第二章

 チヒロが座り込んでいると、セドリックがやってきて隣に腰を下ろした。


 そこは物干し場だ。いつもローレンシアがシーツを干している場所である。今も、彼女が今朝干したシーツが風に揺られていた。


「ここらへんは周囲の構造物のせいで日当たりが悪いから、あまり洗濯物の乾きはよくないね」


「……ですね」


「まぁ、だからこんなスラムなんて場所になったんだろうけどね。誰も寄りつかない場所だから、どこにも行く場所のない人々が集まってくる。文字通り日陰者だね、我々は」


 セドリックは笑った。


「……ねえ、先生。前から疑問だったんだけどさ」


「ん? なんだい?」


「いや、先生って頭いいのに、なんでこんなところで医者なんてやってるのかなって思って。もっと街中で働いた方が、お金たくさん手に入ると思うんだけど」


「まぁ、そうだね。それは実にその通りだ。だけど、わたしは街中には戻れないのさ」


「どうして?」


「これでも実は、昔はけっこう大きな病院に勤めていたんだけどね。正直、お金もたくさん稼いでいたよ。でもある日、周囲の人間と衝突してしまってね。それで、わたしは病院から追放されたし、世間そのものから追放された。わたしの病院の院長はこのシティの上層部と色々とコネがあったみたいでね。それで、わたしの居場所はどこにもなくなったよ」


「先生が、誰かとケンカしたの? うーん、あんまり想像できないな。何があったの?」


「……ある日のことだ。緊急の患者が運び込まれてきた。大変な事故に巻き込まれて、運び込まれた時にはだいぶ危険な状態だった。すぐにでも手術をせねばならなかったが、ほぼ同時にもう一人患者が運ばれてきた。しかし、そちらは緊急度は低かった。どう考えても最初に運び込まれてきた患者を手術すべきだったが、院長が来てわたしに言ったんだ。後に運び込まれた患者を先に治療しろとね」


「な、なんで? それじゃあもう一人の人死んじゃうんじゃないの?」


「ああ、間違いなく死ぬだろうとわたしも思った。だが、どうやら後に運び込まれた患者は、院長と親交のある有力者の息子だったらしくてね。逆に、危険な状態だった男性は、まぁいわゆる低所得者だった。院長は言ったよ。どちらを先に治療するかは明白だろうって」


「……それで?」


「なんで、わたしはすぐに頷いたよ。わかりましたってね。それで、危篤状態の男性を先に治療して、めでたく病院はクビになった」


「な、なにそれ? めちゃくちゃじゃない!」


「ああ、わたしもそう思った。だが、あの世界ではそれが普通だったんだ。命にははっきりと優劣がある。そういう考え方が当たり前だった。もちろん後悔はないよ、わたしは医者としての本分をまっとうしだんだからね」


「男の人はどうなったの?」


「一命はとりとめた。後遺症もなく、事後も良好だった」


「……そう、それはよかった」


「しかし、もちろん院長はわたしを許さなかった。本来、命に貴賤などない。あってはならない。けれど、ソフィストたちの考え方は違う。価値のない人間は存在する。それがソフィストの考え方であり、シティに住む多くの有力者、富裕層は、みな絶対権力者であるソフィストの考え方に従っている。やつらに取り入りたいんだろうね。まぁいくら取り入ったところで、労働者階級から知識者階級になれるわけはないんだが、それでもソフィストに目をかけてもらうことができれば、それだけで富は約束されたようなものだ。同じ労働者階級ではあるが、彼らはソフィストの側についた人間たちというわけだ」


「……わたしバカだからよく分かんないけど、なんでそんなふうになっちゃうのかな」


「さぁ、どうしてだろうね。わたしもバカなもんで、よくわからないね」


「先生がバカなわけないじゃん。先生がバカだったら、わたしはなんなのさ」


「いや、わたしはバカだよ。そうでなければ、こんな場所になんかいないさ」


「あはは、それはまぁ言えてるね」


「……あの子は、ローレンシアは優しい子だ」


「……」


「そしてチヒロくん、君も優しい」


「……」


「わたしはね、ここに来たことを後悔したことはない。ここにいる人たちは、みんな優しい人たちだ。人というのは、こんなにも他人を思いやれるのかと思った。と同時に、とても悔しくも思った。みんなこんな場所にいるべき人間じゃない。なのに、こんな場所にいるしかない。街のほうでは、スラムは治安が悪いからなんてよく言われるが、まぁ実際そういうやからがいないとは言わないが、それでも、わたしはこの場所が好きだよ。チヒロくんはどうだい?」


「……わたしも、ここは好きだよ。みんないいやつだし」


「ローレンシアくんも、きっとそうだ」


「……」


「きみたちはお互いにこの場所が好きで、お互いのことも好きなだけなんだよ。わたしはいつも、きみら二人は姉妹みたいだと思っていた」


「……姉妹?」


「ああ。仲のいい姉妹だ」


「……そっか、そんなふうに見えてたんだ」


 チヒロは少し笑った。それは嬉しそうでもあり、どこか寂しそうでもあった。


「……いつだったか、先生には言ったことあると思うけど、わたし妹がいたんだ」

「離れ離れになってしまったという妹さんだね」


「そうそう。わたし、元々はこのシティの人間じゃなかったんだ。別のシティで暮らしてたんだけど、ある日親に売られちゃってね。母親は元々いなくて父親しかいなかったんだけど、この父親がもう最悪でね。ことあるごとに人のこと殴るんだよ」


「……」


「わたしと妹はちょっと歳が離れてたから、妹の世話はわたしがずっとしてた。アカデミアにももろくに行けなくて、早いうちから働いてたけど、金はほとんど父親の酒とかギャンブルに消えてったね。まぁほんとにロクなやつじゃないとは思ってたけど、でも一応父親だしって思ってて――でもまぁ、結局はわたしと妹は金で売られちゃったわけよ。お互いに全然別のところに売られて、そっから妹とは一度も会ってない。もちろん父親ともね。そんでなんかよくわかんないうちにこのシティへ連れてこられたんだけど、そしたらわたしを買ったはずのやつが、すぐに治安維持管理局に犯罪者としてとっ捕まってね。なんか金持ちだったらしいけど、まぁ名前も覚えてないや。そんでわたしはどさくさに紛れて逃げて、いまはここにいるわけ」


「……そうか。大変だったんだね」


「いや、わたしはまだ運がよかったんだよ。そいつが捕まってなかったら、今ごろどうなってたか。でも妹のほうがどうなったのかは、今もずっと気がかりで。売られた先がまともだったらって思うけど、金で人間を買うような連中なんてそもそもまともじゃないわけだし」


「……」


 ニューアトランティスでは人身売買はよくあることだった。ここでは人間の権利は金で買えるのである。本人の同意なしに不当に身柄を拘束することは法に触れるが、本人の同意を金で買えば人身売買は成立するのだ。


 金を貸し付ける連中は、様々な理由で債務者が払えなくなってしまった正規市民税を肩代わりしてやる代わりに、同意の上でその人間の権利を全て手に入れる。それが契約上問題なければ、法に触れることはない。正規市民ではいられるが、結局は奴隷に成り下がるわけである。そうなると人間は『商品』でしかなくなるので、どう扱おうが権利者の好き放題、というわけだ。


「でも、実はあんまり心配してないんだ。あいつは――あ、妹はハルカっていうんだけど、ハルカは頭よかったし、肝も据わってたからね。ローレンシアとちょっと似てるところはあるかもしれないね。年齢も似たり寄ったりだし。はは、でも、そっか。わたしとローレンシアって、そんなふうに見えてたんだ。全然意識してなかったや」

「……」


 ローレンシアにも姉がいたらしい。お互いに、失ってしまった姉妹の影を見ていたとしても、それは無理からぬことだろうとセドリックは思った。


 チヒロはいつもの笑みを浮かべると、


「ごめん先生、騒がしくしちゃって。わたし、ちょっとローレンシアに謝ってくるわ」


 と言って立ち上がった。さっきまであんなに怒っていたのに、もうけろりとしている。


「ああ、そうしてあげなさい。彼女なら、いまは自分の部屋だ」

「あいよ。サンキュー、先生」


 チヒロは後ろ手をふりながら建物へ戻って行った。

 セドリックはやれやれと言いたげに、その背中を見送った。

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