White Day 第2話

『話があるの。今週金曜に、会いたい』

 リナからそんなメッセージが吉野に届いたのは、彼女と岡崎が会った翌週の月曜だった。


 リナは——この土日で、自分と別れる決心をしたに違いない。

 岡崎の説得は、どうやらリナに効果覿面だったようだ。

 どうせ、またブツブツうるさい不満でも言いつつ、仕方ないから別れる——とかいうんだろう。

 そう思っていた吉野は、その金曜、とんでもなく驚かされた。



 会社からほど近いカクテルバーに、リナはいつになく真剣な顔で現れた。

「ごめんなさい。ちょっと遅くなって」

「——いや、別にいいよ」

 どんな不機嫌な顔で来るかと思えば——仏頂面どころか、これまでのベタベタと甘えた様子すら、どこにも感じられない。


 いつも最初にオーダーするモスコミュールを静かに一口飲むと、リナは吉野を真っ直ぐに見つめた。

 そして、しっかりとした口調で呟く。

「順——

今まで困らせて、ごめんなさい。

私たち、これで本当に、別れましょう」


 これまでとは全く違う彼女の佇まいに、吉野は仰天した。


 岡崎のやつ——

 リナに、どんな魔法をかけたんだ?


「……うん、わかった。

なら、これで本当に……」

「ええ。……今まで、ありがとう。わがままな女で、うんざりしたでしょ?」

そう言ってふわりと微笑むリナは、文句なく美しい。


「……お前なら、俺なんかより上等な彼氏がすぐ見つかる」

「だといいけど」



 他にはもう話すこともなく——二人は、黙ってカクテルを傾けた。




 リナと別れて夜道を歩きながら、吉野は夜空を仰ぐ。

 淡い春の匂いのする空気を吸い込んだ。


 ——あいつに、ちゃんと礼をしなければ。

 あのリナさえも見違えるほどに変身させてしまった、俺の最高の幼馴染に。




✳︎




 リナと別れて、一週間後の金曜。

 吉野と岡崎は、行きつけのカクテルバーでいつにない開放感を味わっていた。

 計画は不備なく遂行された。リナに不快な思いをさせることもなく、すべて丸く収まったわけだ。ここしばらく続いた重圧から解放され、二人の酒も進む。



「岡崎、本当にありがとな。——嬉しかった。マジで」

 吉野は、岡崎に心からの感謝を伝える。

「とりあえず、計画通りの結果が出てよかった。何でも結果を出すのはいいものだ」

 岡崎は、そう言って浅く微笑むとウィスキーのロックをカラリと呷った。



「——それで……」

 吉野は、脇に置いていた紙袋から、シンプルな紙の包みを取り出して岡崎に渡す。


「これは、俺の気持ちだ。——ホワイトデーは、だいぶ過ぎたけどな」

「ん……見ていいか?」


 包みの中からいくつも出てきたのは、コロンと丸い……しかし少し歪なピンクの物体。


「……お前、これ……マカロンだろ」

「……毎晩必死に練習して焼いた。これが自己ベストなやつだ」

 吉野は、初めて見るような恥ずかしげな顔で呟いた。


「……マジか……」

 岡崎は、その不揃いなマカロンをじっと見つめてから、一つを口に運ぶ。

 サクッとした表面と、しっとりとした生地の内側。ちゃんとできている。

 ほんのりとしたラズベリー風味の白いクリームと、優しい味わいの生地が、口中で溶け合う。


「……酸っぱくないな」

「ベルギーチョコのようにはいかない」

「美味い」

 そう呟くと、岡崎は少年のように無邪気な笑顔を輝かせた。



 こいつの美味そうな顔は、これが最高だ——

 吉野は、はっきりとそう思う。



 嬉しそうにマカロンを頬張る岡崎に、吉野はもう一つ、シックなラッピングを施した箱を差し出した。


「——これは?」

「見てみろよ」


 箱の中に収められていたのは、シルバーのベルトに白い文字盤の、シンプルで美しい腕時計だ。


「——これ……」

「ウチの最新の商品だ。

——お前に似合うと思うんだが……填めてみてくれないか」


 岡崎は、黙って吉野に従う。

 華奢な美しい指が、抑えた輝きを放つ時計を左手首に填める。


「思った通りだ——よく似合う」



 岡崎は、静かにその文字盤を見つめる。


「……受け取ってもらえるか?」


「——もちろんだ。……嬉しいよ」



 そして……僅かな戸惑いの後に、続けた。


「——これなら、海外でも重宝しそうだな?」



 やっと言えたとでもいうように、岡崎は吉野へはにかむように微笑んだ。



 ……それって……

 ——あの約束のことだよな?




 シルバーのベルトの填まった岡崎の手首は、一層白くしなやかに吉野の目に映る。



 ——もしも、今。

 その手首に触れたら……こいつは、どんな顔をするだろう?


 ——その先は……どうなるだろう……




「岡崎——」



 返事の代わりに——

 岡崎は、いつになく静かな瞳で、吉野を見る。





 吉野の指が、岡崎へ動こうとした。



 その瞬間……

 二人の間にあった吉野のスマホがいきなり鳴り響いた。



「———!!」

 二人一緒にギョッと驚き、吉野が腹立たしげにスマホをひっつかむ。

 そして、画面を確認してさらにギョッとした顔になった。


「——リナだ」

「……出てみろよ。……気になるから」


「——リナ?」

『順、ごめんね。どうしてもお願いしたいことがあって、電話しちゃった。

あのね——岡崎さんと、もう一度、会う機会を作ってもらえないかと思って……』


「……何でだよ」


『実は……

この前会った時から……彼のことが、どうしても忘れられなくなっちゃったの……。

——とうとう、運命の人に巡り会えた気がする。私、今度こそ諦めないわ』


「……ああ。そう。……悪い。いま忙しいから」

 適当にそんなことを言って通話を終え、吉野は呆然とスマホを置く。



「——リナが……お前を運命の人だって言ってるぞ」


 吉野のその言葉に、岡崎は一瞬にして蒼白になり、これまでにない狼狽ぶりを見せる。

「……はあ!?

それは困る。絶対に困る!!

ああ、全く……女ってのは、人の話を最後までちゃんと聞かないから……!」


「それ、こっちによこせ」

 吉野は、自分の作ったマカロンを岡崎から奪うと、やけになったようにがっつき始めた。

 岡崎も、仕返しとばかりに憮然とした表情で吉野の煙草を掴むと、火をつけて黙々とふかし始める。

「ぐうぅ、甘いっ」

「……ゲホ、くそっ」



『……ああ。あと少しだったのに———————!!!!』


 心の中で、お互いの叫びがシンクロしたことは、二人とも知るはずもない。





 そんなこんなで、カクテルバーの夜は更ける。


 二人になりたくてなれない、二人の苛立ちを包みながら。






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