Spring in Full Bloom

Spring in Full Bloom 第1話

「くそっ……なんで俺が、彼女の『運命の人』なんだ……!?」


 金曜の夜、いつものカクテルバー。

 苦悶の表情を浮かべ、岡崎はテーブルに置いた拳を固く握った。


「仕方ないだろ。リナの心臓のど真ん中にお前の矢が刺さっちゃったんだから。

よくあるじゃん、イラストでさ。キューピッドの矢がハートをぐさっと貫通してるやつ」

 吉野は、岡崎へかからないように顔を背けながら、煙草の煙をふうっと横へ吐き出した。

 岡崎は、恨めしそうに顔を上げて吉野をじろっと見る。

「俺は彼女に矢なんか放った覚えはないし、キューピッドに依頼した覚えもない!

そもそもお前のアホな行動がこういう事態を招いたんだからな……!」


「悪い。それはもうよくわかってる!

けど……こればっかりは……。お前とリナの間で起こった出来事だし」

「———」


 岡崎は再びがっくりと肩を落とす。

 吉野は複雑な表情のまま、その傍らでまた新しい煙草に火をつける。

 さっきから、この繰り返しだ。




 2週間ほど前。

 岡崎は、吉野経由でリナから熱い告白を受けていた。


 二人がこのカクテルバーで飲んでいる最中に、吉野の元彼女のリナから、吉野のスマホにメッセージが入ったのだ。

『岡崎さんと、もう一度会う機会を作って欲しいの。——とうとう、運命の人に巡り会えた気がする。私、今度こそ諦めないわ』


 ひと月ほど前に、吉野と別れるようリナを説得する目的で、岡崎はリナを食事に誘っていた。

 それが功を奏し、吉野とリナは円満に別れるに至ったのだが——その席で、岡崎はうっかりリナの心を射止めてしまったらしい。


「本人には全くその気がないのに、女子をうっかり射止めるとか……そういうの、いかにもお前っぽいよな。

逆に……お前さ、本気で誰か射止めようとしたことってあんのか?」


 吉野のそんな問いかけに、岡崎は酔いの回った目でぐっと睨み返す。

「俺の心に波を起こす女子が現れないんだ——仕方ないじゃないか」


 そう反論しながら、岡崎はふらつく脳で考える。



 ——心に届くような波を、女子から感じたことはない。


 ……だが……。


 心に波——

 それは最近……どこかで感じた。



 思っていたよりも、それはずっと大きな波で。

 俺も……それに手を伸ばそうとして。


 その波になら、身を任せてもいい。

 確かに——そう思ったんだ。



 あれは……




 その時——自分を心配そうに見つめる吉野と、視線が絡み合った。

 そこに何かを探すように、岡崎は吉野の瞳の奥を覗き込む。




 ……あれは……




「……岡崎?」



 ああ……そこに——




 ——待て……

 そこから先は……入っちゃだめだ!


 突然、心のどこかで鋭い警報音が鳴る。



 ——それは、お前の「親友」だ——。



「———」

 はっと我に返り、岡崎は慌てて吉野から目を逸らす。

 思わず、目の前にあったブランデーのグラスをぐっと一気に飲み干した。


「おい、お前……大丈夫か?」

 乱暴に酒を呷り、ますます壊れそうな岡崎の気配に、吉野は微妙に狼狽える。

「とにかく……俺は、彼女には応えられない。

どんなに請われても、拒否しなければならない」

 荒い音を立ててグラスを置き、独り言のように苦しげに岡崎は呟く。



 吉野は、そんな岡崎を黙って見つめた。


 生真面目なこいつは——彼女の想いを受け止めてやれないことが、どうにも苦しいのだろう。

 あるいは——

 絶対諦めたくない運命の人……そこまで思われている相手を拒み続ける自信が、持てないのかもしれない。



 ——リナは気は強いが、文句なしに美しい。それに、どこか男心をくすぐるかわいいところのある女だ。

 密かに彼女を狙っている男たちも、実際山ほどいるはずだ。



 そんな彼女が、本気でこいつを落としにかかったら——


 根負けして、陥落……なんて可能性も、あるんだろうか……?



 そしたら……

 こいつは、リナに持ってかれちゃうのか……?



「……岡崎」

「ん?」


「——今度は、俺が彼女に話すよ。

お前は、リナには寄り添えないって……だから、きっぱり諦めてくれって」


 さっきとは違うその思い詰めたような口調に、岡崎は少し驚いたように吉野を見た。


「——だが……」

 何か言おうとする岡崎を、吉野が遮る。

「俺、もう決めたから。

彼女は可哀想だけど……事実がそうなんだから、誰が伝えても一緒じゃないか」


「…………」

 岡崎は、どこか腑に落ちないような顔をして黙り込む。




 ……こいつを、これ以上リナに近づけたくない。

 絶対に。


 自分自身の身勝手さをどこかで感じながらも——頑として動かない自分の思いを、どうすることもできない。

 吉野は、苦い表情で煙草を灰皿に揉み消した。



✳︎



「おい、着いたぞ……ったくお前は!!」


 賃貸マンションの6階、吉野の部屋。

 なんとかここまで、ドロドロに泥酔した岡崎を運んできた。


 完全に正体をなくした幼馴染を、ベッドへどさりと寝かせる。



 ——飲みすぎた気持ちは、よくわかるけどな……。


 コンビニで買った炭酸水のペットボトルを呷って荒い息を収めつつ、吉野はぐったり横たわる岡崎を見つめた。


 ……っつうか、なんでいつもそんなにきちんとスーツ着てるんだよお前?


 きっちりとボタンを留めたワイシャツにネクタイを緩めもせず、岡崎は苦しげな息を吐く。




 ……こういう時、ほっといていいのか?


 脳内で、もう一人の自分がぼそりと呟いた。



 苦しそうだぞ……介抱してやらないのか?

 幼馴染だろ。やってやれよ。



 ああ。その方がいいのはよくわかってる。




 ……だが。

 —————だがっ!!




「……けほっ」


 その時、岡崎が辛そうに小さく咳き込んだ。

 このままじゃ……さぞ苦しいだろう。



「……ああーー!!もおぉーっっ!!!」

 吉野は、ぐしゃぐしゃと自分の頭を掻きむしる。


 そして……恐る恐るベッドに近寄り、岡崎の上に身を屈めると、震える指でネクタイの結び目を緩め始めた。



 自分的には、今のこの状況下で最も避けたい作業だが……こうなれば、もう仕方がない。

 ワイシャツのボタンも外し、喉元を開く。


 その拍子に、白く温かい首筋が、微かに指に触れた。

 柔らかい肌の感触に、思わず顔がカッと熱くなる。


「ううっ……!」

 無意識に吉野は妙な唸りを上げる。


 ……マジで勘弁してくれ。殺す気か!?

 意味不明な叫びを脳内で上げても、ただ虚しく響くばかりだ。


 変な汗をかきつつ、動くたびに突っ張る両手首のボタンも外し、窮屈に締めたベルトのバックルを緩めにかかった。

 そのカチャカチャという金属音に、なぜか半端でない罪悪感が纏わりつく。

 酔っ払いの介抱としてごく当然の行動のはずが……してはいけないことをしている気がしてならない。



 ——仕方ないんだからな。

 だって、こんな苦しそうで。こいつのために仕方なくやってんだぞ俺は。


 そう思いつつも、心臓は胸を突き破る勢いで波打つ。

 どんなかわいい女子をここへ連れて来ても、こんなことはなかったのに。

 そう焦れば焦るほど——触れた肌の感触が、指から離れない。

 その首も、腰も……思ったよりずっと細く、しなやかで……



「んん……」

 苦しげに身体を動かそうとする岡崎の眼鏡が、鼻からずれそうだ。


「——仕方ないんだからな!」

 声に出して必死に弁解しつつ、そっと眼鏡を外す。


 初めて見る、何もつけていない岡崎の寝顔を、吉野は思わずまじまじと見下ろす。


 フレームに邪魔されてよく見えなかった、美しい形の繊細な眉が現れた。

 眉の色と髪の色が、こんなにも柔らかそうな栗色だったことに、吉野は初めて気づいた。


 ——華奢に整った鼻筋と、長く伏せられた睫毛。

 酔いのせいで、ほんのりと桃色に染まった目元。

 苦しげに僅かに開いた、艶やかな唇。


 緩めたネクタイとワイシャツの胸元から覗く、形の良い鎖骨——


 鋭く硬質な普段の彼からは程遠いその無防備な姿は、どこか少年のような瑞々しさを漂わせる。  



 ——こんな、こいつが。

 こんなにも柔らかく滴るような、美しい幼馴染が。

 正体なく酔い潰れ、自分の下で眠っている。





  ……ヤバい……。



 これ——チャンスじゃないのか?


 自己内最悪の悪魔がとうとう起動する。




 は?……チャンス??

 しらばっくれんなよ……お前、ずっと我慢してんだろ、コイツに。

 はあ?我慢?意味わかんねー。ってか、こいつ親友だぞ?

 泥酔してるのをいいことに、そんなこと考えてんのか俺?ほんと最低だな……


 もったいねーの、こんなチャンスふいにすんのか。

 唇、めちゃくちゃ柔らかそうだぞ?



 もしも今、お前の唇でそれを塞いだら……

 きっとコイツは、ベリーのチョコレート食べた時みたいな反応するんだろうなあ……

 ——眉を歪め、微かな声を漏らして。





 ……その先は———





「うああぁぁーーーっっ!!!何考えてんだよ俺っ!?やめろバカっっ!!!」

 吉野はガバッと身を起こすと、頭を抱えて叫んだ。

 ベッドから飛び退き、まるでガス室から逃れ出るかのように部屋を飛び出すと、そのままシャワールームへ駆け込む。

 乱暴に服を脱ぐと、シャワーの栓を全開にし、頭からざっと湯を浴びた。


「くそっ、こんなのマジであり得ねーしっっ!!悪酔いし過ぎだ!!」


 滝のような湯の飛沫に打たれながら、今目の前に展開した妄想を必死に洗い流そうとする、なんとも気の毒な吉野である。






     

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