An Accident in the Rainy Season 第2話

 二人の乗車した観覧車が、ゆっくり動き出した。


 ゴンドラの中は、夜景を楽しめるよう照明が落としてあり、その暗さが穏やかな空気を作っている。


「夜の観覧車ってのも、雰囲気あっていいもんだよな。最近はとにかく忙しいし、こんな風に楽しむのもすっかり忘れてたけどな。

……って、岡崎?」


「……嘘だ」

「嘘って……何が」


「……観覧車って……こんなに怖かったか……?」


「……は?

お前、高所恐怖症か?遠足の時は、観覧車平気だったんだろ?」

「……いや、高所恐怖症ではないはずだ。

……それに、小学生の時は、何でもなかったんだが……

こんなにぐわぐわ揺れる不安定な場所に閉じ込められて、じっくりと高いところに吊るされるなんて……よく考えれば、ただの拷問じゃないか……

子供の頃は、多分その辺の感覚がまだ鈍かったんだ」


 そういえば、今日は少し風があるせいか、ゴンドラはゆらゆらと揺れている。

 いつもの冷静さを失った岡崎の様子に、吉野は微妙に不安になる。

「……大丈夫か」

「いや、大丈夫じゃない。……しかも、こんなに揺れながらどんどん高度が増していくなんて……無理だ。

……吉野、降ろしてくれ」

 いつになく青ざめ、岡崎は苦しげに吉野に訴える。


「ここで俺に言われてもな……。

とりあえず、落ち着け。

まあ、10分かそこらで降りられるんだし。お前、海外出張で飛行機乗りまくってんだろ?それに比べれば、全然何ということもないじゃんか……大丈夫だから。な?」


「……そうだな……

ここは何とか堪える以外にないな……」

 微かに震える手を膝でギュッと握り、岡崎はじっと下を向く。


『全く、リナのやつ……』

 内心の呟きを押し込め、吉野は努めて明るく話しかける。

「なあ岡崎、ほら夜景見えてきたぞ!すげー綺麗だ!マジでロマンチックだなあ〜!」

「…………話しかけるな」

「——だよな。悪い」



『間もなく、最高地点です』

「お、最高地点だ!後はひたすら地面に近づくだけだから安心しろ!

とりあえず、この辺で夜景撮っときゃいいよな」


 そう言いながら吉野がスマホを構えようとしたとき、観覧車の動きがゆっくりと止まった。



「……ん??」



『——観覧車乗車中のお客様へ、お知らせいたします。

ただいま、モーターに不具合が発生しましたため、緊急停止しております。

復旧作業を行いますので、今しばらくそのままおかけになってお待ちください——』



 事務的なアナウンスが流れ——

 ピタリと動かない観覧車のゴンドラが、風に揺れた。



「マジか……?」



「……おい……」

 血の気のない顔で必死に耐えていた岡崎は、その事実に一層蒼白になり、絶望的な表情を浮かべる。

「こんな最高地点で……どれだけ宙吊りにするつもりだ!?

——無理だ。これ以上は絶対に無理だ!!

とにかく降ろせ!今すぐ降ろしてくれ!!!」


 堪えに堪えていた糸がプツリと切れたように立ち上がり、岡崎は窓に拳を当てて激しく取り乱した。



 吉野はその肩を必死に掴む。


「岡崎——!

おい岡崎、聞け!!

——絶対に、大丈夫だから」



 肩を掴む指に力を込めて岡崎の瞳を正面から捉え、低くはっきりと伝える。


「座って……こっちを向け。

俺の腕をしっかり掴んでろ」


 岡崎は、乱れる視線で必死に吉野を見つめると、そのワイシャツの腕にぎゅっとしがみつく。

 吉野は、岡崎の震える背に腕を回し、掌でゆっくりとさする。


「このまま、目を閉じて——静かに、大きく呼吸しろ」



 言われた通りに瞳を閉じ、岡崎は大きく息を吸い込む。


 吉野の胸で温められた煙草の匂いが、不意に身体に流れ込んだ。


 ——慣れ親しんだ、安らぐ匂い。



 ただひたすらその匂いだけを追いかけ、深い呼吸を繰り返す。



 恐怖で固まった心が、すっと緩み出す。


 指の震えが、少しずつ治まっていく。



 岡崎は、思わず吉野の肩に額を押し付けた。

 

 ——ああ。

 ……ここなら、きっと大丈夫だ……。


 


「お前さ……そんなんじゃ、彼女や子供連れてきた時どうすんだよ?」


「——そんなことを考える余裕は、今の俺にはない」


「まあ、そうだな」

 そんないつも通りの岡崎の返事に、吉野は微かに笑った。




 少しずつ震えの鎮まる岡崎の華奢な身体が、自分の腕の中にある。

 肩に預けられた額が、ほのかに温かい。


 ——ずっと胸に溜まり続けていた吉野の思いが、ふと溢れそうになる。




 ……さっき言ったのは、嘘だ。


 本当は——

 彼女といるお前の姿なんか、想像したくない。


 俺は——

 お前の側のこの場所を、明け渡したくないんだ——誰にも。

 だから……リナのことも、お前に会わせたくなくて……居ても立ってもいられなかった。

 お前がいつか俺の横からいなくなるなんて、考えたくない。




 すぐ側にある岡崎の首筋から、淡い柑橘系の香りが漂う。

 整髪料だろうか。


 腕を回した背を、力一杯抱き寄せてしまいたい。

 そんな衝動を、ぐっと堪える。



 幼馴染で、親友なんだから……肩や背を抱くくらい、何でもないはずだ。


 ——そのはずなのに。



 いつからか——何気なく触れるなんて、できなくなった。


 触れてしまえば……自分の中の何かが、一気に溢れそうな気がして——。



 側にいたいのに。

 側に近づくほど、苦しい。



 これは——一体何だ?




「——だから。

連れてきたい彼女なんていない」


 不意に、岡崎が顔を伏せたままボソッと呟いた。


「……え?」


「俺の心に波を立てる女子がいないって、この前言ったただろ。

——心の中を、他人にそう簡単に乱されてたまるか」


「——そうやってずっと、心に誰も入れないつもりかよ?」



 岡崎は、再び黙り込む。



 ——吉野らしい言い方だ。

 いつも、さらりと平気な顔をして。


 俺が、何をしても、何を言っても——

 きっと他人事くらいにしか思わないんだろう、こいつは。


 俺が感じていることなんて、深く知ろうともしない。

 ——入り込んでこようとしない。



 心に誰も入れたくないなんて、言ってない。



 ……もしも。

 お前が、ここに来てくれたら。


 お前には、入ってきてほしい。

 俺をいつも安心させてくれる、お前だけに——もっと入り込んでほしい。


 そして、多分俺は——自分を全て、お前の腕に預けてしまいたいんだ。



 ——解っている。

 この気持ちが、俺のただの思い違いだと。


 ——思い違いでなければいけないのに。



 どうすればいい?




「——心に誰も入れないなんて、言ってない」


 苦し紛れに、自分の思いのほんの一部を、言葉にする。

 ——いつものように。



「そうなのか?

——じゃあ、誰ならいいんだ?

誰なら入れるんだよ……お前の心に」



 吉野の爪が、不意に岡崎の中のドアにかかった。



「ちゃんと答えろ」



 待っていた相手が、ドアを開けようとガタガタと揺さぶる。



 岡崎は、思わず顔を上げ——

 真剣な眼差しの吉野を見つめ、息を飲んだ。





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