6.μβ´

第一章

「しかし、逃げると言っても、どこに逃げたらいいんだろうねぇ、わたしたちは」

「とにかくシティの外へ逃げるしかないんじゃないでしょうか」


 スラムから文字通り飛び出してきた彼女らが今いる場所は、マクスウェル・シティの東端、新開発造成区域だった。


 これから新たにシティの一部として拡張開発されている区域であり、砂漠はもう眼と鼻の先である。振り返ればシティ中央部、市街地の摩天楼が壁のように立ち塞がっている。もはやシティにいられなくなった二人が目指すべきは外側にしかなくなったわけだが、その先にあるものは果ての無い砂と岩だけの砂漠なのだった。


 建設中の構造体の上へ着地した二人からは、見渡す限りの地平線が見えていた。

 逃げるのは簡単だ。ここからただ、外に向かって走ればいい。

 だが、いったいどこへ逃げればいいというのだろう?


「シティの外は砂漠しかない。人がこの何もない場所で生きていくのは、まぁ無理だろうね」

「他のシティまでは遠いんですか?」

「遠いね。普通、他のシティへの移動は航空輸送機が使われるし」

「こーくー?」

「ようは空を飛ぶでっかい箱だよ。人の足で移動できるような距離じゃない。それに、わたしたちはすでにお尋ね者だ。別のシティに逃げたところでそれは同じってわけだ」


 チヒロは肩を竦めて見せた。


「……」


 ローレンシアは何もない地平の向こうへと視線をやった。

 そこには何もない。見渡す限りの荒れ果てた大地しかない。

 ここがかつて緑と自然に溢れていた欧亜大陸だとは思えない。本当に、まったく別の世界だった。


 かつての姿を知っている彼女だからこそ、目の前の光景はあまりにも残酷で無慈悲だった。これでは人はおろか、動物などもほとんど生きてはいまい。命あるものが生きていこうとするには、あまりにも乾ききっている。


「……確かに、この荒野に向かって逃げるというのは自殺行為ですね」

「でしょう?」

「だけど」

「うん?」

「見てください。世界はこんなにも広いんです。ソフィストが知らない世界へだって、きっと繋がっているはずです。やつらの造ったシティだけが世界の全てだとは、わたしには思えません。この世界にだってまだきっと、希望はあります」

「……」


 ローレンシアに言われた通り、チヒロはもう一度、荒野の地平を見渡してみた。

 そこには何もない。

 何もないが、確かに広い。


 シティの周辺には分厚い雲が垂れこめているが、地平のずっと先では雲間を切り裂くかのように日の光が大地へと差し込んでいる。


 〝空っぽヴォイド〟と呼ばれるこの大地の向こうに、もしかしたら知らない世界があるかもしれない。

 そう考えたことなどチヒロには一度もなかったし、仮に考えたとしても『あり得ない』という言葉でやはり一蹴しただろう。


 しかし、いまチヒロの目の前には〝魔法使いパンタシアグラマー〟がいるのだ。

 この不条理の塊みたいな存在がここにいるのだから、もしかしたらこの荒野の向こうにも、何かがあるかも知れない。不思議とそう思えた。

 チヒロは思わず笑っていた。


「ああ、確かにそうかもしれないね。あんたにそう言われると、無性にそんな気がしくるよ」


 ヴォイドから吹いてくる乾いた風と、摩天楼から吹いてくる無機質な風がこの場所で混ざり合い、にわかに渦を描き始めていた。

 そこへ黒い雲から湿りを帯びた風が降りてきて、空はとうとう泣き始めた。


 荒れ始めた風の中に、摩天楼のほうから低く唸るような音が混じっていることに二人は気が付いた。それはシティ全体に響く警報の音である。

 降りだしてきた雨はすぐに強くなるだろうと思われた。


 二人の背後にあるのは巨大な壁だけだ。

 二人は自分たちの行く先に、すでに迷いなどなかった。


「ん? なんか下が騒がしいね」


 風に乗って地上の喧騒が二人の下へ届いた。


「……来ます」

「え? なにが?」


 その時、大量のポリス・マトンたちが一気に屋上へなだれ込んできた。

 ものすごい数である。

 建設中の構造体の屋上は瞬く間にポリス・マトンたちによって埋め尽くされ、二人は完全に包囲されてしまった。


「逃亡者へ告ぐ! いますぐに両手を頭の後ろへ回し、地面に伏せろ! 抵抗すれば発砲する!」


 ポリス・マトンたちはみなライフルを構えており、銃口はもちろん二人を捉えていた。

 あまりにも数が多いので、チヒロもさすがに驚いていた。


「……ちょ、ちょっと数が多くない?」

「チヒロさん、こいつらは何ですか? さっきも見かけましたけど」


 一方、ローレンシアは冷静だった。視線だけ動かし、周囲の状況を頭に叩き込んでいる。


「こいつらはポリス・マトンだよ。治安維持用のオート・マトンさ。人型のマシンだね」

「マシンというと、つまり作り物ということですか?」

「まぁそういうことだけど……それが?」

 ローレンシアは何かが引っかかっているようだったが、すぐに頭をふった。

「いえ、何でもありません。確かにこいつらに魂はない。わたしの気のせいでしょう」

「ていうかどうすんの、これ? さすがにやばくない?」

「もう一度だけ警告する! 両手を頭の後ろへ回して地面へ伏せろ! 今度こそ発砲する!」

「ちょ、やばいって! あいつら撃ってくるよ!」

「……チヒロさん、危ないのであなたは伏せていてください」

「え?」

「今です! 伏せてくださいッ!」


 ローレンシアはそう言った途端、己の膂力だけで再び空へと飛びあがった。

 チヒロはとっさに伏せていた。ポリス・マトンたちの構えるライフルは全てローレンシアを追いかけ、一斉に銃口が火を吹いた。


「ひぃーッ!」


 凄まじい銃撃の中で、チヒロは地面にへばりついて耳を塞いだ。

 空から降りだした大粒の雨と、まき散らさる銃弾の雨の中、ローレンシアの姿がポリス・マトンたちの視界の中から消えた。


 攻撃目標が知覚範囲内から一瞬で消えたことに彼らは戸惑ったが、その隙にローレンシアはまるで壁となって自分たちを取り囲んでいたそいつらの一角へ襲い掛かっていた。


 ローレンシアの見えない動きは、弾き飛ばされる雨の様子でかろうじで判別ができた。もちろんそれだけでは常人にはとうてい追いきれないものだったが、ポリス・マトンたちの知覚には何とか捉えられるようで、彼らは一瞬の混乱からすぐに体勢を立て直し、一糸乱れぬ射撃でローレンシアの姿を追い続けた。


 だが、それでもローレンシアのほうが速かった。銃弾が撃ち込まれた点には、すでに彼女の姿はそこにはない。そうすると再び壁の一角が崩され、ポリス・マトンたちがまるで風に飛ばされる木の葉のように空を舞うのだ。


「……うそでしょ」


 チヒロは自らの危険も忘れて、その光景を驚きと共に目に焼き付けていた。

 これが、本気を出したローレンシアということなのか。

 借金取りをぶっ飛ばした時など、あれはかなり手加減していたのだと今ならわかる。あの時感じた殺気めいたものは確かに本物だったかもしれないが、それでもローレンシアはやはり、無意識ながら人間相手には手加減していたのだ。


 大人の男でもポリス・マトンには力で敵わない。そのはずなのに、ローレンシアはそんなやつらを軽々と吹き飛ばしているのだ。速すぎてチヒロの目にはまるで見えないが、地面に衝撃と共に破壊の痕が穿たれるたびに、ポリス・マトンたちは成す術なく無力化されていくのである。


 やがて、五分もしないうちに決着がついた。


 屋上に雨の音が戻ってきた。

 ポリス・マトンたちは一人残らず沈黙しており、そこかしこに破壊の痕が刻まれている。それらは全て彼女が『殴った』痕だった。


「さぁ行きましょうチヒロさん」


 ローレンシアはほとんど息も切らせていなかった。

 ようやく身体を起こしたチヒロは、半ば呆れながら言った。


「……パンタシアグラマーってのは、本当にデタラメなのね」

「何言ってるんですか。わたしなんて全然弱いですよ。他のみんななら、本気出したらこの建物ごと軽く吹き飛ばしてますから」

「いや、もう何がなんやら……」

「とにかく、今はここから――」


 その時、ローレンシアはある気配を察知し、はっとなって空を見上げた。

 雨の向こうに黒点が見えた。

 そいつは見る見る内に大きくなり――まるで彼女らを狙うかのように、凄まじい速さで落下してきた。


 ローレンシアはチヒロの身体を持ち上げると、即座にその構造物の屋上から退避した。

 空から落ちてきた〝それ〟は構造物をまるごと吹き飛ばして、大地に着地したのだった。

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