園芸委員、それは僕と君の思い出



その翌週。金曜日。初めての水やり当番。


いつもより二十分ぐらい早く家を出る。

朝ご飯を食べていると珍しいね、と母さんが言った。あんたいっつも朝ギリギリでしょう。と続ける。でも、それは先生のいない無法状態の教室に一分でも長くいたくないからで、決して僕が朝早くいけないというわけではない。

今日は水やりの当番があるんだ、というと、ほら、また、理由があった、やっぱり、と言われた。どういう意味だ、と聞き返すと、あんたは普通、自分が無駄だと思ったことを急に進んでやろうとか言いださない。そうするには、絶対何かしらの理由があるだろう、と言った。悔しいけど、たぶんその通りなので、黙ったままご飯を食べて家を出てった。行ってらっしゃい、と声をかけられたけど、腹が立ったので無視して家を出てきた。

でも、きっと今日家に帰ったら母さんは何事もなかったかのようにお帰り、というだろう。きっとその頃には僕の機嫌も普通に戻っているだろうし、母さんも多分そうなるだろうと思っているから、帰ってきたら挨拶をするのだろう。きっと朝の事なんか忘れたふりをする。お互いにそれが気持ちよく生活を送るためのコツだとわかっているのだ。別に朝一回ぐらい挨拶を返さなくてもたいしたことないと分かっていたから、挨拶を返さなかったんだ、ともいえるかもしれない。だからこれに、さしたる意味はない。ただ、そういうことがあった、というだけのはなし。




学校に着くと草野結花はもう来ていた。僕も玄関に置かれた水色のじょうろに水をたっぷり入れて持っていく。最初は軽かったじょうろは水を入れると並みならぬ重さになり、片手では持ちきれないほどになった。


「っつ。」


それを見た結花が言う。

「わぁ。重そう。あきひとくん、それたっぷり入れてきたの。」


「う、うん。」

そう答えると、結花は

「水、そんなにいらないよ。まだ、春先だし。そんなに花壇広くないし。」


「っう。」

確かに花壇はそんなに広くない。もう結花も半分ほど水をやり終わらせたので、今持っている量の半分くらいでいいのではないか。



結局、水は持ってきた量の半分ほどを花壇にまき、残りは近くの側溝に捨てた。水がすこし跳ねてズボンに小さな水玉模様を少し作った。ああ、ぬれちゃった、と思ったけど、すぐに乾くだろうし、そのまま放っておいた。事実、教室に帰って普段通りに生活していたらいつの間にか跡形もなく乾ききっていた。






その次の次の週。金曜日。

あげる水の量やら、やり方やらを何とか覚えてきて、仕事が進むようになってきた。


休み時間、


「ねぇ、」


と、結花に声をかけられた。休み時間の教室はとてもざわざわとしていてうるさかったから、結花は大きな声で大きく口を開けて僕にしゃべりかけていた。


「どうしたの」


顔を向けて結花のようにそういうと、


「今日の放課後、委員会のしごとがはいったらしいんだけど、」


と返された。


「この前話し合った花の種を植えるから、帰りの短学活が終わったら、運動着でここ集合だって。」


「そんなの、あるんだ。」


まじですかー。そんな面倒くさいのあるんですかー。そりゃぁ、園芸やりたがる人間が少ないわけだ。基本、放課後に活動のある委員会はない。『短学活の終わったクラスの児童はすぐに下校するように』と普段から言われている。


「あるよー。なかったらどうすると思ってたの。」


「いやー。」


考えていませんでした、なんて答えられない。


「あきひとくん、その顔ゼッタイ考えてなかったでしょ。」


図星。


「ズボシって顔してる」


図星。


「それもズボシって顔してる。」


そう言って結花が笑う。


失礼な奴め。欠如も言えてなかったけど図星も言えてないじゃんか。滑舌悪すぎ。

ムッとした表情でじろりとにらむと、


「わぁー、あきひとくんがきれたー。」


とさらに笑いながら言われた。キレてなんかいませんよーだ。




その日の放課後。

昇降口の脇、花壇の前。


「結花、バイバイ。」


僕の脇に立つ結花に向かってランドセルを背負ったクラスメイト達が口々に挨拶する。脇にいる僕を完全に無視して。

まあでも仕方ない。僕は彼女らとしゃべったことはないに等しいし、僕だって急にあいさつされたらちょっと困る。


でも、とてつもなく居心地が悪い。五月に入ったばかり寒空の下、学校指定の赤の格好悪いジャージを着て軍手をつけて突っ立っている自分が何だか情けなかった。

他のクラスの園芸委員の子たちはまだ来ていなかった。うちのクラスだけ短学活が終わるのが早かったようだ。ほかに人がいたら居心地の悪さも半減するのに、僕と結花だけだと何をどうすればいいのかわからない。早くこの雰囲気から解放されたい。


そう祈っていたら、いつの間にかほかのクラスも短学活が終わったらしい。ちらほらと僕たち以外のクラスの園芸委員の子たちが集まってきた。僕はその子たちの中に埋もれる。園芸委員の子たちは僕みたいに押し付けられたような子がほとんどで(結花みたいなやつは本当に例外中の例外だ)、僕がその中にポツンと混じっていても何ら不思議ではなかった。昇降口を通る児童の数が随分と減ってきたところで、園芸委員担当の四年一組の教師、松崎芳美まつざきよしみが来た。



松崎芳美はもうすぐ定年間近のおばさん先生だ。小柄で動きはおっとりしていて、四年生のガキには少々なめられている。色素の薄くてガサガサしたおばさん髪。眼鏡は丸眼鏡。肌はしわしわ。


「今日はひまわりと朝顔の種をまきます。チューリップの植えられていたところにひまわりを植えてください。空いているところはコスモスの種をまく予定なので空けておいてください。朝顔はプランターに植えて校舎の窓の脇に置きます。緑のカーテンを作る予定なので。」


「はぁい。」


二十名弱の子供が気のない返事で答えた。まぁ、押し付けられてなった委員だからやる気のあるやつはそう相違ないだろうな。(ただし例外的な草野結花はやる気満々だった。)ぞろぞろと皆が立ち上がるのに合わせて僕も立ち上がる。でも、そこからが大変だった。

まず最初に今植えられているチューリップ及び伸び放題だった雑草を抜いた。それから倉庫から肥料を取ってきて花壇に入れた。そこからの種まき。それだけでもへとへとだったところに朝顔の準備。倉庫に再び肥料と、それからプランターと十個ほど持ってきた。そこに土を入れ、種をまく。さらにそれを校舎の脇に並べる。


「あー、あきひとくん。そのプランター運ぼう。そっちもって。」


結花がそう言う。


「うん、わかった。」


プランターの片方の端を結花が持つ。もう片方を僕がつかんで持ち上げる。それをそのまま校舎の脇に置く。


「よいしょ。」

結花がそう言ってプランターを降ろす。五月に入ったばかりの寒空、って最初思ったけど動き回ってせいか汗ばんでいる。


「もうそろそろ、終わりかな。」


結花が辺りを見回して言う。手の甲で汗をぬぐった。五月の心地よい風が耳の脇を通り抜ける。だからと言って、特に何かあるわけじゃないけど。

しばらくそのまま、二人で黙って涼んでいると

「終わった人は着替えてから下校してください。」

と松崎芳美が言った。片付けをしている何人かを残して皆がぞろぞろと昇降口に向かう。今日の作業は、終わりらしい。


面倒くさいことからようやく解放されたという思いとともに、かすかな満足感がすることはあまり認めたくなかった。



「あきひとくん?」


園芸の仕事の後の下校中。自宅近くの川沿いの道。語尾の上がった疑問形の声がした。男子のモノではありえない明るい響きを持ったその声に、僕は驚きを感じつつ振り返る。


「ああ、草野さん。」


十メートルくらい後ろに結花がいた。ぱたぱたと走ってきて、僕の脇に当然のような顔をして並ぶ。


「いえ、こっちだったんだ。意外に近いんだね。」


「あぁ。草野さんも家ここらへんだったなんて、知らなかったよ。」


僕は普通にそう答えた。


「――結花って呼んでもらっちゃ、だめ?」


「え?」

一瞬、何を言われているのかわからなかった。


「あー、いや、その、私、仲のいい人に名字で呼ばれたこと、ないんだ。その、慣れないの。だから、名前で呼んでくれない?」


そのまま、こまったような顔をして、僕の顔をのぞき込む。


「ごめん。迷惑?」


「あ、いや、その、」


改めて言うけど、僕は、こういう風に人に接せられるのにとことん慣れてない。ほかの人としゃべったことすらほとんどないのに、名前で呼べとはどういうことだ。未知の行動に僕の頭は軽くパニック状態に陥った。


「う、ううん。わかったよ。うん。結花さん。うん、よろしく。」


何言ってるんだろう。僕。


「『さん』か。」


残念そうな顔をする結花。


「あああ、ごめん。えーじゃー、結花ちゃん。うん、それで。はい、よろしくお願いします。」


なんだよ、『結花ちゃん』って。普通にキモくないか。

そう思うと、案の定、


「キモい。」


とぼそっと言われた。


「えええ。あー、じゃ、っじゃあ、結花。――で、いいの?」


慌ててそういうと、


「あ、うん。お願い。ありがとう」

と満面の笑みで言われた。


なんだよこいつ。


「今、こいつ変な奴だなぁ、って思ってるでしょ。」


結花が言った。


うん、思ってます。すっごいそう思ってます。

答えないでいると、


「ねぇ、そうでしょ。顔が死んでるもん。」


あ、はい。そうですか。


「すいませんね。顔が死んでて。」


「すいませんねじゃないよ。」


「じゃ、何」


「うーん。顔が死んでてごめんなさい。これからはもうしません。」


「何それ?」


やっぱり、こいつ変な奴だ。そう思って、笑った。


そのあと、結花が急に堤防の道を下り始めた。堤防は周りの土地と比べて一メートルくらい高いのだけど、その雑草だらけの斜面を急に下り始めたのだ。


「じゃぁね、バイバイ。」

斜面を下りきるとこちらを振り返って結花が言った。それで僕は彼女の行動をようやく理解した。

彼女の家はこの付近なのだ。


「バイバイ。草野さ――じゃない、結花。」


そういうと結花はにっこりと笑って僕に背を向けた。そしてそのまま僕の目の前の家――みごとの桜の木の植えられた家の中に入っていった。



僕はそれを見て、再び歩き出した。



なんか変な一日だったと、僕は首をひねりながら思った。


でもきっとそれは、草野結花にとってはどうってことない普通の日なのだろうと僕は考えた。所詮、あの人気者の草野結花にとっては、こんなことどうってことないのだろうと。

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