第三章

 夏の日差しが降り注いでいた。

 薫風と木漏れ日の中にローレンシアはいた。


 草っぱらの上に仰向けになっていて、ふと自分が何をしていたのか、わからなくなってしまっていた。


「どうしたローレンシア。これで終わりか」


 カサンドラの声が聞こえて、はっと跳ねるように身を起こした。


「いいえ、まだまだです姉上! せっかく姉上が忙しい合間をぬって稽古してくれているというのに、こんなものでは終われません!」


 そうだった、とローレンシアは思い出していた。

 いまは稽古の真っ最中だったのだ。


 王城の中庭でのことだった。一人で稽古をしていたローレンシアの元へ、気まぐれに姉がふらっと姿を現したのだ。


 カサンドラと会うのは数日ぶりだった。彼女はいつも王城にいるわけではない。むしろ、最近は留守にしていることのほうが多かった。ローレンシアは詳しいことを聞かされていなかったが、戦況があまり思わしくないらしいのは周囲の状況で何となく察している。かといって子供の自分にできることがあるわけでもなく、歯がゆい毎日を送っていた。


「そうか、ならばかかってくるといい」


 にやりと笑ったカサンドラへ、ローレンシアは、


「はい!」


 と、勢いよく真正面から突っ込んでいった。


 姉にそれが躱されてしまうと、行き場をなくした運動エネルギーは城壁をぶち壊す破壊エネルギーになった。石の壁を砕いたローレンシアは傷の一つもなく、再び姉に向けてありったけの膂力を爆発させた。


 今度は真正面から防がれてしまう。それも片手でだ。ローレンシアは空中で軌道を変えてあたかも重力を無視したかのような動きで体術を駆使し、風を切るほどの速さで拳と蹴りを打ち込み続けた。


 カサンドラはそれら全てをかるくいなして、相手の持つエネルギーをそのまま利用して後方へ投げ飛ばして見せた。


 どちらも魔法はまったく使っていなかった。これは単純に自身の身体能力だけで行われていることだった。

 そんな光景がしばらく、ローレンシアが立てなくなるまで続けられた。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 ローレンシアは再び、草の上に仰向けになっていた。


「なかなか腕を上げたじゃないかローレンシア。鍛錬は怠っていないようだな」


 覗き込むように姉の顔が現れて、ローレンシアは嬉しいやら悔しいやらといった気持になっていた。褒められたのは嬉しいが、姉には一発も攻撃が通らなかったのである。


 カサンドラが隣に腰を下ろした。二人は並んで、小さな木陰で涼しげな風を浴びた。

 夏の焼くような日差しが、大の字になったローレンシアのつま先のすぐそこにある。木の作り出す影は、まるで子を守る母の優しさのようでもあった。


「姉上は、どうしてそんなにも強いのですか」


 まだ身を起こせないまま、ローレンシアは見上げるようにして聞いた。

 カサンドラは姿勢を崩して、少し遠くを見ながら答えた。


「別にわたしは強くない。わたしより強いものなどいくらでもいる。それにローレンシアだって十分強いさ」

「わたしは――強くなんてありません。弱いままです。正装(イデア)だってちゃんと纏えるようになってませんし……どうしてわたしにはイデアが与えられないんでしょう?」

「お前は何のためにイデアを欲するのだ」

「それはもちろん、みんなの役に立つためです。正装イデアを纏い、自分の魔法を手に入れることができれば、戦力になります。そうしたらみんなの役に立てます」

「戦うために、正装イデアを欲すると?」

「もちろんです。国を守るためには戦わなければなりません」


 ローレンシアは力強くそう言ったが、なぜかカサンドラは少し悲しい顔をしてしまった。

 その時の姉の表情は、何とも言えないものだった。


 嬉しいような悲しいような、二律背反するはずのものがそこには同居していた。

 ローレンシアは思わず身体を起こした。


「姉上……? すいません、わたしは何か、失礼なことを言ってしまったでしょうか」


 不安そうに自分を見上げる妹に、姉は小さく頭をふった。


「……いいや、違うのだ。姉として、わたしはお前を本当に誇りに思っている。だからこそ、自分自身の不甲斐なさがやりきれないのだ……」

「ふがいない……?」


 姉の心中が理解できないでいるローレンシアに、カサンドラは真っ直ぐに向き直ると、


「ローレンシア。魔法パンタシアグラムとは、守るための力だ。お前は、誰かのためにイデアをまとえ」


 と、どこか切実そうにも聞こえる声色で言い、妹の身体を抱きしめたのだった。

 ローレンシアはなぜ姉がそんな顔をするのか、なぜそんな声を出すのか、よくわからなかった。


 ただ、何だか自分が姉を悲しませるようなことを言ってしまったんじゃないかと思って、それだけが不安だった。


「姉上……」


 強く抱きしめてくれる姉の身体は、とても暖かくて優しくて柔らかだった。

 それはとても幸福な温もりだった。


(――ああ、そうか、これは夢なんですね)


 それがもう、自分には決して手の届かない場所にあることを、ローレンシアは徐々に思い出しつつあった。


 姉の優しさも温もりも、今の自分にはもう与えられない。

 それは逃げ出したくなるような事実だった。


(嫌だ、醒めたくない。ずっと夢の中にいたい――)


 ここにいれば、姉は自分をずっと大事にしてくれる。そうすれば自分はずっと子供でいられて、黄金のような時間の中で永遠を得ることができるだろう。


 それでも意識は徐々にこの世界を離れつつあった。小さな彼女は懸命に腕を伸ばしたが、それはやはり、どこにも届かない。


(いやだ、姉上、どこにも行かないでください――ッ!)


 姉の温もりへと手を伸ばした。母の温もりを知らぬ彼女にとっては、姉の与えてくれるものがそれと同等だった。だから役に立ちたかった。なのに、自分は姉を悲しませた。


 真っ暗になった世界で、指先が空を切る。

 もはや絶望しか残されていなかった世界の中で、しかし、ほんのわずかに指先が何かに触れた。


 彼女がそれを離さないように掴むと、相手もまた同じように、まるで彼女のことを離さないとばかりに掴み返してくれたのだった。




μβψ




「あね、うえ――」


 ローレンシアの小さな寝言が聞こえた。

 チヒロが部屋に入った時、女の子はベッドで横になっていた。どうやら寝入ってしまったようで、チヒロはそっとベッド横の椅子に腰を下ろしていた。


「……」


 女の子の頬には涙の跡があった。

 新しい一粒が流れ落ちた。


 いったいどんな夢を見ているのか、ローレンシアはただ悲しそうに、小さく毛布にくるまっていた。


 そこにいるのは、ただの子供だ。魔法使いだとかなんだとか、そんなのは関係がない。大事な人と離れ離れになって、寂しがっているだけの女の子だった。


 うわ言のように姉の名を呼ぶローレンシアの傍らにいて、チヒロは何だか申し訳ない気持ちになってしまった。


「……ごめんね。本当のお姉ちゃんじゃなくて」


 それでもせめて毛布だけでも掛け直してあげようとしたら、不意にローレンシアの手がチヒロの手を掴んできた。

 初めはちょっと驚いたが、何だか一生懸命に掴んでくるので、思わず握り返していた。


 そうしてあげると、ローレンシアの表情に少しだけ変化があった。ちょっとだけ安心したのか、悲しそうな顔が和らいだように見えた。


「……ハルカのやつも、手繋いでやるとよく眠ってたっけ」


 ローレンシアの寝顔に、かつての記憶が自然と重なった。子供の寝顔なんてどれも似たようなものだろう。二人が特別似ているというわけではない。だというのに、何だかあの頃に戻ってしまったかのような感覚がチヒロの中に訪れていた。


 無意識に頬に触れていた。涙の跡をそっと指でなぞると、ローレンシアのまぶたがわずかに震えた。


「……あ、れ? チヒロさん……?」

「あ、ごめん起こしちゃった?」


 ローレンシアがうっすらと目を開けた。


「わたし、寝ちゃってたんですね」

「うん、ぐっすり眠ってたよ。夢でも見てたの?」

「……かも、しれません。見ていたような気もしますけど、いまいち思い出せません」

「そっか」

「チヒロさんはどうしてここに?」

「いや、ローレンシアに謝っておかなきゃ、と思って。さっきはごめん」

 チヒロが素直に頭を下げると、ローレンシアは毛布に少し顔をうずめて、

「……いえ、その、わたしこそすいませんでした。生意気なこと言いました」


 と、申し訳なさそうに言った。


「じゃ、これでお相子だね」

「そういうことで、いいんでしょうか?」


 毛布からおずおずと顔を出すローレンシアに、チヒロはいつもの笑みを向けて言った。


「いいのいいの。これで仲直りってことで」

「ええと、じゃあお言葉に甘えてそういうことで」


 ローレンシアがはにかむような笑みを見せると、チヒロはにかっと白い歯を見せた。


「もう少しだけ、いっしょに考えようよ。一人で考えてもいいことなんて浮かばないしさ。きっといい方法がある。だから、自分さえ消えればいいなんていうのはナシ。わかった?」

「ええと」

「わかった?」

 チヒロの顔がずいっと迫ってきて、ローレンシアは慌てて頷いた。

「わ、わかりました。とてもよくわかりました」

「ならばよろしい」


 うむ、とチヒロは頷いた。

 それから、ふと手元に視線を落とした。


「ところで、この手はいつまで握っていればいいのかな」

「え? 手?」


 そう言われて初めて、ローレンシアは繋がれた右手のことに気づいたらしかった。


「……」


 ローレンシアのことだから、てっきり恥ずかしがって慌てて離すかと思いきや、むしろチヒロの手を小さくにぎにぎし返してきた。


「ん? ローレンシア?」

「いや、あの……」


 ローレンシアは再び毛布に顔を隠すと、


「……もう少し、こうしててもいいですか?」


 と、小さな声で恥ずかしそうに言った。

 女の子の頬にあった涙の跡はもう乾いていた。

 チヒロは、ちょっとだけ驚いた顔をしたが、すぐににかっと笑みを返して、


「うん、いいよ」


 と、自分からも彼女の小さな手を握り返した。


「あ……」


 そうするとローレンシアは恥ずかしそうな嬉しそうな、ちょっとだけどぎまぎした様子で、半分だけ顔を出した状態でチヒロのことをちらちらと見やった。


 こうしていると、ローレンシアは本当に、ただの女の子にしか見えない。

 人間も魔法使いも、手の温もりは何も変わらない。


 二人の間には人間も魔法使いもなかった。

 そこにいたのは、ただの仲のよい姉妹だった。

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