5.マジェスティックの流儀
第一章
「……朝か」
チヒロは一睡もせずに夜を明かした。
強がってはいたものの、本当はもちろん不安だった。
あれから数日経って、今日はとうとう、タイムオーバーの日だ。正規市民税の支払いは昨日だったから、恐らく今日には役所の人間――といっても来るのはオート・マトンだろうが――がチヒロの家にまで押しかけてくるはずである。
結局、ローレンシアには知らせないままだった。本当はお別れくらい言っておきたかったが、彼女がこのことを知れば、絶対に座視してはいないだろう。借金取りをぶっ飛ばした時のように、相手が治安維持管理局だろうが何だろうが、きっと戦おうとしてしまうはずだ。
だが、それはダメなのだ。
ローレンシアは優しすぎる。
だからこそ、さよならは言えないのである。
「みんなにはホント、迷惑ばっかりかけちゃったねえ。ルーシーもわたしがいなくなったら絶対自分責めるだろうしなあ。ま、そこはセドリックさんに任せておこうか」
ガシガシと強く頭を掻いた。
「うん、でもまぁ、とりあえずよかったんだよね、これで」
悩んでも悔やんでも、過去を変えることはできない。今この瞬間は、全て過去に起こった結果の積み重ねの上の出来上がっている。偶然と偶然の折り重なり合いが、まるで必然とも思えるような今を造り上げる。まるでそこに何かの意思が介在しているかのように。
借金取りに払った金も、実は他のシティへ行くために貯めていた金だった。チヒロはいつか、自分の妹を探すためにこのシティを出て行くつもりだったのだ。それがたまたま、借金の金額にぎりぎり届いていた。まるで最初からこうするためのものだったみたいだと、チヒロはあの時に思ったものだった。
望むと望まざるとに関わらず、時間の流れは暴力的で、しかしそれが時にはかけがえのないものに出会うきっかけにもなる。もちろん、その逆もある。大切な人と別れて、新しく出会った誰かがまた大切な人になる。そして、また別れる。
「……まぁ元々、このシティからは出て行くつもりだったしね。それがちょっと早まっただけのことだ。なんてことない。それにもしかしたら、あいつも先にプラント送りにされてるってこともあるかもしれないしね。いや、そんなことにはなってて欲しくはないんだけどさ」
誰もいない部屋の中で反響するのは、チヒロの独り言だけだった。
やがて、ドアをノックする音がそこに紛れ込んだ。思っていたよりも早いお出迎えだ。
「ちっ、こんな時ばっかり仕事が早いんだからさ、お役所ってやつは」
チヒロは立ち上がった。そこで自分の足が震えていることに気が付いた。
「――今さらビビってんじゃねえっての、しっかりしろ」
気合いを入れるように自分の頬を叩いた。それで足の震えはぱったりと止んで、彼女は部屋のドアを開いた。
そこに立っていたのは、やはりオート・マトンだった。それも役所でよく見かけるビジネス・マトンのほうではなく、治安維持管理局のポリス・マトンのほうだった。
なるほどね、とチヒロは思った。市民権を失った人間を連行すること、これはもう役所の仕事ではないのだ。
「何か用ですか?」
いちおう訊ねると、二体いるポリス・マトンのうち、向かって右側のほうが男性の合成音声で答えた。
「こちらは正規市民番号F44189のお部屋でお間違いないでしょうか?」
「そうですけど」
「あなたがF44189、本人ですか?」
「そうですけど」
「あなたはまだ、正規市民税を納付されていません。期日は昨日までですが、それは承知していますか?」
「してますけど」
「今ならまだ納付を受け付けますが」
「今できるなら昨日納付してますけど」
チヒロは嫌味たらしく言ったが、ポリス・マトンには通じず、抑揚のない声が返ってきた。
「では、現時刻をもってあなたの正規市民番号は消失します。代わりにあなたには、非正規市民番号が付与されます」
非正規市民番号ってなんだよとチヒロは思わず笑ったが、ポリス・マトンにジョークを言う機能はないので、もちろん大真面目である。
「あー、はいはい。好きにしてよ。ほら、プラントに連れてくんでしょ? さっさとしなさいよ」
チヒロが抵抗の意思を見せなかったので、ポリス・マトンたちも治安行動には移らなかった。この段階で逃亡を図ろうとする人間も多いので、その場合はこのポリス・マトンたちは相手を容赦なく無効化する措置に出る。
単純な腕力でポリス・マトンに人間が敵うわけがないのは、一般市民なら誰でも知っていることだった。
前後をポリス・マトンに挟まれて、チヒロは住み慣れた家から連行されることになった。
家と言っても、ただのスクラップの塊みたいなところだ。それでも長いこと住んでいたから、愛着はもちろんある。自分が出て行けば、そのうち誰かが勝手に住み着くだろう。
「お、おい、あれ――」
「なんてこった――」
周囲に住んでいる人たちが、にわかに騒然とした様子で表に出て来た。チヒロが連行されていく姿を見て驚いているのだ。ここにいるのは全員が顔見知りである。チヒロはかっこ悪いところを見られてしまいバツが悪かったが、むしろ明るく振る舞った。
「いやー、ごめんみんな。ちょっとわたしプラント行ってくるわ」
見送る人々はみな、言葉を失っていた。チヒロの妙に元気な声だけが虚しく響いた。
ふと見上げた空はやけに曇っていた。今にも降りだしそうだ。
それはまるでチヒロのいまの心境そのものだった。寸前のところで踏ん張っている。彼女は自分を懸命に抑えていた。
「チヒロッ!?」
悲鳴のような声が彼女を呼んだのはその時である。
チヒロははっとして、声のほうを振り返った。
そこにはどういうわけか、ルーシーが立っていたのだった。
「え、ちょ、ルーシー? なんでこんなところに?」
「それはこっちのセリフよ! これは、どういうこと!?」
ポリス・マトンに連行されている姿を見られてしまっては、どのような言い訳をしても無駄なことだろう。
ルーシーもすぐに状況を察したらしかった。
「チヒロ、あなたもしかして、あの時に有り金全部――?」
チヒロはまるで、悪戯がばれた子供のように笑ってみせた。
「いや、はは、ごめんわたし嘘ついてたわ。税金分は手元にあるって言ったけど、ほんとはなかったんだよね」
「そ、そんな――」
ルーシーは絶句してから、ポリス・マトンに懇願するように言った。
「ま、待ってください! チヒロはわたしのせいで税金が払えなかっただけなんです! わたしの分は取り消して、それをチヒロの分に――」
「やめな、ルーシー」
チヒロはそれを遮った。
「で、でも、それじゃあ、あなたが――」
「いいんだよ、わたしは別にさ。それよりもルーシー、前にも言ったけど、あんたがいなくなったらマリーの面倒は誰が見るのさ」
「それは――でも、わたしのせいであなたがいなくなるなんて、そんなの絶対だめよ! 消えるならわたしのほうだわ! マリーのことだって、あなたなら安心して任せられる」
「いいや、そりゃダメだね。マリーにとっての母親は、ルーシー、あんたしかいないんだ。あんたの代わりなんてどこにもいない。そりゃマリーは可愛いさ。あの子を預かるくらいなんてことない。むしろ喜んでわたしは引き受けるよ。でも、わたしじゃあ、あの子の母親には絶対になれないんだよ」
「……チヒロ」
「だから、あんたは残らなきゃだめだ。マリーを守るために」
「でも、全部、わたしの借金のせいで――」
「あんたは何も間違ったことなんてしてないだろう? 別に誰も間違ったことしてないんだよ。だから、あんたが謝る必要なんてどこにもない」
そう、誰も間違ったことはしていない。
なのに、世界ではつねに誰かが泣いている。
誰も間違ったことをしていないのなら、いったい何が間違っているのだろう。
そもそも無力なのが間違いなのか。無能なのが間違いなのか。
誰かを守りたいと思う気持ちは、どうしてこんなにも無力なのか。
ルーシーは強い。マリーのためならどんな苦しいことだって耐えるだろう。なのに、どうしてこんなにも無力なのか。
優しさとは、そんなにも無価値なものなのか?
「じゃあね、ルーシー。マリーと、あとローレンシアにもよろしく」
チヒロはいつものように、にかっと白い歯を見せた。
ルーシーは言葉無く彼女を見送ることしかできない。
この世界では、優しさなど無価値でしかない。
止まらないためだけに動き続けるこの巨大な機械は、いちいちそんなものには頓着しない。
膨大な情報と歯車を組み合わせて出来上がった『仕組み』は、与えられた目的を果たすためだけに動き続けるのである。
――そんなものに、いったい何の意味があるっていうんですか。
だから少女は問うたのだ。
だからきっと、少女は力を奮うのだ。
己に課せられた『意味』を見出すために。
――二体のポリス・マトンが、凄まじい烈風に吹き飛ばされた。
μβψ
治安維持局に寄せられていた、とある情報がハプワイアの目に留まったのは、つい昨日のことだった。
「くそ、どうでもいい情報が多すぎる。貧乏人どもめ、懸賞金目当てにあることないこと適当な情報を寄越しおって――ッ!」
ハプワイアは執務室で、珍しくせっせと仕事に励んでいた。
彼は大量の情報をオペレーターの補助を受けながら処理しているところだった。
《検索条件をもう少し絞り込みますか》
「ああ、そうしろ。これでは埒があかん」
《了解しました》
システム・オペレーターが脳内へと直接応答をよこした。
そうすると膨大に膨れ上がっていた情報が、すっきりとまとまってハプワイアの目の前に現れた。
彼がいま『見ている』情報は、オペレーターが彼の脳へと直接送ってきたもので、それをまずは彼の脳の記憶領域が受け取り、そこから意識領域に引き渡されて『視覚情報』として受け取っているのだ。元々脳内に情報は存在するのだから二度手間とも言える変換作業だが、これが人間には最も理解しやすい情報フォーマットなのだった。
情報を精査するハプワイアの思考領域は、これもやはりネットワークに接続されており、本来の自分の脳のキャパシティを超えた処理能力を実現させている。
こうして記憶領域と思考領域はネットワークを通じて強化されるわけだが、意識領域にはプロテクトがかけられてネットワークとは切り離されるようになっている。意識領域には〝魂〟が存在するので、ネットワークには接続されないようになっているのだった。
「無用なものはだいぶ減ったが……これでもノイズが多いな。まったく、オペレーターももう少しフィルターの精度を上げられんのか」
《申し訳ありません。順次改善してまいります》
聞き慣れた女性の合成音声が『聞こえて』きた。この声はシステム・オペレーターのものだ。単にオペレーターと呼ばれることのほうが多い。
このプログラムはどこにでも介在しており、ソフィストの思考補助からソロモンの館が構成する上位階層ネットワーク、それこそ労働者階級で一般的に利用されている下位階層ネットワークにおいても、あらゆる場面において偏在するユビキタス・プログラムだった。
ソフィストはラプラスの持つ演算能力を自身の思考能力の一部として利用する権限を持っているが、割り振られるリソースの大きさは階級に準ずる。その階級に応じたレベルで思考補助を行うのもこのオペレーターの役目だった。
誠意のない合成音声を聞き流しながら、ハプワイアは鼻を鳴らしていた。
「ふん、まぁ所詮はプログラムだ。わたしの頭脳に及ばんのも無理はない」
外部の情報処理装置の演算能力を得て強化されたハプワイアの思考能力は、やがて一つの有力な情報を見つけ出した。
「――これは」
思わずハプワイアは立ち上がっていた。
それからすかさずオペレーターに命令した。
「ゲンベルス卿に連絡を取れ!」
《了解しました》
ハプワイアから発信されたコールは、すぐにゲンベルスの元に繋がった。
【おや、いかがされましたかハプワイア殿】
ゲンベルスの声が『聞こえて』きた。一般的労働者階級には理解できない感覚だろうが、ソフィストたちの世界では情報処理というのはこういう形態で行われるのが普通だった。つまり、自身の脳もハードウェアの一種として扱い、ネットワークを介して情報を直接的にやりとりするのである。
意識領域に情報が引き渡される時は五感情報にフォーマットされているので、感覚的には『見た』り『聞いた』りすることになるのだが、この感覚は普通の人間には理解はできないだろう。
ハプワイアはやや興奮した口調で言った。
「突然申し訳ありません、ゲンベルス卿。さっそくなのですがこれを見てください」
ゲンベルスにデータを転送する。受け取った相手はそれを『見て』いるはずだ。ちなみにインサイドビューを通して行われる通信では実際に喋る必要はないのだが、ハプワイアのように声に出して通信する玄学者はけっこう多かった。
ややあって、相手から【ほう】という興味深そうな声が返ってきた。
【右腕に奇妙な紋様をもった少女ですか。しかも、その少女はほんの一瞬で自分よりもはるかに大きな相手を二人も倒してしまったと。この情報はどこから?】
「シティの金融業者からのようですな」
【なるほど。これまでの情報とは少し、質が違うようだ。これは十分に精査するに値するものと思えます】
「では、この情報提供者に記憶映像も提供させますか?」
【そうしたほうがよろしいでしょうね。データの日付を見る限りだと、どうやらこれは数日は前のことのようだ。まだ記憶情報が劣化していないうちに、吸いだしておく必要があるでしょう】
「では、すぐにそのように手配しておきましょう」
【ええ、お願いします】
頷く気配がネットワークを介して伝わってくる。人間がマシンの外側から『使用者』として情報処理装置を利用する一般的なアウトサイドビュー・システムとは違って、声音だけではなく相手の気配とでも言うべき情報が同時に伝わって来るのもこのインサイドビュー・システムの特徴だった。
コールが切れると、ハプワイアは思わずにやりと笑っていた。
「ノーライフ・キングだか何だか知らんが、こいつは願ってもないチャンスだ。何も労せず、クラス昇格の話が向こうから転がり込んできたのだからな……この『対象』の情報をすぐに全てのポリス・マトンたちに送れ!」
《了解いたしました》
この時点では、ハプワイアはまだ見ぬ魔法使いとやらに感謝の念すら覚えていた。
彼にとって、今の自分のポジションは不当なものなのだ。
ようやく自分が本来あるべき階級へと上ることができる。
まるで、こうなるのが必然だったかのようでさえある。
すなわち、この〝未来〟はつねに決定されていたことなのだ。ラプラスの予言を賜るまでもない。考えれば考えるほどに、これは当然であり必然なのだと男は心の底から思った。
「くくく、くははは、くはははははは――ッ!」
ハプワイアの高笑いは部屋の中にいつまでも響いた。
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