三幕 由加里
彼は、崖っぷちに立っていた。刺の連なる深遠を覗き込みながら、じっとその様を見ていた。彼は穏やかだった。自分の殺された後に起きた全ての出来事を目にして。
「……ここは、地獄なのか?」
背後に気配を感じて、彼はそう呟いた。
───ああ、地獄だよ。真奈美のな。
「真奈美の? 何故……」
かすれた声は、クククと笑う。彼は、何故真奈美が地獄に落ちたのか、判らなかった。
「何故、真奈美が地獄に落ちる?」
声は、癇に触る笑い声を上げながら背後で転げ回った。だが、彼はそれを振り返って見ようとは思わず、問いを重ねた。
「俺が地獄に落ちたのは、判る。一時的感情でとはいえ、真奈美を殺した。真奈美を殺した事で、真奈美の父親と由加里の人生を狂わせた。そして、俺や真奈美に係わる全ての人達に、苦しみを与えてしまったんだ。だが、被害者である真奈美が、何故地獄に落ちる?」
気味の悪い声は、笑い疲れたのか、ヒュウヒュウと喉を鳴らせながら答える。
───憎悪に染まったからさ。お前さん、随分嫌われたようだね。
「…………」
───ただ、染まっただけじゃあない。憎悪しかないんだよ。憎悪だけで出来ているといっても過言ではない。生前、何に対して憎悪していたのかを忘れてしまっている、方向性の無い憎悪だ。だが、とても重くて暗い物だったから、あの魂は側に地獄を呼んだ。……それが、目の前の景色だ。
彼は、声の方へ振り返った。だが、何も視界に捉える事が叶わない。それでも、問わずには居られなかった。
「……岡野さんは、天国へ行けないのか?」
それに対して声は無かった。
「どうしたら、岡野さんは“憎悪”から解放されるんだ!」
すると、少し離れた場所で、囁く様な声がした。
───前方に、光が一つだけ、見えるね。
彼は目を凝らして前方を見た。すると、暗い世界に、一つだけ明かりが見える。彼が頷くと、声は続けた。
───あの下に、この世界を支える魂が、捕らわれているのさ。その魂を縛る鎖から解放してやればいい。
「方法は?」
しかし、それには答えは無かった。ただ、笑い声だけがその場に響いていた。嫌になるほど響いて、小さくなって消えた。
「……俺は、死んでいるんだ」
地獄が呼び寄せられていると、声から聞いた。ここから微かに見える光まで、その地獄が連なっているに違いない。
「これ以上、死ぬ事はないんだ」
何度も何度も自分自身に彼は言い聞かせる。地獄の責め苦という言葉がある様に、死にはしないが、生身と同じくらいに、痛みは感じるだろう。
「……由加里……」
脳裏に、彼の遺骸に縋って泣く姿が、黒い鏡に映っていたのを思い出した。由加里は、泣きながら、こう言っていた。
「わたしはあなたの事を、全部知っていたのよ?」
と。
「ただ、わたしがその事を言わなかったのは、“あなたの口から話して欲しかった”からなのに。……どんな、過去を持っていようとも、あなたはあなたでしょう?」
知られていた事に、ショックを受けたが、それでも泣けるほど嬉しかった。
(もっと人を信じる勇気が自分にあれば、こんな悲惨な事には成らなかったのに)
後の祭である。彼はきつい眼差しを前方の光に注いだ。今更後悔したって、始まらない。
全て終わってしまった事だから。ただここに居るだけでは、何も成らない。何故自分がここに来たのかと自問自答する。多分己の罪を認め、それを償う事が必要だと思い、運命が用意したのだろう。その機会がコレなのだ。
恐ろしいほど強固な覚悟が必要なのが、これから成そうとする事には不可欠だった。
自分が犯してしまった罪の償いに、真奈美を地獄から解放するためには。
「由加里」
彼は、自分の死に泣いてくれた、かつての恋人に再度語りかける。
「俺、頑張るから。……頑張って、岡野さんを助けるから。だから、泣かないで……」
彼は、思い切ってその崖から飛び下りた。
飛び下りた先に、鋭い刺が待ち構えていた。耳を塞ぎたく成るような悲鳴が彼の口から発せられ、彼の身体は刺に貫かれる。
彼は、血を吐きながら両手、両足を使って身体を刺の先端まで這って移動させると、刺から身体を抜いた。それが、彼の苦難の始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます