第2話

「雪枝ちゃん、それじゃあ、私、急ぐから」

 ふたりのお邪魔にならないようにと、そそくさと鞄を持って、教室を出ようとする私に雪枝ちゃんはきょとんとする。

「え? あれ。今日、ピアノ教室だっけ? そうなの?」

 と、最後の問いかけは智久に言う。

 私と智久は同じピアノ教室で、同じ先生に習っている。幼い頃は一緒に教室に通っていたりしたものだから、その惰性というか、不要な先生の気遣いというか、智久と私は今もレッスン日が同じなのだ。私は慌てて言った。

「そうじゃなくて違う用事。じゃあね」

 智久の顔をあえて見ないで、私は横をすり抜ける。ふわりとミントの匂いがした。多分、彼が使っているシャンプーの匂い。昔から彼に近づくといつもこの匂いがした。

 とくんと胸が鳴る。

 ……嫌いな匂い。

 私は思わず、息を止めて小走りにその場を離れた。


 私がピアノを始めたきっかけは、高橋智久だった。

 彼のお母さんは結婚を機に退職をしたけれど、元は中学校の音楽教師だった。ピアノが得意なお母さんの影響で智久は五歳からピアノを習っていた。

 彼の家の前を通るたびにいつも柔らかなピアノの音色が聴こえてきて、ピアノがある一階の部屋の大きな窓から、レースのカーテン越しに、お母さんの指導を受けながら智久がピアノを弾いている姿をよく見かけた。

 その時の智久の横顔は印象的だった。

 いつもふざけたことばかり言って私や雪枝ちゃんを笑わせている彼とはまるで別人だったのだ。

 ピアノに向き合うその横顔は、凛として涼やかで、青く透明な瞳は、彼の弾くピアノの音色と同じくらい美しかった。


 ピアノが弾きたい。

 そう思ったのは、多分、彼と同じものが見たかったから。


 小学校三年生の時、思い切って両親にピアノが習いたいと頼み込んだ。プロを目指すには遅いスタートだと思うけど、なかなかピアノのことを言い出せなかったのだ。

 けれど、思い切って頼んでみると、母親は「あら、いいわね」とあっさりと承諾してくれ、私は念願叶って智久と同じピアノ教室に通えることとなった。

 アップライトのピアノも買って貰えた。さすがに高橋家にあるようなグランドピアノはおねだりできなかったけれど。

 私がグランドピアノに憧れていると知った智久は自分の家に招いては、思う存分グランドピアノを弾かせてくれた。

「一緒にピアニストになって、同じステージでピアノを弾こうぜ」

 からりと笑ってそう言う智久の笑顔は昨日のことのように思い出せる。


 そうだね、智久。

 あんたはピアニストになれるよ。

 母親譲りの才能もさることながら、すらりと背の高い大柄な彼のその手は、親指から小指までの幅は目視でも二十二、三センチはあると判る。余裕でオクターブに届く。

 私には届かない音を智久の指は難なく捉え、私には弾けない曲を彼は余裕で弾けるのだ。それが現実。

 私だって、智久に負けないくらいピアノが好きだ。才能のほどはよく判らないけど、でも練習量は負けていない。

 でも、年齢が上がるにつれて私は現実を思い知る。練習量や努力では越えられない壁は確かにあるのだ。

 どうしても指が届かない課題曲の音は、飛ばしていいよと先生は言ってくれる。その優しい一言が、私を傷つけた。毎日、悔しかった。

 相手は男の子なのだ。女の子の私より手が大きいのは当たり前。だけど、でも、悔しい。

 悔しい、悔しい。

 そう思い続けた私は、いつしか智久を避けるようになっていた。その感情は八つ当たりに近い。判っていても止められなかった。

 小学生の頃、お互いの家に遊びに行っては、長方形のピアノの椅子に二人でくっついて座って、日が暮れるまでただ楽しくて、笑い合いながらいつまでもピアノを弾いていたあの頃にはもう、戻れない。

 

「あんぬ」

 不意に背後から声がして、私はびくりと肩を震わせた。振り向かなくても判る。智久だ。

 無視して歩き続ける私の隣に並ぶと彼は、高い位置から私の顔を覗き込むようにして言った。

「あのさ、前から聞きたかったんだけど……何か俺、お前に嫌われるようなことした?」

「……別に」

「それじゃ、どうして」

「雪枝ちゃんはいいの」

 私は斬り込むように言った。

「一緒に帰らなくていいの?」

 大事な彼女でしょ。そう心の中で付け足した。

 智久はそんな私の毒には気が付かず、いつもの屈託ない笑顔で言う。

「ユキは他の女の子とお喋りを始めたから待っていられなくてさ。なあ、宝花、行くよな?」

 ついでのように大切なことを軽く言う智久に、思わず私は足を止める。

「あ、どうした?」

「……智久は受験するんだよね、宝花付属」

「うん。お前もだろ? ずっと言ってたもんな、ふたりで行こうって。それでピアニストになってふたりで同じ舞台でピアノを弾こうって。小学生の時みたいにさ……」

「馬鹿みたい」

 冷たい声で私は言った。ついでにふんと鼻で笑う。


「そんなの、無理に決まってるじゃない」

「え。何で?」

 私はいきなり、彼の顔の前に自分の手を広げた。

「私の手。小さいよね。指も短い」

「だから?」

「だからって……判ってるくせに! だから、ピアニストには絶対なれないってことよ! ピアノの先生も諦めてる。私のお母さんも言う。ピアノは趣味で弾けばいいって……」

「人の言葉はいいよ」

 智久が静かに、けれど強く言った。

「あんぬがどう思っているかってことが一番大事じゃないのか。俺が聞きたいのはあんぬの気持ちだよ」

 私は言葉に詰まった。

 私の気持ちに何の意味があると言うの?

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