第四章

 それから数日、チヒロは病院へやって来なかった。

 まぁ元々、毎日来ていたわけではない。間が空くこともしばしばあった。

 だからあまり気にしないようにしていたのだが、ふと妙に落ち着かない気分になることがあった。


(やっぱり、いま思うとあの時のチヒロさん、ちょっと変だったような――)


 あの時のチヒロは、うまく言葉にできないが、いつもと違うようにローレンシアには感じられた。そうでもないと言えば、確かにちょっとした違和感程度でしかないのだが。


(変と言えば、セドリックさんも変ですよね。何か隠し事でもしてるみたいな)


 セドリックは正直な人間だ。嘘を吐くのが下手だというのは、見ていてすぐにわかる。

 隠し事も下手だ。彼は明らかに、ローレンシアに何か言いたくても言えない何かを隠している。


(だとしても、それを無理やり聞き出すのも気が引けますし――うーん、なんかすっきりしません)


 そんなもやもやした気持ちを抱えながら、数日を過ごした。

 そして、その日。


「……」


 なぜか分からないが、いつもよりずっと早く眼が醒めた。

 不思議と寝付けなかったので、起きだして掃除でもしようと部屋を出た。


「……あれ? セドリックさん、今日は随分と早いですね」


 病室のほうから明かりが見えたので覗いてみると、セドリックが疲れ切った顔で座っている姿が見えた。


「ロ、ローレンシアくん。もう起きたのかい?」


 なぜかセドリックは慌てた様子を見せた。


「はい、なんでか眼が醒めてしまって……というか、セドリックさん、もしかして昨日から寝てないんじゃないですか?」

「え? あ、ああ、ちょっとやることがあってね」


 セドリックは嘘を吐いた。ローレンシアにはそれがわかった。

 彼の様子は、いつにも増しておかしかった。その違和感は、徐々に不安となってローレンシアの心の中に浸み始めた。


「……あの、セドリックさん。セドリックさんは、わたしになにか隠していますよね?」

「な、なぜそう思うんだい?」


 セドリックは明らかに図星をつかれたような顔をしていたが、それでも何か隠そうとしている様子だった。

 自分には言えないようなことを、彼は何か隠している。

 それはほぼ確信だった。そしてその確信は、さらなる不安を促した。


「やはり、何か隠しているんですね?」

「……」


 セドリックはしばらく眼を泳がせていたが、それもとうとう限界に達したのか、いきなり床に膝をついて頭を下げた。


「すまない、ローレンシアくん! わたしは、君に謝らなければならない!」

「ちょ、やめてくださいセドリックさん!」


 いきなり土下座されてローレンシアもさすがに慌てたが、セドリックは深く頭を下げたまま言った。


「チヒロくんには黙っていてくれと言われたが、やはりわたしに黙っていることはできない! ローレンシアくん、そしてチヒロくん、わたしは弱い人間だ! くそ、優柔不断な自分が本当に嫌になる!」

「セドリックさん、いったい何があったんですか」


 セドリックは顔を上げた。


「……今日、恐らくチヒロくんがプラントへ連れていかれる」

「え? ど、どういうことですか、それ?」

「彼女は、ルーシーくんの借金を肩代わりして、自分の正規市民税を払う分も使ってしまったんだよ。そして納付期限は昨日だった。だから、今日彼女のところへ治安維持局から使いが向かうはずだ。彼女をプラントへ連れていくために」

「……そんな。確か、そうすると人間としての権利をはく奪されるとか、言ってましたよね?」

「……ああ。プラントへ送られた人は、もはや正規市民ではない。そこでどのような扱いを受けるのかは誰もはっきりとは知らないが――噂によれば、死ぬまでそこで奴隷のように働かされると、そう言われている」

「……ッ!」


 ローレンシアはたまらずに走り出して、建物から飛び出していた。


「ローレンシアくん!」


 追いかけてきたセドリックの呼びかけに彼女は足を止め、少しだけ振り返った。


「……やはり、行くのかい?」

「……はい。セドリックさん、今まで本当に、ありがとうございました。あなたから受けた恩は、どれだけ返しても、返しきれないほど大きなものです。それを途中で投げ出していくことを、どうか許してください」

「何を言うんだ。わたしこそ、君には本当に大切なものをたくさんもらった。君がいてくれたおかげで、いつの間にか失くしてしまっていたものを、わたしは思い出すことができた。取り戻すことは、もうこの歳では叶わないことだったが――それでも、わたしは君に感謝しているんだ」

「……そう言ってもらえると、嬉しい限りです。わたしなんかでも、誰かの役に立てていたんだなって思うと、本当に救われます」

「……ローレンシアくん」

「これまで、本当にありがとうございました。この御恩は、本当に一生――いや、死んでも忘れません。魂に刻んで、ずっと持っていきます。さようなら、セドリックさん――」


 ローレンシアはまともに振り返ることができなかった。そうしてしまうと、今にも心が揺らいでしまいそうだったからだ。

 全てを振り切るように彼女は走り出そうとしたが、


「いいや、それは違うよローレンシアくん」


 そっと肩に手が乗せられた。思わずはっと振り返ると、セドリックがとても優しい顔で、ローレンシアを見ていた。


「さよならは別れの言葉だ。君は、いつでもここに帰ってきていいんだよ。君の部屋だって、わたしがちゃんと掃除しておく。だから、これはさよならではないんだ」

「……セドリックさん」


 セドリックはいつも通りの優しい声で、こう言った。


「いってらっしゃい。わたしはここで、君たちの帰りを待っているよ」

「――」


 堪えていたはずのものが溢れだしそうになった。

 だが、彼女は耐えた。それでも少しだけ溢れてしまったが、それは強引に袖で拭った。


 力強く顔を上げたローレンシアは、決意をこめてその言葉を口にした。


「はい! いってきます・・・・・ッ!」


 その瞬間、ローレンシアは風となってセドリックの前から消え去った。

 老いた男が最後に見た少女の顔には、堪えきれないものを必死で堪える――だが、強い光を宿した二つの瞳があった。


 あの子は強い。だから、あの子は迷わずにいくだろう。


「……どうか、あの子たちを――」


 セドリックは彼女たちの無事を祈ることしかできなかった。

 〝グレートマザー〟が死んだこの世界で、祈るべき対象は存在しない。そのような概念すらここにはない。そんなものがなくても、この世界には既に巨大な〝システム〟が存在するのだから。


 それでも彼は、大いなる何かに向かって祈らずにはいられなかった。 

 シティを覆う暗雲は、さらにその密度を増していく――

 



μβψ




(ありがとうございます、セドリックさん――わたしは、いつか必ず帰ってきます)


 ローレンシアは、自分の中に不思議と力が湧いてくるのを感じていた。

 この世界において、自分は異物である。帰るべき場所など、とっくの昔に――時間の激流の中に飲み込まれて、跡形もなく消え去った。

 帰るべき場所がないというのは、とてつもなく心細いことだった。


(わたしには、帰るべき場所があるんだ)


 帰るべき場所があるとういうだけで、人はこんなにも強くなれるものなのだろうか。

 ただいまと言えば、当たり前のようにおかえりと言ってくれる人がいる。何て当たり前のことなんだろうか。当たり前過ぎて泣いてしまいそうではないか。


 だが、今は泣いている暇などない。


 風となったローレンシアは、飛ぶように構造物の屋根から屋根へと飛び移っていった。着地した衝撃であちこち屋根が壊れているが、常人には彼女の速さは捉えられないので、凄まじい突風が吹いているようにしか見えなかった。


 ローレンシアは心の中で謝りつつ、チヒロの家を目指した。魔法使いには他人の気配を探る能力が自然と備わっているので、それを感じつつ、あの時のことを思い出しながらスラムの中を疾駆した。


 やがて、チヒロの姿が見えた。何やら不気味な連中に連れていかれようとしているところだった。オート・マトンには魂が存在しないため、彼女にはそれが『気配のない不気味な、人のようなもの』に感じられたのだ。


 ローレンシアはそのまま、空からポリス・マトンへ襲い掛かり、瞬きする間に二体とも無力化してしまっていた。

 凄まじい砂煙が立ち上がる。その中で、ローレンシアは叫んだ。


「チヒロさん!」

「ローレンシア!?」


 視界がやや晴れたおかげで、二人はお互いを確認することができた。

 しかし、相変わらず周囲はもうもうと砂煙で立ちふさがれており、騒動をききつけてやってきた人間たちは、いったい何が起こっているのかわからず、その混乱はさらにこれから大きくなっていきそうな気配だった。


 だが、二人のいる場所だけはまるで嵐の中心にある目の中のように静かだった。


「……ローレンシア、あんた、なんでここに」


 呆然とするチヒロに、ローレンシアはやや憮然として言った。


「……チヒロさん、わたし、実はちょっと怒ってます」

「……」

「チヒロさん、前にわたしに言ったじゃないですか。自分さえいなくなればいいなんていうのはナシだって。なのに、なんで自分だけいなくなろうとしてるんですか」

「……それは、ええと、こうするのが一番いいって思ったから――」

「言い訳なんて聞きたくないです」

「う」


 ぴしゃりと言い切られて、チヒロは二の句が継げなかった。

 ローレンシアから真っ直ぐ見つめられて、何だかバツが悪くてチヒロはそれを直視できなかった。今だけは、姉と妹の立場がまるで逆転してしまったかのようだった。

 ローレンシアが右手を差し出した。


 チヒロが顔を上げると、


「今度は、わたしがあなたを助ける番です」


 と、ローレンシアはやはりチヒロを真っ直ぐ見つめながら言った。

 それでもまだ少し戸惑っているチヒロに、


「マジェスティックは受けた恩は必ず返します。わたしを助けたのが運の尽きだと思って、大人しくわたしに恩を返させてください」


 そう付け加えて、ちょっぴり笑った。

 この状況において、ローレンシアの瞳には迷いも曇りもない。


 そんなものを見せられてしまっては、自分が迷いなど見せられるはずがなかった。

 自分は『姉』なのだ。これ以上『妹』に情けないところなんて、見せてはいられない。


「――ったく、あんた本当に、大馬鹿よ!」


 ぱあん、とチヒロはローレンシアの右手を叩いた。

 それはまるで、これから始まる『開戦』の合図のようにも聞こえた。


「チヒロ!」


 ルーシーの声がした。お互いに相手の姿は見えないが、チヒロは親友に向かって叫んだ。


「ルーシー! 大丈夫だ、安心しな! わたしは――いや、わたしたちは、全然大丈夫だからさ!」

「チヒロさん、追手はすぐに来ます」

「ああ、じゃあちょっくら逃げますか――って、どうやって逃げんの?」

「ちょっと失礼します」

「おわっ」


 ローレンシアは、自分よりも体の大きいチヒロを担いだ。いわゆるお姫様抱っこというやつだった。


「ちょ、これ恥ずかしいんだけど!?」

「口閉じていてください。舌噛みますよ――ッ!」

「え? ちょ、ひあああああーッ!!」


 ローレンシアは膂力のエネルギーを爆発させて、まるで弾丸のように空へと飛び出した。

 地面が抉れるほどの衝撃に砂煙は一気に吹き飛ばされた。周囲にいた人々は、ほんの一瞬だけ、何かが空へ飛び上がっていく姿を見たが、速すぎてそれが何なのかはまるで分らなかった。


「――」


 ルーシーも空を見上げていた。

 飛んでいった『何か』はもう見えない。

 それでも彼女はずっとその姿を追うように、いつまでも空を見上げていた。

 シティを覆う暗雲はさらに濃さを増していたが、何だか妙な静けさが漂っていた。

 それはまるで、これから起きる『嵐』の前の静けさのようで――




μβψ




「なに? スラムで騒ぎだと?」


 女性型のビジネス・マトンは頷いた。


「はい、どうやらそのようです。詳しい状況はわかっていませんが、どうやら逃亡者が出たようです」

「はん、税金も払えん無能が、性懲りもなく我が身可愛さに逃げようというわけか。これだから無能というのは手に負えんのだ……しかし、わたしはいま忙しい。そんなしょうもない事件に関わっている暇はない」

「しかし、どうやら情報によると、逃亡者は二人で、そのうち一人は『対象』の可能性が非常に高いと」


 そう言ったビジネス・マトンの一言に、ハプワイアは凄まじい勢いで振り返った。


「なんだと!? なぜそれを早く言わん!? それを先に言わんか!」

「申し訳ありません」

「すぐに全てのポリス・マトンを出動させろ! そいつらを絶対に逃がすな!」

「かしこまりました」


 ビジネス・マトンがそう言った直後、ゲンベルスからコールが入った。

 ハプワイアは急いでそれに応答した。


「おお、ゲンベルス卿! ちょうどよいところに! 今しがた、『対象』を発見したとの報告が入ってまいりましたぞ!」

【ええ、わたしの方にも入ってきました。探す手間が省けましたね】

「すぐに我がシティの総力を挙げて捕獲してみせます! 必ずやゲンベルス卿の下に原始人を連れてまいりましょうぞ!」

【はい、期待していますよハプワイア殿。あなたの功労は、このわたしが責任を持って中央へ報告いたしましょう】

「はっ! 身に余る光栄でございます!」


 通信が切れると、ハプワイアはすぐさま行動を開始した。


「〝ミュー・ベータ〟の機動準備を開始しろ! わたしも出る!」

「かしこまりました。すぐに手配します」

「くくく、原始人め。のこのこわたしの元へ現れたことを後悔するといい――貴様に我らが得た知の力、とくと見せてやるわ! がはははは!」


 ハプワイアは湧きあがる哄笑を抑えきることができなかった。

 目の前にエサを吊り下げられたこの男は、もはやそれしか見えなくなっていた。




μβψ




「――さて」


 通信が切れた。

 ゲンベルスは嗤いを浮かべていた。

 それはまるで蛇のような嗤いだ。目の前の存在を獲物としてしか見ない、無慈悲で冷徹な嗤いである。


「パンタシアグラマー、超越人類種――その力、どの程度のものか。見せてもらいましょうか」

 そして。

 ――いま、この時、この瞬間を、ニュートンズ・クロックが歴史に刻んだ。

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