第二章

 ローレンシアの朝は早い。

 いつも早朝に起きだしては、玄関前の掃き掃除から始め、さらに病院の中を一通り掃除し、それから水場へ洗濯しに行き、帰ってきたら洗濯物を干して、それが終わるとセドリックを手伝う。セドリックを手伝うためには、掃除やら洗濯は早いうちに終わらせておくほうが都合がいいのだ。


 その日、チヒロが病院に来たのは朝方のことだった。あの借金取り騒動から二日後くらいのことだ。


「よ」

「あれ? どうしたんですかチヒロさん、こんな朝早くから」

「ん、まぁ何となくかな」

「お仕事は?」

「ん? あー、仕事ね。仕事はちょっと、何日かお休みなんだ」

「え? もしかしてどこか悪いんですか?」

「いいや、違うよ。休暇もらったんだ。たまにはゆっくり羽を伸ばそうかと思ってね」

「なんだ、そうだったんですか」


 ローレンシアがほっとしていると、チヒロはおもむろにこう言った。


「ところでさ、今日どっか遊びにいかない?」

「え? どうしたんですか急に」

「いや、そういえばローレンシアとどっか遊びにいったことってなかったって思ってさ」

「それは確かにそうですけど、でも病院の手伝いが――」

「それはかまわないよ、ローレンシアくん」


 いつの間にかセドリックが玄関口に立っていた。二人の話声に気づいてやって来たようだ。


「セドリックさん」

「病院のことは気にしなくてもいい。いつも頑張ってくれてるんだ。たまには遊びに行ってくるといい」

「う、うーん、でもちょっと洗濯物も溜まってますし……」

「いーじゃんローレンシア~遊びに行こうよ~」

「ちょ、引っ張らないでください! 子供ですかあなたは!」

「ローレンシアが遊んでくれるまで離さないよわたしは!」

「きっぱりはっきり駄々こねないでください!」

「はは、まぁチヒロくんもこう言ってるんだ。遠慮しないで行ってきなさい」

「は、はあ。まぁ、セドリックさんがそういうならわたしは別にいいですけど……」


 ローレンシアは渋々といった感じで承諾したが、実は内心ではちょっと満更でもなかった。そう言えばこっちに来てから、ただ遊ぶために時間を使ったことは一度もなかったので、少しうずくところがあったのだ。


 チヒロは鋭敏にそれを感知したようで、


「あれえ? ローレンシアも実は遊びたかったんじゃないの?」


 と、にやにやしながら迫ってきた。

 ローレンシアは慌てて顔を取り繕った。


「そ、そんなことないです。チヒロさんがどうしてもっていうから、仕方なく付き合ってあげるだけです」

「またまた~、ホントは嬉しいくせに」

「ちょ、肘で小突かないでください。別に嬉しいなんて思ってないですから!」

「あー、はいはい。わかりました。嫌々わたしに付き合ってくれてありがとうございますー」

「なんか棒読みですね……?」

「じゃ、セドリックさん、悪いけどローレンシア借りてくわ」

「ああ、楽しんでくるといい」

「ちょ、チヒロさん、わたしは猫じゃないんですよ! 襟を引っ張らないでください~ッ!」

「はっはっは、苦しゅうない」

「わたしが苦しいんですよ!」

 チヒロの腕力で、ローレンシアは強引に引きずられていった。

「……?」


 その時、ローレンシアはふと気が付いた。

 二人を見送るセドリックの顔が、なぜか悲しそうだったことに。

 なぜそんな顔をするのかと思ったが、その小さな違和感は騒がしさの中に埋もれて消えていってしまうのだった。




μβψ




 遊ぶと言っても、見慣れたスラムの中でできることなど限られている――はじめ、ローレンシアはそう思っていた。


 だが、スラムはこれまでローレンシアが思っていた以上に広い場所だった。

 決まった場所しか行ったことがないので、ローレンシアは必要最低限の場所しか知らなかった。闇市とか水場とか、知っているものと言えばそれぐらいだった。


 しかし、チヒロはこのスラムを隅々まで把握していた。それこそ何年も住んでいるのだから当然なのだろうが、ここは彼女にとっては庭みたいなものらしく、まるでスクラップの迷路みたいなこの場所を、迷わずにあちこち移動することができた。


「改めて思いますけど、ここって道が複雑過ぎません?」

「はは、確かにね。人が増えるたびに、みんな勝手に色々作って、それで余計にややこしくなってんだよ。今は通れるところも、もしかしたら一年後には道じゃなくなってるかもしれないしね」

「道というよりは、ほとんど隙間ですねこれは……」


 どこまでが構造物の内側で、どこからが外側になるのか、それもよくわからない場所が多かった。ここは街というよりも、例えは悪いが虫が造り上げたコロニーみたいだ。それもかなり無秩序な。


 どこからかスクラップを集めてきては、それを利用して構造物を増改築して、縦横無尽に大きくなっていく――ということをずっと繰り返してきたのだろう。いったい何十年という単位でこれが形成されたのか、ローレンシアには想像することもできなかった。


「ところで、これはどこに向かってるんですか?」

「闇市だよ」

「え? 闇市って方向違くないですか?」

「いいや、こっちでいい。ここ通ったほうが近道なんだよ」


 と言っている間に、二人は闇市のど真ん中に出た。

 大きな通りに出ると遮るものがなくなって視界が広がった。空はからりと晴れているが、日の光はまだ届かない。スラムの日照時間は、周囲の摩天楼の関係から日中のわずかな時間だけなのである。


「ほえー、ほんとだ。こんな場所から抜けてこれたんですね」

「さて、まだちょっと時間は早いけど、なんか売ってるでしょ。適当に朝ごはん食べようか」

「あ、わたしお金持ってくるの忘れました」

「いいよ。わたしが奢ってあげるから」

「え? いいんですか?」

「いいのいいの。ほら、行くわよ!」


 チヒロは気前良く笑って、そして景気良く声を出して走り出した。


「あ、ちょっと待ってくださいよ!」


 ローレンシアは慌ててそれを追いかけた。

 それから二人は、時間の許す限り自由に羽を伸ばした。

 闇市で適当に腹ごしらえをした後は、チヒロの『おすすめ』のスポットとやらに連れまわされて、それまで出会ったことがなかった人たちにも大勢出会った。


(うーん、なんかチヒロさん、妙に優しい気がしますが……)


 時おり、ローレンシアはそんな違和感を覚えた。チヒロは確かに元々からして心根の優しい人間だが、普段付き合いではわりと子供っぽいところがあって、言い合いになることもしばしばあったのだが、今日は何をするにもローレンシアに譲ってくれるのだ。


 おやつに買ったお菓子を食べていた時も、ローレンシアが先に食べてしまうと、


「あ、これも食べる?」


 と言って、自分の分を譲ってくれたりした。いつもならお菓子は取り合いになることもあったのだが。

 なんか変だなぁとは思いつつ、ローレンシアはふと昔のことを思い出していた。


(……なんだか、姉上と遊びに行った時のことを思い出しますね)


 あれはいつだったか。まだ自分がとても小さい時だ。ローレンシアは一度だけ、カサンドラと王都を散策したことがあった。前後の記憶は曖昧で、どうしてそういうことになったのかいまいち覚えていないのだが、それがとても楽しかったことだけは、はっきりと覚えている。


 そう、あれはいつかの夏の日だった。ローレンシアは姉と王都を散策してから、あの場所へ向かったのだ。

 王城の裏には森がある。そこも王家の敷地にはなるのだが、原生林のまま手つかずで放置されている場所だ。


 カサンドラはとっておきの場所だと言って、ローレンシアをそこへ連れて行ってくれた。

 トンネルのようになった木々の中を抜けていくと、そこには綺麗なひまわり畑が広がっていたのだ。


 そのひまわり畑がいつからそこにあるのか、それはカサンドラも知らないという。カサンドラも母から教えてもらったらしい。母が生きていれば、きっとローレンシアも母の手に引かれてここを訪れていただろう。


 あの時に見た黄金のように美しい光景は、ローレンシアの中に強く焼き付いていた。目を閉じて思い返すと、肌を焼く夏の日差しも蝉の声も、楽しそうな姉の声も、全てがありありと思い出せた。


 楽しかった。後にも先にも、姉にあれだけ甘えられたのは、あの時が最後だった。ローレンシアが年齢を重ねるごとに戦況は悪化していき、カサンドラと顔を合わせる日も減る一方で、顔を合わせてもそれは姉妹としてではなく、王への謁見という形ばかりだった。


 いつかまた、姉上と二人であそこにいけたらいいな――という淡い願いは、しかし一度も叶うことはなかった。


「……」

「ん? どったの?」

「あ、いえ、何でもありません」


 ローレンシアは我に返った。少し物思いに耽ってしまっていたようだ。

 ふと、チヒロの手が眼に留まった。姉と同じくらいの大きさだなぁ、と思っていると、


「あれ? もしかして手繋ぎたい?」


 と、チヒロがにやにや笑いながら言ってきた。

 ローレンシアは慌てて視線を逸らした。


「い、いえ、そんなことありません。まったく思ってません、そんなこと」

「え~? でも、あの時は手握っててとか言ってたじゃん」


 あの時のことを思い返して、ローレンシアは顔から火を吹いた。あの時の自分はなぜあんなことを言ってしまったのかと、今さらながらに恥ずかしくなったのだ。


「あ、あの時のことは忘れました! あれは夢です! チヒロさんも忘れてください!」

「え~? どうしようかなぁ?」


 チヒロは相変わらずにやにやしている。


(く、ちょっと優しいかもとか思いましたけど、やっぱりチヒロさんはチヒロさんです)


 そう思っていると、目の前に左手が差し出された。

 チヒロは笑って言った。


「じゃあ、いま手繋いでくれたら、あの時のことは忘れてあげる」

「……それ、意味なくないですか?」

「大丈夫だって。次に手繋ぐときは、これのこと忘れてあげるから」

「ずっとその繰り返しになるじゃないですか」

「かもしれないわね」

「……仕方ないですね。チヒロさんがどうしてもっていうなら、繋いであげます」


 ローレンシアは遠慮がちに右手を出した。

 遠慮がちに差し出された右手を、チヒロはがしっと強く掴んだ。


「これではぐれないわね」

「ええ、そうですね。チヒロさん、わたしからはぐれないよう、気をつけてくださいね」

「わたしがはぐれるほうなの!?」


 手を繋いで歩き出した二人は、誰が見ても姉妹にしか見えなかった。

 ローレンシアはぼそりと、


「……まぁ、別に忘れる必要はないんですけどね」


 と、小さな声で言った。

 それはチヒロには届かなかったようで、


「え? いまなんか言った?」

「べ、別になんでもありません。ほら、さっさと次の場所へ行きますよ。どこへ行くのか知りませんけど」

「次は、うーん、そうだな。はは、全然考えてなかったや」


 あっけらかんと笑うチヒロに、ローレンシアはやれやれと、でも何だか楽しそうな笑みを返すのだった。

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