第三章
大男たちは呆気にとられていたが、すぐに状況を把握して動き出した。
「こいつ、なんてことしやがる!」
「女だからって容赦しねえぞ!」
一人がチヒロに殴りかかるが、彼女はそれを何とか躱した。
だが、すぐにもう一人が襲い掛かる。さすがにチヒロでも相手が二人では荷が勝ち過ぎていた。そもそも、そいつらはこういう荒事が本業らしく、動きにまったく無駄がなかった。
丸太のような腕から繰り出された拳が、チヒロの鳩尾にめり込んだ。
「かは――ッ!」
チヒロの身体がくの字に折れ曲がって、そのままぶっ飛ばされてしまった。
「――」
その光景を見た瞬間、ローレンシアに変化が生じた。
実態のない気配が――『殺気』が彼女の小さな身体から強烈に発せられたのだ。
「お、お姉ちゃん?」
「……ごめんなさいマリー、少し離れていてください」
マリーをそっと遠ざけると、ローレンシアはゆっくりと立ち上がった。
「ぐ、かは……ッ!」
チヒロは痛みに耐えきれず、思わず両ひざをついていた。
完全に隙だらけだった。
すかさず、男たちが動いた。
男の繰り出した蹴りが、チヒロの顔を完全に捉えた。男はすでにチヒロのことをただの女とは見ていない。その一撃で顔の骨をへし折り、再起不能にするつもりだった。相手が女だからといって手加減するつもりなど微塵もなかった。
避けられない。
チヒロは覚悟を決めたが、衝撃は襲ってこなかった。
「……?」
恐る恐る眼を開ける。
周囲がどよめいていた。
「……チヒロさんに危害を加えることは、わたしが許しません」
男の蹴りは、ローレンシアによって止められていた。しかも片手で。
「な、なんだこいつ――ッ!?」
最も狼狽えていたのは、蹴りを止められた男だった。自分よりもずっと小さな相手が、軽々と全力の一撃を止めてみせたのである。
しかも、相手に掴まれた足が動かせない。
「ぐ、は、離せ!」
「わかりました。離してあげます」
そう言うと、ローレンシアは腕に力をわずかにこめて、男を持ち上げた。
そのまま、混乱している男をぽいっと投げ飛ばす。そんなに強く投げたわけではなかったが、壁に叩きつけられた男は「ぐえ」と呻いたかと思うと、白目をむいて口から泡を吹いて地面に倒れ込んだ。
誰もが呆気に取られている。
ウルフガングという男も同様に、
「な、なんだぁ、てめえは……?」
と完全に呆気にとられていた。それなりに修羅場をくぐってきたはずのこの男でも、目の前の光景は俄かには信じられないものだったようだ。
「ローレンシア、だめ――ッ!」
とっさに動けたのはチヒロだけだった。彼女はすでに激昂していなかった。むしろ慌てた様子で、ローレンシアを止めようとした。
「……あなたがたは、わたしの敵です。絶対に許しません」
ローレンシアは底冷えするような声で言ったかと思うと、忽然とその場から姿を消した。
風が吹いた。誰もがそう感じた。ローレンシアの動きは速すぎて、誰の目にも捉えることができなかったのだ。
そうすると、もう一人の男が吹き飛んでいた。
常人には捉えることが不可能な速さで動いたローレンシアの一撃は、まさしく風そのものだったと言える。
周囲の人々には、なにが起こったのかさっぱり理解できていなかった。ただ、ローレンシアが不思議な力で相手を吹き飛ばしたようにしか見えなかった。
「……次はあなたですか」
常人の視界に舞い戻って地に立ったローレンシアは、次の狙いをウルフガングに定めた。
「ちっ、化け物が――ッ!」
ローレンシアから氷点下の一瞥をくらった男は、とっさに懐からサブマシンガンを取り出していた。
(こいつはやばい――ッ!)
ウルフガングの直観は正しかった。彼はその直観だけでこれまで死線を潜り抜けて来たのだ。
男の眼に映っているのは小さな女の子ではない。
そのような姿をした、何か別の化け物だった。
――こいつは、敵だ。
ローレンシアの頭の中に出て来た解はとてもシンプルなものだった。
――ならば、排除しなくてはならない。
イメージの中で、男の首がへし折れていた。十分可能だとローレンシアは判断した。男の動きはあまりにも遅い。止まっているようにさえ見える。自分がちょっと本気を出して動き、ちょっとばかり強く殴れば、男は簡単に絶命するだろう。
躊躇いはなかった。チヒロが痛めつけられた瞬間に、彼女の中にあったはずの
(ちぃ、なんなんだ!? こいつはいったい、何なんだ――ッ!?)
ウルフガングは内心で悲鳴を上げていた。
目の前で起こったことが理解できない。これは実に不条理なことだった。ついさきほどまで強者だったはずの自分たちが、なぜか弱者になっている。
強者にのみ許された生殺与奪の権利をいまこの場で手にしているのは、銃を構えた自分ではなく、目の前の小さな子供なのだ。これが不条理でないとしたら、いったいなにが不条理だというのか。
「――」
しかし、この極限の状況下で、男の眼にあるものが見咎められた。
ローレンシアの右腕の袖が捲れて、ゆるんだ包帯の隙間に奇妙な紋様を見たのだ。
それは命のやりとりの場においては、何の意味もない情報だったはずなのに、なぜか男の目には禍々しいものとして強く焼き付いた。わずかだが、それが光っているように感じられたのだ。
目の前の化け物に、自分の命が食われる場面をウルフガングは想像した。それはまるで決定された未来そのもののように思えた。
引き金にかけられた指に、ぐっと力が籠められる。
「ローレンシアッ!!」
チヒロの凄まじい一喝がローレンシアの動きを止めた。
それは周囲の人間たちも、ウルフガングも同様だった。チヒロの声はあまりにもでかくて、すぐ近くにいたルーシーが思わず耳を押さえてしまうほどだった。
「……ローレンシア、もういい」
「チヒロさん、しかし――」
「もういいのよ」
「……はい」
静かだが、有無を言わせない迫力がチヒロにはあった。するとローレンシアから膨れ上がっていた気配は急に小さくなってしまい、途端に小さな女の子にしか見えなくなってしまった。
「……」
ウルフガングは混乱していた。いま自分が見ていたのは、幻覚だったのだろうか?
「ウルフガングとか言ったっけ、あんた」
「……あ?」
男は呆けた声を出した。チヒロの言葉がいまいち頭に入ってこないらしい。それもそうだろう。あんな光景を見せられたら誰だってこうなる。
「金なら払ってやるわよ」
「え? ちょ、ちょっとチヒロ!」
慌てたルーシーを片手で制して、チヒロはウルフガングにつかつか歩み寄った。
「エニィウェア持ってるんでしょ? 出しな」
「……」
徐々に忘我から戻って来たらしいウルフガングは、言われた通りエニィウェアを取り出した。チヒロはそれをひったくるように奪うと、何やら操作し始めた。ネット経由で自分の口座にアクセスしているのだ。
自分の口座情報を一通りすばやく登録してしまうと、チヒロはウルフガングの足元にエニィウェアを放り投げた。
「必要な情報は打ち込んだわよ。あとはそっから、必要な分だけ金でも何でももってきな」
「……」
エニィウェアの画面に眼を落すと、チヒロの口座情報が表示されていた。そこに表示された額は、確かに請求の金額に足るものだった。
「……ああ、確かに金はあるようだな」
「なら、さっさと帰りな。あんたらはもう、この場に用はないはずよ」
「……ちっ、くそったれめ。どうやらそのようだ。おい、てめぇらいつまでのびてんだ」
ウルフガングは部下たちを乱暴に足で蹴って、無理やり目を覚まさせた。
「あ、あれ? ボス?」
「なんでおれ倒れてたんだ……?」
目を覚ました男たちは、なぜ自分たちが気絶していたのか、状況をまったく把握していない様子だった。
「いいから行くぞ。仕事は終わりだ」
「え? 終わったって?」
「いいから行くぞクソども。死にたくなけりゃさっさと足を動かせ!」
ウルフガングは部下のケツを蹴り飛ばした。
それからチヒロたちを――いや、ローレンシアを振り返って、
「……」
しかし、一瞥しただけで何も言わず、大人しく引き上げていった。
そいつらの姿が消えると、ルーシーはすぐにチヒロに詰め寄った。
「チヒロ! あなた、なんてことを……ッ! あれ、あなたのお金――」
「ん、あー、そうね。お金ね、うん」
大金を手放したはずのチヒロより、ルーシーのほうがよほど混乱していた。むしろチヒロは妙にさっぱりした様子だ。
彼らの要求してきた金額は、彼女たちのような低所得者においそれと払える金額ではなかった。それこそ、切りつめても何十年は貯金し続けねば貯まらない金額だ。
ルーシーにはそれが分かっていたので、だからこそ混乱していたのだ。いくら仲の良い相手だからといって、おいそれと肩代わりできるような金額ではとうていあり得ないのである。
だというのに、チヒロには気負ったところなどまったくなかった。
「あー、あれね。まぁあれよ。いつか必要になるかもってちょっとずつ貯めてたお金よ。でもまぁ別に使うアテがすぐにあるわけじゃなかったし、まぁいいかなって」
「でも、あなた正規市民税のお金はどうするのよ!」
「大丈夫だって。それくらいの金は手元に残してあるから。いくらわたしが貧乏だからって、そこまでバカにしないで欲しいわね」
「……チヒロ」
「別に気にする必要ないわよ。だいたい、あげるって言ってるわけじゃないんだから。もちろんちゃんと返してもらうからね」
「……ごめん、ありがとう。ありがとう、ごめん、チヒロ」
ルーシーが急にぼろぼろ泣き出したので、チヒロは慌てた。
「ちょっと、泣かないでよ! なんで泣くのよ! あんたが泣いてたらマリーだって泣くでしょうが!」
「ごめん、わたしのせいで、あんたにとんでもないことを――」
感情の針が振り切れたのか、ルーシーはチヒロに抱き着いてきた。しがみついてきた、と言ってもいいかもしれない。
「もう、苦しいってルーシー! ていうか、ああもう! 謝るんだかお礼を言うんだか、はっきりしなさいよ!」
「ママ、なんで泣いてるの?」
おずおずと近寄って来たマリーが、ルーシーを見上げていた。
泣いている母親を見て不安になったのか、女の子の眼には大粒の涙が浮かび上がっていた。
チヒロは慌てた。
「ちょ、ルーシー! マリーが泣いちゃうでしょうが! 泣くな!」
「ごめん、チヒロ。ごめん、ごめん――」
ルーシーはチヒロを抱きしめたまま、大人のくせにまるで子供のように泣き続けた。
そうするとつられたマリーまで泣き出して、余計に収集がつかなくなってしまうのだった。
一方でローレンシアは、
「嬢ちゃん、おめえすげえな!」
「え、いや」
「おまえチビのくせにやるじゃねえか!」
「ええと、あれはなんていうか、そのですね」
「あいつらいけすかねぇやつらだったからよ、スカッとしたぜ!」
「いや、ええと、ええと」
群がってきた人々にもみくちゃに称賛されていた。
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