるだよ」

「やらないといけないこと?」

「世界の歪みをなくす手助けをするんだってさ」


 くすくすという笑い声。なぜ晴はそうやって面白い話をするように笑うのだろうか。からかられているのではないだろうか、そう思いもした。だが、こうして彼女と会話ができている時点で、この話は本物であると思わざる得なかった。


「つまり、自分は選ばれたと?」

「うん、そうだね」


 マキシムから貰った鏡を見てごらん、晴はそう言って両肘を机に置く。相変わらず顔はニタニタと笑っていた。


「な!」

「千里は鯉らしいよ?」


 鏡に映る自分の顔はなんとも奇妙なことに鯉。さ、魚だと?


「あぁ、ちなみに私は虎なの。油断したら食べちゃうから」


 目を見開いたまま晴を見れば、晴はペロリと舌なめずりをする。自分は将来彼女に食われてしまうのか、卒倒しそうだった。ふと、鏡の縁についていたメモに目が向いた。そう言えばさっきからヒラヒラとついていたなと思いながらそれをはがす。メモにはマキシムからのメッセージが書かれていた。


 ――あなたのパートナーは晴さんに決まりました。詳しいことは彼女から聞いて下さい。それから、あなたはもう人間ではありません。鯉男となりましたので、あしからず。


「なんだこれは」


 手にしたメモはヒラヒラと床へと落ちていった。これから何が起こるというのだ。今以上のことが起こるというのか。あぁ……もう。


「どうしたの?」

「頭が痛い」

「それは大変だね」


 どうやら、自分のこれからはとても大変なものになるようだ。はぁ、と息を吐き出して、焼きたてのパンを口に運び、先の行く末を案じながら目を閉じた。

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