4.動き出す時間

第一章

 ローレンシアが玄関前の掃き掃除をしていると、建物の中からセドリックが姿を現した。


「おや、どこかにおでかけですか、セドリックさん?」

「ん? ああ、いや違うよ。ちょっと外の空気を吸いにね。座りっぱなしも腰にくるものだから」


 腰をとんとん叩くセドリックの姿は、実際の年齢よりもずっと老けて見えた。それだけ日ごろから自分に無理を強いているのだろうとローレンシアは思った。


「セドリックさんも若くないんですから、あんまり身体に無理させちゃだめですよ」

「うーん、自分ではまだまだ若いつもりだったんだけどね……ほんと、歳はとりたくないものだよ」

「そのうち、セドリックさんがお医者さんに通うことになっちゃいますよ。人のことを診るのもいいですけど、お医者さんならまず自分の身体を気遣わないと」


 まるで母親に注意されている気分になったセドリックは、思わず苦笑してしまっていた。


「む、どうして笑うんですか」


 ローレンシアにじろりと睨まれて、セドリックは苦笑しながら言った。


「いや、まさかこの年齢になって、しかもローレンシアくんみたいな女の子から怒られるとは思ってもなかったからね。自分では無理をしている自覚なんてまったくなかったものだから」

「だったら自覚してください。そりゃあ、患者さんはたくさん来るから無理するなというのも無理な話かもしれませんが……」

「いや、ありがとう。言う通りにするよ。わたしが倒れてしまっては、それこそ元も子もない。みんなに余計に迷惑をかけてしまうからね」


 やはり自分のことには無頓着な様子のセドリックだったが、ローレンシアはそれ以上は何も言わなかった。仕方のない人だと、今度は彼女のほうが困った笑みを浮かべていた。


「そういえば、今週はまだルーシーくんとマリーの姿を見ていないね。いつもなら、もうそろそろ来ていてもいいころだと思うんだが」

「そういえばそうですね。ん? ちょうど向こうから誰か来ましたよ」


 ローレンシアが指さした方向からやってきたのは、しかしその二人ではなくチヒロだった。

 ちょうどよかったのでチヒロにルーシーのことを聞くと、


「え? ルーシー? さぁ、わたしもいっつもルーシーと顔を合わせるわけじゃないからね。担当してる区域が違うからさ。でも言われてみると、ここ数日は見てない気がするな」


 ということらしかった。

 それを聞いたローレンシアはふと心配になった。あの時の妙な男たちのことを思いだしたのだ。


(あの時のこと、やっぱり二人に相談したほうが……いや、でもルーシーさんには言わないで欲しいって言われたし――)


 これまでも何度かあの時のことを二人に相談しようか悩んだローレンシアだったが、あの時のルーシーが浮かべた懇願するような顔を思い出す度に言い出せなくなってしまって、二人にはまだ何も言っていなかったのだ。


「どうしたの、ローレンシア?」


 ローレンシアの葛藤はどうやら顔に出ていたようで、チヒロは目ざとくそれに気が付いたようだった。

 非常に悩んだが、やはりこのまま黙ってはおけないと思って、ローレンシアは言った。


「実は――」


 一通り話を終えると、二人は深刻そうな顔になっていた。


「……それは、やはり金貸しの連中だろうか。チヒロくん、ルーシーくんから借金をしているなんていう話は聞いたことがあるかい?」

「いや、一度もない。でもあいつの性格だし、そういうのは絶対人には言わないと思う。ローレンシアにも黙っているようにって言ったんだよね?」

「……はい。すいません、やっぱりもっと早く言うべきだったでしょうか?」

「それはしゃーないよ。ルーシーが言うなって言ったんだからさ。でもそうなると――」


 チヒロはかなり険しい顔を浮かべて、すぐにこう言った。


「わたし、ちょっとルーシーの家に行って様子見てくるよ。マリーのことも心配だし」

「あ、じゃあわたしも行きます」

「だめだめ、子供は留守番してな」

「わたしもルーシーさんとマリーが心配なんです!」

「いや、でもな……」

「それに、わたし子供ですけど、そんじょそこらの大人の人よりは強いです。ですので足を引っ張るようなことは絶対ありません」


 そう言われてしまうと、チヒロも頑なに反対はできなかった。確かにローレンシアは見た目こそただの子供だが、ただの人間ではないのである。


「……わかった。じゃあ、二人でちょっと行ってみるか」

「はい!」

「とうわけなんで先生、ちょっとローレンシア借りてくよ」


 セドリックは頷いた。


「あまり騒ぎになるようなことは控えるんだよ。どこにやつらの目があるかわからないからね」


 ということで、二人はルーシーの家に行ってみることになった。

 病院からルーシーの家がある場所まではそう遠くない。同じスラムの界隈にあるから、市街地まで出る必要もなかった。


「それにしても、ローレンシアも何だかここに馴染んできたよね」

「え? そうですか?」


 二人は連れ立ってスラムの中を歩いていく。

 ここは悪所であって、市街地からつま弾きに遭った人間たちが最後にたどり着く場所だ。当然、行き交う人間たちの身なりは決していいものではない。


 だが、ここにはひっそりと息苦しい感じはなかった。

 確かに日当たりは悪くて何だか鼻の奥にくる据えた臭いはあるし、お世辞にも住み心地がいいとは決して言えない。


 人々が家と呼んでいるのはスクラップをただ積み上げて造っただけの粗末な構造物でしかないし、闇市ではどこから仕入れてきたのかわからない品物がたくさん売られている。水場ではみんな集まって洗濯したり、水を汲んで持ち帰ったりしているが、その水道もそもそもどこからどうやって引き込んでいるのか不明ときている。


 当局にバレたらまず間違いなく撤去されるだろうが、シティ側もわざわざスラムに介入したくはないのか、結局はなぁなぁの状態で放置されたまま、現状は変わらずにこの先も続いていくことになるのだろう。スラムを撤去すれば、スラムにいる人間たちが市街地へと溢れだしてくるのは目に見えている。


 低所得者層とはいえ、彼らは都市市民番号を持つ正規市民には違いないので、一方的にシティから追い出すこともできない。結局、シティにとっても現状維持しているのが最善なのだ。


 何もかもが非合法なもので構成されているような場所だが、どんな場所でも人は強く生きていけるのだと思わされる光景がここにはあった。

 笑いながら走り抜けていく子供たちを見送りながら、チヒロは言った。


「なんていうのかな。最初は明らかに浮いてたけど、今はそんな感じしないなって。何がどう変わったのか、うまく言えないけど」

「……」

「あ、ごめん。別にそんなこと言われても嬉しくはないよね。ここスラムだし」

 チヒロは謝ったが、ローレンシアは頭をふった。

「いえ、うまくは言えませんけど、そう言われるのは嬉しい気がします」

「そう?」

「はい。わたし、ここのこと好きですから」


 ローレンシアがそう言うと、チヒロはまるで自分が褒められたみたいに嬉しそうに笑った。


「そっか。だったら嬉しいな。わたしもここ好きだしさ。まぁ確かに汚ねー場所ではあるけど、みんないいやつばっかりだし。正直、市街地の空気のほうがわたしには合わないな」

「行ったことないですけど、市街地ってどんな感じなんですか?」

「そうだねえ。そりゃもちろん、ここよりはずっと綺麗さ。みんな綺麗な服きて、美味しそうなもの食べてるよ。でもなんていうのかなぁ、みんな手元ばっかり見てるんだよね。エニィウェアばっかり見てるっていうか」

「エニィウェアって何ですか?」

「手の中にすっぽりおさまる小型のチューリングマシンだよ。それがあれば、どこにいても誰とでも離れた相手と電話できるし、メッセージのやりとりもできる。暇つぶしに本も読めるし映画だって見れるよ。ニュースだって見れる。とにかく何でもできるんだよ。わからないことだってポータルにアクセスして検索すれば、オペレーターが全部教えてくれるし。機械そのものは、ただの薄っぺらい板にしか見えないけど」

「うーん、いまいち想像つかないですね……」


 ローレンシアの頭の中では何だかすごいものが出来上がっていたが、それを薄っぺらい板に変換するのはどうやっても無理そうだった。彼女の知っている知識では丸っきり想像がつかないようで、あまり深く考えても仕方ないと思ったのか、こう結論を出した。


「まぁなんかわかりませんけど、とりあえず便利そうですね」

「そうだねえ、便利なのはほんと、すごい便利だね。だけどなんていうのかなぁ、何か変な感じなんだよね。みんなそればっかり見て歩いてるからさ。本来は便利に使うための道具なんだろうけど、あれじゃあどっちが本体かわかんないっていうのかな……」

「スラムで持ってる人はあまりいないんですか?」

「持ってるだけでお金かかるからね。そんな金があるなら、今日食う物が先っていう連中が多いからねぇ、ここには。わたしも仕事用のしか使ったことないや」

「ふうん、そうなんですか」


 ローレンシアは頷いたが、いまいち理解し切れていないようだった。誰もが手元の薄い板を見ながら歩いている光景は彼女にとってはとても奇妙なもので、まさか自分が想像したものが本当にそのまま現実に即しているのだとはまったく思っていなかったのだった。

 そうこうしている内に、やがてルーシーの家までやって来た。


「あそこらへんがルーシーの家なんだけど――なんか様子が変だね」


 チヒロが指さした先には、なぜか人だかりができていたのだ。


「とにかく行ってみましょう」


 ローレンシアはこの時、少し嫌な予感がしていた。

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