二幕 残された者
「……俺は、人殺しだ……」
ガタガタと震える身体を抱きしめて、やっとそれだけ声を絞り出した。
「俺は、感情に負けて、岡野真奈美をこの手で殺してしまったっ!」
そう自覚して、握りしめた掌を彼は広げてみると、鮮血に今まで浸していたかの様に深い真紅に手首から先が染まって、赤い流れを作っていた。そうして、座り込んだ彼の足元に黒い血溜まりを作る。真奈美を殺した事を思い出した事で、彼はその後、どんな事が起きたかも思い出す事が出来た。
彼の思い出した事が、まるで心の鏡の様に、眼前にそびえる黒曜石の様な鏡に映し出される。彼は、それを涙を零しながら見つめつづけた。
「ようやく、見つける事が出来たぞっ!」
彼の前に、頬骨がこけた四十半ばの男が、片手に包丁を持って立っていた。場所は、真奈美が殺された学校の裏にある、小さな森。 彼はそこに、追い詰められたのだ。
真奈美の遺体が発見された時、証拠の隠匿も何もされていない上、証拠となる物が多く残されていたものだから、警察の調べで犯人が彼だという事が直ぐ判った。が、公判で判決が出て、少年院に送られる時、真奈美の父親であるその男が呪いの言葉を吐いた。多くは言わなかった。ただ、ギラギラした瞳で、涙を零しながら叫んだのだ。……彼が死刑になる事も無かったので。
「娘を、真奈美を返せっ! 人殺しっ」
彼に最初から殺す意思が無かったという事。証拠を隠匿する事をしなかった事。そして、罪を認めた事……。それらが、刑を軽くした。 そして、借り出所したその日。奇妙な噂を彼は警察の者に聞く。彼が殺人を起こしてしまった学校の裏の森で、このところ、殺人事件が勃発しているという事。被害者が彼と似た年格好の者が多いという事を。今までお世話に成った看守や警察の方々にお礼を言って、外の世界と隔てていた壁を抜けて門を潜った時、足が留まった。持っていた鞄をそのまま取り落とし、呆然と目の前の人物を見る。
「……お帰りなさい」
大人びた顔つきに成った、会いたくて、でも会えないと思っていた、彼の彼女、愛園由加里が涙を湛えて立っていた。見捨てられていない事が、彼は嬉しかった。……だが、彼女にこれから先、影を落とすであろう、自分の存在を悲しく思いながら、それでもどうにか笑顔で「うん」と、答えた。
由加里に自宅まで車で送って貰う途中、花屋に彼は寄ってもらった。花束を二つ作って貰って、一つは由加里に手渡した。「もう一つは?」と問われて、「森へ」と答えた。
由加里はそれで全てを察したらしく、少し寂しい表情をした後、頷いて「いってらっしゃい」と、言ってくれた。由加里は彼を家の前で下ろすと、後で電話すると言って、家に帰っていった。
彼は、綺麗にかたずいてしまっている部屋に荷物を置くと、玄関で出迎えてくれた両親に挨拶と、これから少し出てくる事を伝えて家を出た。徒歩で歩いて通学路を記憶のままなぞる。彼が外界と隔てられている間に、見覚えのある物が随分と減っていた。
片手に握られた花束は、スイトピーとリンドウ、チューリップの組み合わせ。
萎れない様に気をつけながら、ゆっくりと歩いて学校へ向かい、新しく立った校舎やその他に少し寂しい気持ちを抱えたまま、森に向かった。
本当は、来たくなかった。刑務所で繰り返し見た夢の中での真奈美の顔が、ちらついていたから。血走った目が、真っ直ぐ彼を見据え、恨む訳ではなく嘲笑するのだ。
恐ろしいほど高らかに笑い声を上げて指を差す。初めは抵抗していたが、真奈美はその身体を徐々に腐敗させながら、だが彼を追う事を止めることが無い。最初の数年で、抵抗する事に諦めが生じた。逃げ回る事もしてみせたが、真奈美は必ず何処にいても先回りする。鬱血し、腫れ上がった顔で凶悪な笑顔を作って待っている。気が狂いそうだった。何度、牢獄の中で悲鳴を上げながら飛び起きただろう。
殺した事についての本人の呪いの言葉の方が、まだマシだったかも知れない。だが、何を話す訳でなく楽しげに真奈美は彼を夢の中で追い詰める。だから、彼はもう逃げるのを止めた。出所が決まるまで、真っ直ぐ受け止め様と長い間努力したのだ。
出所が決まって、その日取りが彼に知らされた時、真奈美を殺してしまった場所に、一度は行かなければと彼は思った。そうして、それを実行するために、彼は学校へ足を向け、学校を抜けて、一歩森に踏み込む。
あの日の事を生々しく思い出しながら、確かめる様に歩いて、ある場所で歩みを止める。
花が生けてあった。まだ新しい花だ。何度も通ったのだろうと思われる様子で、それが何とはなしに、由加里か、真奈美の父親ではないかと思った。お菓子も添えてある。和菓子だったり、洋菓子だったりと色々で。
彼は屈んで持参した花束をそこに置いた。
手を合わせ拝んでいる時、そこからそう離れて居ない場所で、まだ若い男の悲鳴が聞こえた。彼は、立ち上がって声のした方へ思わず駆けだしていく。そこで彼は見た。眼光鋭く、だが、何処か狂ってしまった中年の男と、懸命に逃げようともがいているが、足を切りつけられて動けない少年の二人を。……少年の方は知らない。だが、少年の襟を捕らえ、包丁を振りかざしている中年の男の方は、知っていた。それを見て、彼は全てを把握した。 殺戮を行おうとする男は、彼が少年院に送られる前に、裁判所で判決を不服とした真奈美の父親だった。……そういえば、と思い出す。この頃この森で、殺人事件が多発していると。彼は苦笑した。夢の中で真奈美は、彼に対しての恨みを口にしなかった。あるのは嘲笑だけだった。生前の面影をほとんど失った姿で、逃げる彼を追い詰めながら、笑っていたのだ。……真奈美は、知っていたのだろうか。止めなければと、彼は思った。これは、彼だけにしか、出来ない事だった。
目の前の二人は、彼に気付いて居ない様子だった。恐ろしかったが、これは自分がしなければ成らない事だった。だから、再び包丁を振り上げる男に、声をかける事が出来たのだ。
「おじさん」
と。男は、身体を強張らせ、まるで人形の様に首を彼の方へ向ける。
「おじさん。間違えてはいけない。……“岡野さんを守るために”殺すのは、ボクでしょう?」
男は、少年の襟首から手を放した。そして、嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑う。彼は、少年に顎を杓って視線で逃げる様に示唆する。
「ボクは、帰って来たんです。……ほらっ、“時”が戻る……。あの日、あの時に……」
わざと一歩下がって見せた。男はつられた様に一歩彼の方へ進む。
「……探したよ。探したよっ! きさまっ」
男は彼を追いかける。追いかけて、追いかけて……そうして、追い詰めて、殺した。
彼の息が絶えるまで、何度も何度も包丁を振るい、刻むように刺す。末は血が流れなくなるほど刺し尽くして、そうして男は全身を真紅に染めて泣きながら笑った。狂った様に笑い続ける男は、逃げきった少年の通報で、警察に捕らえられる。無残な死体の前で、血を浴びて笑い続ける、一連の犯人とおぼしきその男、岡野真奈美の父親は、連行されてその場から去るまで、ブツブツと「当然の報いだ。ざまあみろ」と呟いていた。
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