もはや伝説となった大司教は、現在美少女に懐かれて困っています。

仁野久洋

プロローグ

 おじさんと少女

 アルコンという男は、聖職者である。アルコン自身にそのつもりはなかったが、自らの社会的身分というものを分かりやすく明らかにした方がいろいろと都合が良いので大司教を名乗っている。通常ならば勝手にそんなものを名乗れるはずは無いのだが、アルコンには認めざるを得ない実績がある。結果、教会に異を唱えることは不可能となっていた。


 実績とは、15年前に行われた大陸国家群軍事同盟「魔獣王大征伐戦」に於ける活躍のことだ。魔獣王ベスティアを討ち果たした剣聖グラディオをリーダーとする六人隊は、英雄として歴史に名を残すこととなった。全軍30万の兵士の中、魔獣王の居室にまで辿り着けたのは、わずか六人しかいなかったのだ。


 軍容は馬を駆る騎士が主力だったが、最新鋭の武装を持つ銃士隊や最近各国で最大の脅威とされている自走臼砲も編成されていた。物資の輸送にも馬車ではなく荷台を連結した魔動車が惜しみなく使用された。大陸の全軍事力を投入し、考えうる最強の布陣で臨んだ戦争だった。それが「魔獣王ベスティア大征伐戦」である。それでも目標に六人しか到達出来なかったのだ。従って、彼らが英雄と呼ばれるは必然だった。


 教会の修道騎士も、誰ひとりとして魔獣王に剣をつけることは出来なかった。教会の面子を守るため、アルコンにはむしろ大司教を名乗っていてもらわなければ困るくらいだったのだろう。だから、アルコンは今も大司教を名乗れている。


 不可視の剣聖グラディオ。沈黙の魔導師フロウス。星屑の光弓手アーカス。七頭竜の神槍ハスタ。混沌の奇術師マレフィ・キウム。そして、赤手甲の聖魔法士アルコン。


 アルコンは、紛れもない英雄だ。



 ――が。


「ねー、アルコン。ねーってば、ねーねー」

「なんだウィンクルム、うるさいな。俺は今、野菜を煮込むのに忙しい。煮過ぎると野菜がぐずぐずに溶けてしまい、歯応えや食べ応えがなくなるのだ。そんなシチューは嫌だろう? 見極めているのだから、邪魔をするなよ、邪魔を」


 それから15年後の現在、アルコンは古びた教会の台所にて、薄暗い燭台の灯の下、野菜を煮込むのに注力していた。日はすっかり落ちている。今夜は身の回りの世話をしてくれている修道士クーラエが留守なのだ。アルコンは、やむを得ず台所に立っていた。


 そして。


「わたしが、邪魔?」


 寸胴鍋の前に立つアルコンの背中から、悲しげな声でそう問いかけているのは、ウィンクルムという少女だった。15歳のウィンクルムは、まだ美しさよりも愛らしさの方が勝っている。しかし、風呂上がりに借りたアルコンのシャツから伸びるウィンクルムのしなやかな脚線美は、すでにして艶かしい色気をまとっていた。ウィンクルムの姿は、いわゆる裸シャツだった。童貞ならば、殺されていることだろう。


「あ? うっ……、じゃ、邪魔をするなよと言っただけだ」


 アルコンは、ウィンクルム自体が邪魔だと言ったわけではない。なぜそんなに落ち込んだ声を出すのかと振り返ったところに、ウィンクルムの大きくて真っ青な、潤んだ瞳とがち合った。まるで清水に満たされた湖面のような瞳に不意を突かれたアルコンは、不覚にも動揺していた。決して、黄金色の陽光を思わせる艶っぽい濡れた髪や、広がったシャツの胸元から覗く谷間に驚いたわけではない。アルコンは、童貞では無いのだ。


 36歳にもなって、こんな子どもが泣きそうになっているだけで何を動揺しているのか。胸は子どもとは呼べないが、さりとて大人であるとも言い難いものなのに。アルコンはそう思うと情けないやら腹立たしいやらでどんな顔をウィンクルムに向ければいいのか分からなくなり、すぐにぷいっと寸胴鍋に目を戻した。


 ウィンクルムはアルコンの言いたいことが分かったらしく、すぐににぱっと笑顔を咲かせた。


「うん、分かった! じゃあね、じゃあ、わたしのこと好き?」

「ぶほっ」


 背中にぺったりと抱きつかれたアルコンは咳き込んだ。風呂上りだからか、やけにぽかぽかとした体温が薄いシャツ越しに伝わる。同時に、ウィンクルムの柔らかさも必要以上に分かってしまう。英雄アルコンとて男である。聖職者の前に男である。そして、おっさんと呼ばれる歳になったとて、やはり男なのである。


「ぬぅん! 止まれ、このどきどきする心臓め!」


 咄嗟に、アルコンは近くにあった包丁で自らの胸を突いた。しかし、アルコンの固有魔法である自動防護障壁の働きで、包丁の刃は半分に折れていた。


「きゃあああっ! な、なにしてるの、アルコン!?」

「いや、なんでもない。気にするなウィンクルム」


 背中側にいるウィンクルムに、今のアルコンの奇行は見えていない。が、魔法の発動を検知し、包丁の刃が砕けたことは視認した。鍋で野菜を煮込んでいるだけで起こるようなことではない。ウィンクルムが驚くのも当然だ。


「ふむ。よし、冷静だ。俺は冷静。俺は36歳、おっさんだ。恋とか愛とかもう全然関係無い。野菜さえうまく煮えればそれでいい。とにかく腹が減ってるし。ふははははは」

「なにぶつぶつ言ってるの、アルコン? 誤魔化さないで答えてよ。ねー、好き? 一緒にいたい? いると嬉しい?」

「ウィンクルムよ。そんな質問に答えるほど、俺が愚かだと思うのか? うんと言えば調子に乗るだろうし、いいやと言えばどんよりと落ち込んで場を暗くするのだろう? どう答えても俺にとって良い結果とはならない以上、俺が答えることはない。さらに答える義理も義務も俺には無い。さぁ、分かったら皿を出してスプーンを並べるのだ。大体、こんなおっさんになぜそんなことを聞く? お前、少しおかしいんじゃないのか?」


 いつもの調子を取り戻したアルコンは、鍋を火から下ろすとテーブルの方へと振り向いた。ちなみに教会の台所は昔ながらの土間であり、火は薪に頼っている。こんな下町で、ガスコンロなどという最新鋭の洒落た設備を使える家庭はまだ一軒も無いのだ。


「調子になんて乗らないし、アルコンに迷惑かけるほど落ち込んだりもしないもん。あと、おっさんとか関係無いもん。アルコンは座る時とかによっこいしょって言うしクシャミでかいし突然咳き込んだりするし腰が痛いとか良く言うからわたしから見ても確かにおっさんなんだけど、そんなのなんにも関係ない。わたしが好きなのはアルコン自身なんだから、例え10歳だろうと60歳だろうと、やっぱり好きになってるはずなんだもん。それがおかしいならおかしいでも構わない。誰に何を言われようと関係ない。アルコン本人に言われたって変わらない。わたしはアルコンが好きなの。ただそれだけ。アルコンもわたしと同じようにわたしのことを好きになってくれればそりゃあそれが一番嬉しいんだろうけど、別にそうでなくてもいい。わたしは側にいられればそれでいい。毎日毎日、アルコンと一緒にごはんを食べて、たくさんお話していっぱい笑って、たまには泣いて。で、おばあちゃんになって死んじゃったら、あとはアルコンとおんなじお墓に入って眠りたい。で、毎年命日には子どもたちがお墓参りに来てくれて、そのうちにその子どもたちなんかまでお参りに来てくれたり。ああ、わたしももうひいひいおばあちゃんくらいになるのかなー、なんてお空の上でアルコンとその子達を眺めるの。そしたら」

「おいおいおいおいおいおい、ちょっと待て。黙って聞いてたらえらいことになってるようだが。一緒にいられるだけで良いとか欲のない子だなーなんて思ってたら、いつの間にか夫婦になって子どもまで作って家族になっているようだが」

「え? あ、ほんとだ。ついうっかり夢が溢れ出ちゃってた」

「お前の夢、妙に具体的で生々しいな。ちょっと怖いぞ、それ」

「生々しいとか怖いとか傷つくなぁ。まぁ、女の子は男の子と比べて現実主義だって言うもんね。わたしもそうだったってことかなぁ」

「現実主義が聞いて呆れる。いいか、ウィンクルム? 百歩譲って、俺がお前と夫婦となったとしよう。が、そんな幸せな時など一瞬で儚く終わるものなのだ。俺とお前の年齢差は20もある。つまり、俺とお前の寿命が同じだったとしても、俺は20年も先に逝くということだ。長生きしたとしても、せいぜい70歳というところだろう。お前と一緒にいられる時など、今から数えてたったの34年間だ。同じ年頃の男と一緒になれば、54年も同じ時を生きられるというのに、この差はあまりにも大きい。それに、食生活においても差異が生じる。ウィンクルム、お前は肉が好きだろう?」

「うん。お肉大好き。煮ても焼いても炒めてもおいしいもんね」

「そうだろう。俺も若い頃はそうだった。が、今ではすっかり野菜派だ。肉は胃にもたれるようになってしまった。あっさりとした食事の方が好みとなっている。うちの教会は見ての通りの貧乏所帯で、そもそも肉など滅多に食べられるものではない。お前、俺の、というか、この教会の食生活に耐えられるのか?」

「平気だよ。肉なら食べたい時にその辺でなんか捕まえて食べるもん」


 ウィンクルムは即答した。あっけらかんとした笑顔は何も考えていないようにも見えるが、そのシンプルな答えはアルコンにつけ入る隙が無いと思わせた。


「ふむ」


 思わず唸ったアルコンは、出来れば指摘したくはなかったことも言わねばならないと決意した。ウィンクルムは、なぜだか自分を大変に気に入ってしまっている。多大な好意を寄せている。これは断ち切るべき不幸の種だ、とアルコンは信じている。だから、言わねばならなかった。


「では、お前の想像もしていないであろう不幸を教えてあげよう。こほん。ウィンクルム、お前はまだ処女だろう?」


 こういうことを言うのに慣れていないアルコンは、不自然な咳払いをしていることに気付いていない。アルコンは出来うる限り冷静に、いやらしさを排除した言い方をしたつもりだった。


「処女? ああ、性行為かぁ。うん、わたしはまだしたことない。嬉しい、アルコン? 男の人って一番最初の人になりたいものなんだって、どっかで聞いたことあるよ」

「そんなことは知らん! ま、まぁ、処女ならそれでいい。それでだな」

「それでいい? やっぱり嬉しいんだね、アルコン。良かったぁ」


 アルコンは胸を撫で下ろすウィンクルムを無視した。


「そ、れ、で、だ、な」

「ふんふん?」

「おい。顔を肩に乗せるな。唇が俺の頬に当たっている。俺は真面目に話しているのだ」

「あ、ごめんね。なんか、アルコンが急に可愛くて仕方がなくなっちゃって。つい」

「俺はペットの犬ではない。軽々に唇を押し当てられても困るのだ」

「え? そういうのじゃないんだけど。なんていうか、愛おしいって言うのかな」

「どっちでもいい。とにかく、そう思ってもするんじゃない」


 アルコンは濡れ犬が水気を振り払うように身震いして、ウィンクルムを背中から引き剥がした。そして、振り返ってウィンクルムを両手で抱き上げ、距離を置いたところにすとんと下ろした。


「さて、続きだ。夫婦といえば、性生活が当然ある。しかし、お互いが常にお互いを欲しているわけではない。なぜなら、性欲には個人差があるからだ。男女によっても違いがあるし、加齢によって衰えもする。さぁ、ここで問題が生じてくる。例えばお前が毎日でもセックスがしたいと思っていたとしても、俺は一ヶ月に一回くらいで十分だと思っていたら? まだ経験したことの無いお前には分からないことだろうが、セックスとは人間にとって最高の快楽の一つであり、なんの制約も無い状況下、つまりそれをしていて当たり前な関係である夫婦において我慢することなど難しい。代わりになるものなど存在しない。したとしても、それは倫理的に許されざる行為だろう。俺とお前には、この難問が必ず大きな壁として屹立してくるはずなのだ。事実、これにより愛などと呼んでいた感情が緩慢に冷めて最後は消滅する夫婦などいくらでもある。お前は、これをなんとする? どうにか出来ると思うのか?」


 ウィンクルムは、今度は少し黙考した。腕を組み、考えているような仕草には見える。しかし、結論はやはりいかにもウィンクルムらしいものだった。


「さぁ? 経験の無いわたしにはそんなのまだ実感無いし分からない。けど、きっとなんとかなるよ。例えわたしがセックス大好きなすっごくエッチな子だったとしても、なんかうまい方法を考えてなんとかするよ。だから、アルコンはなんにも心配しなくていいの。全部、わたしに任せてくれていいんだよ」

「いや、だから。そんなに簡単なことではないと」

「大丈夫! わたしたちなら、きっと絶対にうまくいくから!」


 自信満々の笑顔でウィンク付きのサムズアップをするウィンクルムに、アルコンは「はああああああ」と盛大なため息を吐き出さずにはいられなかった。そんなアルコンを見て、ウィンクルムは。


「そんなにそれが心配なら、とりあえずわたしとセックスしてみてよ? それでダメそうならわたしも少し考える」

「アホかっ! そんな理由で出来るわけないだろう!」

「うきゃああああ!」


  自分の胸に飛び込みそう言い放ったウィンクルムの頭を、アルコンは思わずばしんと叩いていた。ウィンクルムは教会の板壁を突き破り、外の茂みにまで吹き飛んだ。アルコンの聖魔法による身体能力強化の制御、つまり力加減がうまく出来なかったのだ。六英雄の聖魔法士であるアルコンにしては珍しいミスだった。


 無理もない。アルコンが15年もの間失っていた"加護"を取り戻したのは、まだ最近なのだから。


「いったーい! もう! 叩くことないじゃないー!」

「うるさい! もう今夜はメシ抜きだ、お前は!」


 外で頭をさするウィンクルムは、なぜか嬉しそうだった。


「へへっ。そんな理由で、かぁ。えへへ」


 アルコンの誠実さが、ウィンクルムの心に届いていた。


 ところで、アルコンに吹き飛ばされたウィンクルムが、なぜ無事で笑っていられるのか? それもアルコンの聖魔法によるものだ。アルコンが「大切だ」と思っている人間にも、アルコンと同じ「加護」が働く。アルコン自身が認めていなくとも、「加護」はそう判断して働くのだった。


 しかし、「大切ではない」者にも、この力は意識的に使うことが出来る。

 今のはどっちだったのか。アルコンは、もちろん「後者だ」と答えるだろうが。




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