第4話
「……自転車?」
「うん。俺も悪いんだよ。考え事してぼーっと歩いてたから。角を曲がってくる自転車に気が付かなくて」
「どういうこと?」
「何が?」
「だって、雪枝ちゃんが、あんたが交通事故に遭ったって大慌てで家に来て」
「ああ、お母さんがユキに連絡しちゃったんだよな。心配するからいいって言ったのに。そしたらユキがあんぬには自分が伝えるからって……ユキのやつ、お前に何て言ったんだ? からかわれたんじゃないか? あいつ、女優だからなあ」
あ。
不意に雪枝ちゃんの、ごめんねといたずらっぽく微笑む顔が脳裏に浮かんだ。
やられた。
「ぶ、無事ならいいよ。じゃあ、私、帰るね」
慌てて踵を返そうとする私の腕を智久は捕まえた。
「待てよ」
「何、放して」
「嫌だ」
ぐいと強く引っ張られて、私はあっさりと智久の傍に引き寄せられる。
「ちょ、ちょっと」
「座れよ」
いつもの明るい調子で智久は言うと、自分の座っている長方形の椅子の半分を私に指さす。
「折角来たんだ、ピアノ、一緒に弾こうぜ。昔みたいに」
「は? どうして」
「どうしてって、理由がいる?」
言われて私は言葉に詰まる。
確かに、理由なんていらない。ピアノを弾くのは、ピアノが弾きたいから。それだけだ。
それでも、それが判っていても。
気が付くと、私は自分の手を見ていた。小さくて短い自分の不細工な指を。
「……いいよ、私、智久の邪魔したくないから」
ぼそりと私は呟く。
幼い頃は無邪気にピアノを弾いていた。指が鍵盤に届くとか届かないとか、そんなこと関係がなかったあの頃は、本当に楽しかった。
年齢が上がり、曲の難易度も上がるにつれて、私は現実を知ったのだ。
智久に弾ける曲が私には弾けない。
あの頃みたいに、智久と対等にピアノが弾けなくなった私は、彼の隣にはもう座れない。
「座れよ」
私の心を読んだように、智久がさらりと言った。驚いて顔を上げる私に、軽やかに微笑む。
「何でお前が俺の邪魔になるんだよ」
「……だって、私、もう鍵盤に指が届かない。何とか届いても上手く動かないんだよ。だから智久と一緒に弾くなんてできない」
「アホ」
また強引に腕を引っ張って、私を椅子の上に落とすと智久は譜面に顔を向けて呟くように言った。
「お前の指が届かない音があるなら、その音は俺が弾いてやるから心配すんな」
「え?」
突然、智久はポーンとラの音を叩くように鳴らした。
「お前の足らない音は俺が弾いてやるって言ってんだよ。だから」
今度はドの音をポーンと鳴らす。
「俺の足らない音はお前が弾いてくれ」
「……智久?」
「俺はお前の弾くピアノの音色が好きだよ。十五センチしか指が伸びないとか、だから何だよ。それがピアノを弾かない理由になんのかよ。俺と一緒にピアノを弾いてくれない理由になんのかよ。俺は単純だから、そういう繊細なところは判んねえけど、でも」
「でも?」
私は至近距離から、智久の朱に染まった顔をみつめた。一呼吸、おいて智久もゆっくりと私を見る。
真っ直ぐに目が合った。
こうしてこんなに近くから彼とみつめあうのは何年振りだろう。相変わらず、ピアノを前にした智久の瞳は青く澄んで美しかった。
「でも……俺がお前のことを好きだってのはずっと変わらない事実で……だから……ああもう、だから好きなんだよ! あんぬ。お前のことがずっと前から好きなんだよ!」
「……ゆ、雪枝ちゃんのことは」
「あいつは俺の妹のような存在でそして大事な幼馴染で親友。ユキも俺がお前のことが好きだっていうのはずっと前から知ってるよ」
「……そう、なの?」
胸が高鳴る。手が震える。
多分、私は喜んでいる。私も智久がずっと前から好きだったから。
ずっと目を背け、自分をごまかしてきたその事実に今、やっと向き合うことが出来た。
「一緒に、弾いてくれるかな、ピアノ」
智久が静かに言った。
「一緒に弾いて欲しいんだ、これからもずっと」
私は首を横に振る。
「無理だよ」
「……それって、つまり、俺はふられたってことなのかな?」
「違う」
私は必死になって言った。
「嬉しすぎて手が震えて弾けないの」
一瞬の間の後、智久は震える私の手を優しく握ってくれた。
「好きだよ、あんぬ。……やっと言えた」
吐息のようなその言葉に、私はただ、頷いていた。
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