第二章
間一髪のところで、二人は衝撃の外側へと逃げることができていた。
さっきまで彼女たちがいた構造物が、今では完全に瓦礫の山と化していた。
「なんだッ!? 何が起こった!?」
「爆発だ! 危ないみんな逃げろ!」
開発区域は大騒ぎだった。作業員たちはみな一目散に逃げ出して、重機などの類もシステムが起動したまま放置されて、あたりは一気に無人になってしまった。
「な、なにが起きたの?」
状況がわからないチヒロは戸惑っていたが、ローレンシアはそうではなかった。
「……この気配は、間違いない。〝あれ〟です」
とても厳しい声でローレンシアは言った。それはチヒロが初めて聞く、彼女の切羽詰まった声だった。
あれだけのポリス・マトンを前にしても一切動じていなかった魔法使いが、あの瓦礫の中にある〝何か〟を警戒している。
そこに一体何が――そう思ったところへ、聞いたこともない声が響いて来た。
『ほう、貴様が〝
声は瓦礫の中からだった。
地面がわずかに揺れた。
かと思うと、突如として瓦礫の中から〝巨人〟が姿を現した。
その人の形をしたものは、人よりもはるかに巨大だった。おおよそ二十プランクほどはあるだろう。全身に赤い奇妙な紋様が浮かび上がり、それがまるで血管のように命脈している。
何だか既視感のある紋様だとチヒロは感じたが、すぐに思い至った。ローレンシアの右腕にある紋様と似ているのだ。この巨人の場合、ローレンシアとは違って紋様は不規則に全身を覆うように刻まれていた。
「――ギガンテス」
ローレンシアの声にチヒロはぎょっとした。
小さな魔法使いは、チヒロがこれまで見たこともない形相を浮かべていたのだ。
ギガンテス。
そいつは自分の大事な人たち全てを、この手から奪い去った憎き敵そのものだった。
その激情に含まれているものの多くは怒りだった。とても一言では言い表せないほどの感情の激流が彼女の小さな身体の中で渦を巻いているが、それを何とか形あるものとしてまとめ上げているのが『怒り』なのだった。
大きな瓦礫を石ころのように踏みつぶし、ローレンシアの前に悠然と立ちはだかったそいつは、まるで馬鹿にするかのように言った。
『ギガンテスだと? 無知な原始人が何を言っている。これはそんな名前などではない。これこそは我らがニューアトランティスの知の結晶、我らが得た全て問いに対する解――〝ミュー・ベータ〟なのだ』
巨人から波動のようなものが発せられた。それは不可視のエネルギーとなって周囲に拡散し、そして再び収束した。よく見ると降り注ぐ雨は巨人の身体を濡らしてはおらず、目には見えない何かが本来の雨粒の軌道を捻じ曲げていた。
そのフィールドを生じさせているのは仮想質量であり、それを生み出しているのが光束縮写管と呼ばれる機構であった。この人型兵器の自重を支えているのは『本来は存在しないが存在することになっている質量』で、実際は人型であるが世界には立方体のような物体として認識させているのである。
『そして、我が叡智が賜りし機体の名は〝マクスウェル〟。貴様のような原始人にはおおよそ理解できぬだろうが、これこそが我らが知の力そのものなのだ。ひれ伏すのならば今のうちだぞ、パンタシアグラマーよ』
「……あなたたちは」
ローレンシアは巨人の前に一歩踏み出した。
それがミュー・ベータの中にいる人間――ハプワイアの癇に障ったようで、声には見るからに苛立ちが混ざった。
『おい貴様、その不敬な態度はなんだ。わたしはソフィストだぞ。この文明の支配者、貴様ら下等存在を導く高貴なる知の存在なのだ。それを理解しているのか?』
ローレンシアはかまわずに続けた。
「あなたがたソフィストは、いったい何のためにこんな大きな街を造っているんですか? 苦しんでいる人々がいるのに、どうしてその人たちを放っておくんですか? あなたがは――いったい何のためにこんな国をつくっているいるんですか?」
『国? 国だと? ふざけるではない。ニューアトランティスはそんな程度の低い、古臭い存在ではない。我らニューアトランティスは、この地上で唯一の、たった一つの〝対称性の破れ〟なのだ。我らの意思こそが人類の総意――人類という存在を真の意味で正しく、本来あるべき姿へ導く存在なのだ』
「導く……? あなたがたがいったい、人々の何を導いているというんですか。税金が払えなったら、それだけで人間の権利をはく奪する……本当に救いを必要としている人たちを簡単に切り捨てることのどこが、導きだっていうんですか!」
ローレンシアは思わず怒鳴っていたが、ハプワイアはむしろ、ますます相手を見下すようになっていった。
『何を言うかと思えば、とんだ低能だなパンタシアグラマーというのは。我々は『人間』は切り捨てていない。我々が切り捨てているのは『人間』ではないのだ』
「……どういう意味ですか、それは?」
『我々は、正規市民にはちゃんとそれ相応の権利というものを認めてやっている。やつらには『人間』であることの許可をくれてやっている。だが、無能は『人間』ではない。無能にくれてやる権利など存在しない。正規市民税もまともに払えんようなゴミは、ただ無駄に資源を浪費するだけの存在でしかないのだからな。無能に『人間』の定義は当てはまらん』
「人間の、定義……?」
『そうだ。人間とは『想像的知性体』なのだ。想像することこそが人間が他の知性体と異なる部分であり、人間が人間であることの証左そのものなのだ。それを放棄した愚物どもが『人間』である権利を欲するなど、知に対する侮辱も甚だしいわ』
「――」
今度こそ、ローレンシアの中にある何かが切れた。
凄まじいエネルギーがローレンシアから放たれる。それは彼女を中心に渦を巻いて、強い風を生み出しつつあった。
チヒロは思わず顔を庇った。そこへわずかに振り返ったローレンシアが、
「――チヒロさん、絶対にそこから動かないでください」
と言って、再びギガンテス――いや、ミュー・ベータを振り返ると、
「――あいつは、わたしが倒します」
そう言うや否や、最初から全身全霊のエネルギーを爆発させて、巨人へと立ち向かっていってしまった。
止める暇もない。自身がエネルギーの塊となったローレンシアの速さは地面を砕いて弾き飛ばし、降りしきる雨さえ彼女の身体に触れること適わない。
全力をこめた右腕の一撃は、しかしミュー・ベータの腕に防がれてしまう。そのまま巨人が腕を大きく振ると、それをまともにくらったローレンシアは吹き飛ばされて瓦礫の山へ叩きつけられてしまった。
「――ッ!」
ハプワイアの笑い声が響いた。
『ははは! バカめが! そんな攻撃がミュー・ベータに通用するわけがないだろう!』
「――くそッ!」
ローレンシアは瓦礫から這い出したが、その動作が少しぎこちなかった。どうやら右足に痛みがあるらしかった。
「こんのぉ――ッ!」
ローレンシアは地面を右腕で殴りつけ、その反動で空へと舞いあがった。
それは自ら的になりにいったようなものだったが、ミュー・ベータの眼前でローレンシアの姿は消えた。センサーはその動きの軌道を察知していたが、搭乗者であるハプワイアの知覚限界を超えた速度だったため、巨人の対応は遅れた。
ローレンシアはありったけの力を込めて右腕を地面に叩き込み、そして思い切り振り上げた。そうすると地面に亀裂が生じ、腕を振り上げる際のエネルギーが地面ごと巨人の足元を吹き飛ばした。
足元を大きく掬われる形になったミュー・ベータは無様に素っ転んだ。
本来、その程度の挙動なら容易に立て直すことができるのだが、なにせハプワイアがミュー・ベータを『実戦』で使うのはこれが初めてだったので、巨人はどこかぎこちないままに仰向けに倒れてしまったのだった。
『くそ、何をしているッ! さっさと体勢を起こせ!』
ハプワイアは苛立たし気に怒鳴り散らした。その命令に従うようにミュー・ベータはすぐさま体勢を立て直し、ローレンシアから距離を置いた。
『この原始人めがッ! 何たる不敬を! 万死に値するぞ!』
激昂したハプワイアの意に従うように巨人は見境なしに暴れだした。
対するローレンシアは、持ち前の速さでそれに対抗した。
大きな質量を持ったミュー・ベータが動くたびに地面は振動し、振り回した腕は周囲にある建築中の構造物を破砕し、あたりはさらに瓦礫の山と化していく。
飛び散る破片の中を潜り抜け、風となったローレンシアの一撃がミュー・ベータへ加えられる。それは攻撃というには、巨人相手にはあまりにも些細な一撃だった。だが決して効果がないわけでもないようで、ミュー・ベータは鬱陶しそうに彼女を払いのけようとしていた。
「……」
それはおおよそ信じられないものとして、チヒロの目の前で繰り広げられていた。
かつてニューアトランティスと正面から戦ったという魔法使い。
そんなものはチヒロにとってはまるで荒唐無稽な御伽話のようにしか聞こえていなかったが、こうして目の前で起こっていることを目の当たりにすると、それが史実であり真実だったのだと理解するしかなかった。
この巨人と比べれば、先ほどのポリス・マトンの集団など何でもないはずだ。
だが――あれだけのことをして息を切らせていなかったローレンシアが、この巨人を相手には苦戦を強いられているのがわかった。
この巨人には、それだけの力があるということなのだろう。しかしながら、巨人のほうも彼女の速さには追いつけていない様子で、持て余した力をただ意味のない破壊に使っているようにも見えた。
一方で、ハプワイアも思わぬ事態に苛立ちと戸惑いを募らせていた。
(くそ、いったいどうなっている――ッ!? ミュー・ベータは万能の絶対兵器ではなかったのかッ!?)
ミュー・ベータはその強大なる力から、ニューアトランティスの知の結晶、あるいは権力の象徴としてこれまで長きにわたり玄学者の威光を支え、確固たるものとしてきた。
この巨人なくしては〝革命戦争〟は勝利し得なかった。玄学者にとっては、魔法使いという超越人類種を滅ぼしたこの巨人こそが、彼らのテーゼである〝
しかし、ミュー・ベータが実戦に使用されたのはもう百年も前の話である。戦後の玄学者たちの中で、この巨大人型兵器を実戦で使用したことのある者などほとんどいない。
ハプワイアにとってもミュー・ベータは己が権力の象徴であり、それは言うならば彼らが信仰する〝知〟の偶像でしかないものだった。
つまるところ、ハプワイアはミュー・ベータの正しい使い方を理解していないのだ。
(ええい、鬱陶しい! なぜわたしの思い通りに動かんのだ! ミュー・ベータは万能の絶対兵器のはずだろうが! なぜあんな魔法使い一匹に翻弄されているのだ!)
ハプワイアが内心で喚いていると、まるでそれに答えるかのように、ハプワイアの意識の中にオペレーターの声が届いた。その声はやはり、あの聞き慣れた女性の合成音声だった。
《マクスウェルを戦闘モードへ移行しますか?》
いきなりだったので、ハプワイアは何を言われたのかよくわからなかった。
「は? なんだと?」
《マクスウェルは現在、『制限』を解除するための条件を満たしています。搭乗者が承諾されるのであれば、マクスウェルを戦闘モードへと移行させますが?》
どこか悠長なオペレーターの言葉を段々と理解し始めたハプワイアは、気が付くと怒鳴っていた。
「馬鹿者めがッ! そんなものがあるなら最初から言えッ! このポンコツがッ!」
《申し訳ありません》
「すぐに戦闘モードへ移行させろ!」
《了解いたしました》
オペレーターが承諾を返すと、突如、マクスウェルに変化が起こった。
機体の中心にあるコアの稼働率が百パーセントに達すると、機体に刻み込まれた紋様がよりいっそう強く赤く、禍々しく光を放ち始めた。
「――っ!?」
とっさに危険を悟ったローレンシアは巨人と距離を置いた。
巨人の周囲から音という音、風という風――全てのエネルギーが消え、無になっていく。
それは巨人が周囲のエネルギーを喰い散らかしているために起こる現象だった。コアの中にある巨大なテスラ・ストーンが、より大きなエネルギーを生み出すために、周囲にある全てのエネルギーを吸収しているのだ。
万有引力エネルギーさえ吸収し始めたため、巨人を中心とした一定の範囲内にある雨の粒は、まるで時間の理から外れてしまったかのようにその場に一旦静止し――今度は斥力によって空に向かって落ち始めた。
エネルギーが一定量に達すると、マクスウェルの機体がにわかに変形を始めた。偶像でしかなかった巨人が、今まさに『破壊』のための存在へ生まれ変わろうとしていた。
変形を終えたマクスウェルは、大きくその姿を変えていた。全身が鋼鉄で造り上げられた巨人は、右腕が異様に巨大化していた。それは対象を破壊するためのハンマーにも見えたし、大きな〝砲〟のようにも見えた。
人の姿を借りた、人ならざる万能の絶対兵器。
「――そ、そんな」
正真正銘の怪物が、ローレンシアの前に姿を現した。
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