十五センチの音色
夏村響
第1話
痛いくらいに思い切り横に開いた手の指を、ものさしで親指から小指までの距離を計ってみる。
何をやっているんだと笑われるかもしれないけど、これは私が昔からやっている日課のようなもの。そしてその後で小さい、短い、と溜息をつくのも残念ながらいつものことだ。
十五センチ。
それが私の右手の親指から小指まで、思いきり開いた時の長さ。
オクターブ、届かない。
そのため、ピアノを弾く前には念入りに指のストレッチをしなければならない。机のヘリに指を押し付けてぐいぐいと開いてみたり、思いきり指を引っ張ったり……そんな地道な努力で、いままでは何とか課題曲をこなして来た。けれど手の大きさや指の長さがそうそう変わるわけもなく、年齢が上がり、それに伴い曲の難易度が上がるにつれて私の悩みは深まっていった。
私の夢はピアニストになること。
だけど、私の手の小ささはピアニストになるには致命的だった。
ピアノを応援してくれる母親でさえ、
「趣味で弾いている方が楽しいわよ。無理するとピアノが嫌いになっちゃうから」
と、微妙な笑顔で言う。
幼い頃から通っているピアノ教室の先生は、私の気持ちを察してくれて、
「諦めることはないわ。ストレッチを続けていれば指は開くようになるから」
と、優しく言ってくれる。けれど、
それじゃあ、私はピアニストになれる?
と、重ねて質問をすると途端に先生は、ええっと、そうねえ、まだ先は長いから……などと言葉を濁してしまう。
判っているんだ。
確かに趣味でピアノを弾く分には今の感じで充分、いける。でも、プロとなれば話しは違う。
判っているんだ。
私は自分の手をみつめる。
私はピアニストにはなれない。
「あんぬちゃんはどうするの?」
学校の授業が終わって、帰り支度を始める私に同じクラスの雪枝ちゃんが話し掛けてきた。彼女は小学生の頃から仲良くしている友達で、女優志望の可愛い人。何でも話せる大切な親友だ。
私は首を傾げて、仔犬を連想させる雪枝ちゃんの大きな黒目がちの瞳をみつめる。
「ええっと、何のこと?」
「進路に決まってる。先生が言ってたよ、どこ受けるか決まってないの、あんぬちゃんだけだって」
「ああ、そのことね」
私は一気に暗い気分になる。
中学三年生になった私たちの目の前には、当然のことながら高校受験がぶらさがる。
雪枝ちゃんは随分前から演劇大会優勝常連の演劇部がある有名私立の女子校一本に絞って、とうに塾通いを始めている。他の友達もみんな、受験に向けて動き出しているのが当たり前のこの時期。確かに雪枝ちゃんの言う通り、この期に及んでぐずぐずしているのは私くらいなものだ。
「勿論、宝花音大の付属高校、受けるんだよね?」
「あ、うーん。考え中」
「えー、どうして? 小学生の頃から言っていたじゃない、宝花に行くんだって。ピアニストになるために絶対、この学校で勉強したいって」
「そうだけど」
宝花音楽大学は私の憧れだ。
ここの付属高校に入れば、試験はあるものの、ほぼエスカレータ式に大学に入学することができる。数々の有名ピアニストを輩出したこの学校に入ることは私の悲願と言ってもいい。
だけど。
思わず、私は自分の手を見る。
ピアニストになれない私が宝花に入って何になるんだろう。
「あのさ、雪枝ちゃん、私……」
「よお、ユキ!」
唐突に、明るい声が上から降ってきた。私も雪枝ちゃんも驚いて顔を上げる。
「もう、何よ、トモくん!」
ぷっと頬を膨らませ、雪枝ちゃんが突然登場した高橋智久を睨んだ。
「折角、あんぬちゃんとお話ししてるのに邪魔しないでよ」
「冷たいなー、俺も仲間に入れてくれよ」
「やーよ! うるさいんだから」
そう言いながらも、雪枝ちゃんの目は笑っている。
仲がいいんだな。
ふと、心が乱れる。
三島雪枝と高橋智久、そして私こと野沢あんぬは家が近所だということもあり、幼稚園の頃から仲良くしている、いわゆる幼馴染だ。さすがに中学生になると、智久は私たち女子とつるむより男友達と遊ぶ方が楽しいらしく、昔ほど一緒にはいなくなったけど、それでも時折、こんな風に雪枝ちゃんに絡んできたりする。
口が上手くてお調子者の智久は、何故だか女の子にモテる。どうも舌先三寸で上手いこと言って、女の子たちをいい気分にさせてしまうからのようだ。
この詐欺師め、などと私は思うのだけど、雪枝ちゃんに言わせると、トモくんは心が優しいから女の子にモテるのだそうだ。
人気のある可愛い下級生からコクられたりもしているけど、智久は誰ともの付きあう気はないからと言ってすべて断っている。その理由は簡単。雪枝ちゃんの存在があるからだ。
智久と雪枝ちゃんは正式に付き合っているわけじゃない。だけど、どう見ても二人は両想い。
早く告白して付き合えばいいのに。
周りにいる友達はみんなそう思っている。けれど不思議とふたりの仲は進展しない。
ふたりが付き合ってくれれば、私の気持ちも区切りがつくのに。
私は時々、いつまで経っても『仲の良い友達』でいるふたりを恨めしく思ってしまう。誰も二人の間に割って入れないのは明らかなのに。そう、それは勿論、私だって。私の出る幕なんて、昔からありはしないのだ。
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