第3話
「うるさい」
低く一言そう言うと、私はその場を走り去った。
逃げたのだ。
智久からもピアノからも。
悔しい。
自分自身の弱さが、なにより悔しかった。
夕飯が終わり、そろそろお風呂に入ろうかというタイミングの時に玄関のインターフォンが鳴った。丁度、廊下を歩いていた私が対応する。
「はい、どちらさまですか?」
『あんぬちゃん!』
インターフォンの受話器から聞こえてきたのは、切羽詰った雪枝ちゃんの声だった。
『トモくんが、大変なの!』
「え? どうしたの? ああ、いいや。ちょっと待って。今、ドア開けるから」
尋常ではない雪枝ちゃんの様子に私は慌てて鍵を外すとドアを開けた。その途端、倒れ込むように入ってきた雪枝ちゃんの体を抱きとめる。
「ゆ、雪枝ちゃん?」
「トモくんが、トモくんが……!」
「智久が何なの? 何があったの?」
泣きじゃくる雪枝ちゃんの背中を慰めるように撫でながら私は彼女の次の言葉を促した。嫌な予感に体が震える。
「雪枝ちゃん、答えて!」
「ト、トモくんが交通事故に……!」
「え?」
交通事故?
その言葉に血の気が引いた。
智久が事故に遭った?
呆然としてしまった私に、雪枝ちゃんは続ける。
「今日、学校の帰りに……トモくん、考え事しながら歩いていて前方不注意で……」
考え事って。
つい数時間前、智久に冷たい態度を取って別れてきたことを思いだす。
もし、私のことを考えながらぼんやり歩いていて、それで、交通事故に遭ったのだとしたら……。
私にせいだ。
崩れそうになる足に必死で力を入れて、私は雪枝ちゃんに言葉を重ねた。
「そ、それで智久は無事なの? 怪我は? 怪我したの?」
「う、うん」
苦しそうに雪枝ちゃんは頷く。
「右手を……骨折したって」
「右手」
目の前が暗くなった。
ピアニスト志望の智久が手を怪我した? そんな……!
「どこ、今、智久はどこにいるの? どこの病院?」
「違う。家に帰ったって」
「は? 骨折したのに?」
「本当はだめなんだよ。なのに、トモくん、ピアノを弾かなきゃ、受験前だから練習しなきゃって、強引に家に」
最後まで聞いていなかった。私はサンダルを足につっかけると、そのまま、なりふり構わず外に飛び出していた。
「あのバカ!」
思わず、声に出して叫ぶ。
何が受験よ! 何が練習よ! 手を骨折しているのにピアノなんか弾けるわけがない! 無理して弾いてもっと怪我がひどくなって、ピアノが一生、弾けなくなったらどうすんのよ!
智久の家は私の家から歩いて五分の距離。それを二分で走り切り、息を切らして彼の家にたどり着いた私を智久のお母さんは驚いた顔で出迎えた。
「あら、あんぬちゃん。そんなに慌てて……」
「と、智久くんは……」
「え? ああ、智久ならピアノの部屋に」
「ピアノ、弾いているんですか? 怪我してるのに?」
「そうなのよ」
困った顔で智久のお母さんは言った。
「安静にしてなさいって言ったんだけど、聞かなくて。あんぬちゃん、言ってくれない? あの子、あんぬちゃんの言うことなら聞くと思うから」
「お邪魔します!」
言うや、お行儀が悪いことは承知の上で私はサンダルを脱ぎ捨てると、勝手知ったる他人の家だ、ずかずかと家の中に入って行った。
ピアノの部屋というのは、一階の、通りに面した大きな窓がある部屋のこと。そこにはグランドピアノが置いてあり、壁際の棚にはたくさんの譜面が並んでいる。幼い頃は毎日のように通い、入り浸った部屋。その懐かしい部屋のドアをノックもなしに私はいきなり押し開いた。
「智久、あんた、何してんのよ!」
怒声と共に部屋に踏み込んだ私は、ピアノの前に座ってのんびり構えている智久に詰め寄った。
「ピアノなんか弾いてる場合じゃないでしょ!」
「よう、あんぬ。うちに来るの、久しぶりだな」
「そんなことどうでもいいよ!」
「何、怒ってんの?」
あっけらかんと笑う智久に、私はあきれはてる。
「何って……あんた、怪我は? 交通事故に遭ったって」
「あ? ああ、うん。右手をちょっと」
そう言って智久は右手の袖をまくりあげた。肘あたりが紫色に腫れてはいるが、それほど深刻な怪我ではなさそうに見える。
「湿布してたんだけど、ピアノ弾くのに邪魔ではがしちゃったよ」
「湿布?」
さすがにこうなると、何かが違うことに気が付く。拍子抜けしながらも聞いてみる。
「これって……骨折してんの?」
「は? 骨折? 何言ってんの? ただの打撲だよ。二、三日で腫れは引くってよ」
「は?」
「は? って何だよ」
「だって交通事故って。病院には行ったんだよね?」
「行ったよ。で、湿布貰った」
それから少しバツが悪そうな顔になる。
「交通事故っていえば交通事故なんだけど、相手は自転車に乗った小学生だからな、騒ぐことないんだよ。向こうの親まで駆けつけてきて平謝りなんだから、もう、困っちゃってさ。たいした怪我でもないのに」
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