一幕 真奈美

気が付くと、鏡のように滑らかで、黒曜石の様に真っ黒な一枚岩の横に倒れていた。意識をはっきりさせようと頭を僅かに振りながら立ち上がり、草を踏みしめて数メートル先で途切れている道の先がどうなっているのか見定めるために、彼はギリギリまで歩いていった。

 理由は何故自分がこんな所にいるのか判らなかったからだ。途切れている道の先にその理由を見つけ出す事が出来るかもしれないと思ったに過ぎない。辺りは真っ暗だった。夜なのだろうかと思われるくらい真っ暗なのだ。

 日の光も射し込まない。夜にしては、月が出ていなかった。

 新月なのかな?

 そうは思ったが、星が全く見えないのは可笑しい。排気ガスと光化学スモッグで灰色に見える東京の空にだって、一番見えやすい宵の明星は見えるのだ。

 白い道が目に映る。真っ暗な光一つ無い回りに唯一仄かではあったが光を与えている物だった。ゆっくりゆっくり確かめる様に歩く。

 大した距離でもなかったが、本能ではその“確かめる行為”を嫌がっているのを自覚していた。ほんの数メートル先で途切れている道の向こう側の正体。それが自分にとっては認める事が大変困難なものだという自覚が無意識のうちにあった。一歩、一歩、歩み寄る。

 道の途切れた場所に近づくにつれて、足が重くなった。そして…そして、歩みを止める。

 途切れた先は闇だった。進もうにも進めない空間だった。…崖っぷちだったのだ。それも鼠返しの様なとんでもない崖の上に自分は立っていた。ようやく暗さに慣れた目で自分の回りや崖の周辺、そして崖下にある物全てを見渡した。そしてそこで目撃した物に対する自分の受けた衝撃のために、ガクガクと膝が笑いそうになるのを必死に耐えて、もといた場所に走って戻った。そしてそこで改めてぺたりと座り込んだのだ。

「なんで…なんでこんな…」

 彼はショックのあまり、それだけしか言葉にする事が出来なかった。彼が目にした物…それは、草が疎らに生えているとはいえ、約十メートル四方の平たい大地だった。自分はその僅かな面積の上にいるのだ。包丁で切りそろえたのではないかと思われるくらい奇麗な九十度くらいの角と角が左右を見渡すだけで目に入る。崖下は立ち眩みが起きそうな程高くて深くてそして暗い。そこには大小様々なサボテンの刺に似た鋭くて固い物が天に向かって伸びていた。その空はじわじわと広がり姿を変えながら赤みの強い部分を浸食していく。何処か血の色に似ているなと思い、鳥肌が立った。ガチガチ歯が鳴ってそれだけは抑えようがなかった。

───おまえの罪だよ。

 何処からか囁く様な声が聞こえた。

「なにが…なにが罪なんだよ!」

 自分がいる場所に対する恐怖と、囁きかけた声の不気味さを振り切るために叫んだ。

 すると、クククッとくぐもった幾分嗄れた笑い声が聞こえ、またも声がした。

───さあねぇ…罪を自覚するのは自分自身の心しだいだよねぇ。……おっと!その前に後ろの閻魔様の鏡を覗いてごらん。面白い見せ物が映し出されているよ。フフフッ…何とも奇妙な人の感情だねぇ…繊細で脆い氷砂糖……甘美て深い味わいの……

 ズズッと涎を啜り、舌なめずりする音が聞こえ、それっきり声が聞こえなくなる。彼は、恐る恐る背後を振り返った。気味の悪い声が示した黒曜石の様な材質の滑らかな石は、ぼんやりと何かの映像を映し出していた。そして、それを見て欠落していた記憶が、はめ絵の最後の一コマをはめ込んだ時の様に、完全な形となって思い出す事が出来た。先程までの曖昧さが全て嘘の様に克明にだ。彼は、黒曜石の鏡に映る映像を見ながらガタガタ震えた。そして、その頬には涙がいく筋も伝い流れた。ようやくはっきりした記憶を抱え込み、拳を白くなるほど握りしめる。自分は誰か、何故ここにいるのか…そして、自覚する。自分の冒してしまった取り返しのつかない罪を。



「先輩と別れて下さい!」

 きつい瞳に細面の中々整った顔だちの少女が、嫌悪丸出しの表情でそう叫ぶように彼に言った。校則のため、きっちりと三つ網されたかなり長いお下げは、時々訪れる風によって靡いている。

「……なんだよ、お前は」

 少女の名は…たしか岡野真奈美といった。

 見覚えはある。いつも自分を親の仇か何かの様に睨み付けている少女だ。一つ下の学年で、彼の現在の彼女である愛園由加里の部活の後輩である。

「お前には…俺が誰と付き合おうと関係ないね。…だいたい、何だよ? こんなうっとおしい森ン中まで呼び出してさ。たったそれだけ言うために、こんな所まで俺を呼び出したわけ? ああ!?」

 眉間に皺を寄せて不機嫌そうに言った。

「貴方には関係ないでしょうけれど……愛園先輩の関わる事だったら私には関係があるんです!」

 きつい…きつい視線だった。何処か思い詰めた様なそんな感情が潜んでいる声だった。

「わたしには…大切な…とっても大切な人なんだもの!」

「……ふん。そうかいそうかい。だが…な、あれは俺の女なんだぜ?由加里は」

 憎らしいくらい不敵な笑顔で真奈美の鼻の頭に指を突きつけてそう言い切るとプイッと踵をかえした。さっさと学校へ戻り、部活に参加するためだ。

「…あんたなんか…絶対、愛園先輩に相応しくないもの。……私は聞いて知っているんですからね!」

 真奈美を無視して帰ろうとしていた矢先だった。彼女はフフンと鼻を鳴らした。

「芭禺蝸って…知ってる?」

 彼は反射的に振り返った。

「……なに?」

「ワルで有名だったあんたがこの名を知らないはずないよね。だって、この名の暴走族にあんたは所属していたはずだもんね」

 今まで不機嫌そうに真奈美を見ていた目に動揺した色が揺らいだのを見つけ、真奈美は勝ち誇ったように笑みを口許に浮かべる。

「わたしのね、知り合いがそこに以前いたの。……色々噂は聞いているわ。あんた、少年院にこそ行かなかったけど、そうとう悪い事してたじゃないのさ。麻薬……買ってたんだって?路上でそのせいで喧嘩したって言ってたもんね。万引きもしたって聞いているわよ。……あんた、逃げ足だけは早かったって言っていた。そのせいで今まで前科者に成らないで済んだんだよね。その足のおかげで!」

「…………」

言い返さないのをいい事に、真奈美は彼の過去を次々と暴きたてる。黙ってそれを聞いていた。どこか他人事の様に見ていた。

 段々身体が冷えていくのを自覚していた。「そんなやつに、愛園先輩を渡すもんですかっ! 先輩にいいつけてやるんだからっ。あんたは、こんなやつだってっ!」

 吐き捨てる様にそういって、真奈美は駆けだそうとした。彼は、そんな事はさせないとばかりに真奈美を追いかけて、

「やめろっ!」

 肩に手をかけ止めたはずだった。だが、真奈美は彼の手を振りほどいて、再び駆けだそうとしたのだ。

 彼の彼女である由加里は、彼が一番心身的に荒れていた時期に出会った。階段ですれ違った時に、ぶつかった事が切っ掛けだ。裁縫道具箱を取り落として、バラバラに落ちたのを拾ってやった。どこかおっとりとした雰囲気を持った子で、ぶつかったのは、駆けて通りすぎようとした彼の方が悪いのに、先に謝ってきたのだ。それが居心地悪くて、散らばってしまったそれを拾うのを手伝ったわけだが、拾いおえた後の笑顔が、とても印象的だった。また、彼が放課後帰宅している時だった。学校の門を出るとき、何処からか歌声が響いてきた。この時間になると、かならず聞こえる。……コーラス部の練習だ。歌詞の中にソロがあって、それを歌う人の声がとても綺麗なのだ。春の風の暖かさ、夏の緑の力強さ、秋の景色の不思議な彩り、冬の雪のきらめきを豊かに歌い上げる。声のする方へ顔を向け、彼はよく立ち止まった。悪友とも言える友人と共に帰る時、いつもその部分でつい足を止めて聞いてしまう。その日は偶然それを歌っている者が窓際に居て、彼の立っている門の所から見えた。それが、彼女だった。

 階段の通りすがり、移動教室でのすれ違い、いつのまにか目で追っていた。その内彼女も彼に気付きだして、笑顔を向けてくれる様になる。そして、学年が一つ上がったある日。彼は思い切って告白したのだ。彼女は初め驚いていたけど、頬を朱に染めて、言葉の代わりに大きく頷いて承諾してくれた。

 特に派手な所はない。誰もが認める造作の顔でもない。何処にでも居る平均的な女の子の姿をしていた。でも、回りの人々にとって彼女は春の日差しだった。彼女の人柄を慕う同じ部活の後輩は少なくない。何事にも真剣に話し、または聞いてくれる彼女だったから、相談事を持ち込む子も多かった。

 そんな彼女だったから、正反対を突き進んでいた彼の事で悩んでほしくなくて、彼は自分の“生”を話すことが出来なかった。汚い自分を知って嫌いになって欲しくなかった。

 彼の汚いと思える部分を知る真奈美を止めたくて、追いかけて……。

「やめろって、言ってるだろっ!」

 だが、何度目か引き止めてそう言った時、真奈美は嘲笑を込めて言ったのだ。

「ばーか。何をムキになってんのよ!」

 瞬間、目の前が真っ赤に染まった。目の前の真奈美が憎くて憎くて仕方がなかった。

 感情がその言葉を引き金に爆発したのを、彼は克明に覚えている。

 気がついたら、目の前にぐったりとした真奈美が居て、彼がその細い首に手をかけて絞めて居た。きれいに整えられた真奈美の髪が乱れており、彼の手は掻き傷で血が滲んでいた。真由美の整った顔は、無残に歪んで醜悪極まりなく、空気を貪ろうとして徒労に終わった口には、血の混じった泡と、だらりとはみ出させた舌が見えた。

 殺すつもりは無かった。身体から力が抜けてその場に座り込み、呆然と……ただ、呆然と冷たくなっていく真奈美を見つめた。

 真奈美の顔が、突然笑った様に見えた。

「これでお前は、彼女の側に居れない」

 凶悪な顔で、勝ち誇った様に嘲笑する真奈美の声が聞こえた気がした。

 急に怖くなった。震える身体を叱咤して、彼は立ち上がり、何も考えずにその場から逃げた。

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