3.力の代償

第一章

「あー……今日も疲れ――てない!」


 チヒロはいきなり大声で言った。通りがかりの男が驚いていたが、彼女は気づいてない。


 仕事終わりの帰り道だった。


「あー、危ない危ない。思わず疲れたって言っちゃうところだったよ……疲れたって言ったら疲れちゃうからね。でも、疲れてないから大丈夫。うんうん」


 さて、とチヒロは荷物と担ぎ直し、ついでに気を取り直して歩き出した。

 仕事終わりで疲れていないわけがなかったが、彼女は決して疲れたとは言わなかった。それを言うと本当に疲れてしまうからだ。


 そうなるともう、明日が嫌でしょうがなくなる。なので疲れたとは言わない。疲れてないので、つまり明日も大丈夫だいう理論である。


 彼女が働いているのは廃棄物処場だ。回収車でシティを回って廃棄物を集積場に集めて、外の廃棄場へ大型の輸送オート・モービルで運ぶ。一日の流れは実に簡単だった。新しく覚えることもない。腕力さえあれば誰にだってできる仕事だ。


 仕事柄、彼女はシティのあちこちを移動している。もちろん市街地だって回っているが、そこは本当にスラムとは別世界のようなところだ。


 行きかう人々はきっちりスーツを着たり、オシャレをしたり、本当に色んな人が行き交っている。サラリーマンというやつは、みんな一家に一台、オート・モービルを持っているものらしい。


 チヒロにはきらきらして見える場所だが、一般的に見ればああいう生活のほうが『普通』らしいのだ。むしろスラムのほうが異質で、治安が悪いから近寄らないように『普通』は言われるらしい。


 仕事の帰り道はいつも同じ場所を通る。自分にとっては見慣れた道だ。確かに市街地とは何もかもが違う。道端でおっさんが寝ていることは、街中ではまずあり得ないだろう。


 シティでの生活には金がかかる。住む場所にも食べるものにも、金がなければまともな生活はできない。そもそも正規市民権も得られない。


 チヒロはニュースなんてあまり見ないが、たまに目に入ったニュースでうん十臆NA(ニューアトランティス)ドルの金がどうのなんて聞くと、世の中のどこにいったいそんな金が存在しているのか不思議でしょうがなかった。


「あー、どっかにお金たくさん落ちてないかなー……わぷぁ」

 無いものをねだっていたら、飛んできたチラシが顔に張り付いた。

「ちょ、なによこれ! 金じゃない紙きれなんていらねーっての!」

 怒りに任せて丸めてやろうとしたが、ふと中身が眼に止まった。

「……ん? 懸賞金?」


 金の臭いがしたので、もう一度チラシを開いた。

 それは治安維持局が発行したものらしく、こう書かれていた。


 ――右腕にこのような入れ墨をした人物を見かけたら、治安維持局までお知らせください。


 例として載せられている紋様は、どこかで見たことがあった。


「……ていうか右腕に入れ墨? それにこの紋様――」


 チヒロははっとした。条件に当てはまって、かつ似たような紋様を持っている人間を、自分は知っているではないか。

 その紙切れは手配書だった。凶悪犯の可能性ありとされており、しかもそこに記された懸賞金の額はとんでもなかった。


「……ええと、これいくらなの? いち、じゅう、ひゃく――」


 桁を何度か数えた。間違えたと思ってもう一度数えたが、間違ってなかった。


「……わたしの給料の何年分だこれ」


 俄かには信じられない面持でそれを食い入るように見ていると、


「それについて何か心当たりがおありですか?」


 と、いきなり声をかけられたので、思わず肩がびくっとなった。


 振り返るとポリス・マトンが立っていた。治安維持用のオート・マトンである。全身が黒いプロテクターに覆われており、顔すら見えない。不自然なくらいにはきはきとした口調だった。


 チヒロは慌てて首を振った。


「い、いえ、その、すごいお金だなと思ってただけです」

「そうですか。もし、そのような人物を見つけたら、我々に通報してください。とんでもない凶悪犯ですので」

「は、はあ。そんなにすごい凶悪犯なんですか?」

「第一級反逆罪とのことです。都市の治安を守るためにも、ご協力をお願いいたします」

「あ、はい。わかりました」


 ポリス・マトンは丁寧に頭を下げると、その場から立ち去った。


「……」


 チヒロはしばらく普通に歩いていたが、段々と早足になって、しまいには走り出していた。


「ひー、えらいこっちゃ……ッ!」




μβψ



「……なるほど」


 セドリックは難しい顔で腕を組んでいた。

 テーブルの上には手配書が置いてあって、チヒロはよほど走ってのか、ぜえぜえと息を切らせていた。


「チヒロさん、お水です」


 ローレンシアから差し出された水を一気にあおいで、ようやく人心地ついた様子だった。


「はー……生き返った」


 大きく息を吐いて、すとん、と椅子に腰を下ろした。


「チヒロくん、これはどこで?」

「ええと、何か歩いてたら飛んできて顔に張り付いてきて……そしたら今度はポリス・マトンが話しかけてきたのよ。そんなやつを知らないかって。これって、どう考えてもローレンシアのことだよね?」

「恐らく――いや、間違いなくそうだろうね」

「や、やばくない? これやばいんじゃない?」

「いや、まだ慌てるのは早いだろう」


 セドリックの顔は険しかったが、その態度はまだ落ち着いたものだった。


「これを見たまえ。この手配書には、ローレンシアくんの容姿について一切触れていない。やつらも知らないんだよ。恐らく、向こうはパンタシアグラマーが存在する可能性に気が付いているだけなんだと思う。ローレンシアくん」

「はい?」


 チラシを眺めていたローレンシアは顔を上げた。


「君は、右腕の紋様――ソースコードというのを、わたしたち以外の誰かに見られたことがあるかい?」

「いえ、ないと思います。あまり人に見られないよう、セドリックさんに前もって言われていましたし、包帯も巻いてますから」

「そうか。ならば、ひとまずは安心してもいいだろう」

「ほ、ほんと?」


 自分のことのように狼狽するチヒロに、セドリックは頷いて見せた。


「ああ。すぐにこの場所が嗅ぎつけられることはないはずだ」

「そ、そっか。そりゃよかった……」


 安心したのか、チヒロは椅子に座り込んでしまった。


「……」


 その横で、ローレンシアは手配書を見ながら険しい表情を浮かべていた。


 セドリックはううむ、と唸った。


「しかし、やつらはなぜパンタシアグラマーの存在に気が付いたんだ……? 何かやつらに気取られるようなことがあったのか……チヒロくん、ローレンシアくんを見つけた時のこと、ちょっと詳しく教えてくれないかい?」

「え? ええと、そういや、あの時なんかすごい光がぴかーって光ったわね。耳鳴りみたいな音もしてたし。そんで光ったほうに行ったらローレンシアが倒れてて」

「……ふむ」

「あ、それとエニィウェアが圏外になってたかな。ローレンシアを見つけた時、オペレーターにどうすればいいか聞こうと思ったんだけど、繋がらなくて。いつもなら圏内のはずの場所だったんだけど」

「ん? チヒロくん、エニィウェアを持ってたのかい?」

「いや、業務用のやつだからわたし個人のじゃないけどね。ていうか、スラムで個人的にエニィウェアを持ってるやつなんていないんじゃないの?」

「まぁあれは持ってるだけでお金もかかるしね……しかし、なるほど。エニィウェアが繋がらなかったということは、一時的にネットワークに障害が発生していたということか。しかもちょうど同時刻、謎の発光現象があった……これだけ異常があれば、ソフィストたちが気づかないわけがないか。やつらにはパンタシアグラマーとそれらの現象を結びつけるだけの根拠データがあるんだろう」

「ねえ、先生、本当に大丈夫かな? やつらここにいきなり来たりしないかな?」


 チヒロはまた心配そうだった。まるで自分のことのようですらある。

 セドリックは安心させるためか大きく頷いた。


「大丈夫だろう。さっきも言ったけど、やつらはパンタシアグラマーが存在する可能性を掴んではいるが、ローレンシアくん個人の情報は何も持っていないはずだ。持っていたら、絶対にもっと詳細な手配書になっているに違いないからね」

「な、なるほど。そりゃもっともだ」


 セドリックの理にかなった推論は、チヒロの不安を和らげるのに十分なものだった。

 チヒロはひとまず安堵して、


「ん? どうしたの?」


 と、なにやら難しい顔で手配書を見ているローレンシアに気が付いた。


 彼女はすぐには答えなかったが、やがてゆっくりと顔を上げた。


「なら、わたしはやはり、ここにはいないほうがいい――そういうことになりますね」


 チヒロは驚いた顔をした。


「え? ちょ、なんでそうなるのよ! 話聞いてたでしょ? あいつら、まだあんたの見た目とかは知らないから大丈夫だって!」

「それは確かにそうかもしれません。けど、それは『まだ』気づかれてないだけです。いつかは気が付かれる可能性だって十分――いや、必ず気づかれます」

「そりゃ確かに、そうかもしんないけどさ」

「……そろそろ頃合いなのかもしれません。助けていただいた恩を返すにはまだまだ、全然足りてなんていませんけど、そのために二人に迷惑をかけてしまうんでは意味がありません」

「ローレンシアくん……」

「それにずっとここにいられるなんて、わたしも思ってはいませんでした。わたしは今のこの世界の人間じゃない。この世界にとってわたしは異物なんです。だから、わたしがいることで、本来あるべきものが失われることだってあり得る。だから――」

「そんなの、絶対ダメだよ!」


 チヒロはいきなり立ち上がって、ローレンシアの言葉を遮った。


「ローレンシアは異物なんかじゃない! ここにいちゃいけないなんてこと、絶対ないよ! みんなとだって仲良くなったじゃん! ルーシーやマリーともさ! マリーなんか、あんたがいなくなったら絶対泣くわよ!?」

「……だとしたら、嬉しいですね」

「う、嬉しい?」

「はい。わたしがいないことを悲しんでくれるのは、とても嬉しいことです。でも、わたしがいなくなっても、また元の通りになるだけです。わたしがいなくなったくらいじゃあ、何も変わりません」

「――このバカ!」


 チヒロはいきなりローレンシアの頭を叩いた。


「ちょ、ちょっとチヒロくん、暴力は――」


 セドリックは慌てて取成そうとしたが、チヒロが目に涙を浮かべているのを見て、思わず言葉を飲み込んでしまった。


「~~っ! どんだけ石頭なのよあんたは!」

「い、いきなり叩くことないじゃないですか! というかあなたが怪我するのでやめてください!」

「いいや、やめないね! あんたがバカなこと言う限り、わたしはあんたを殴るのをやめないよ!」

「チヒロさんの手が折れるのでやめてください!」

「いやだ! 絶対にいやだ! わたしの手を折りたくなかったら、さっき言ったこと撤回しなさい!」

「む、無茶苦茶です……」


 それはとても妙な光景だった。チヒロのほうが手をあげているはずなのに、痛がっているのはチヒロのほうなのだ。叩かれたはずのローレンシアは、むしろけろりとしている。彼女は見た目こそ小さな女の子だが、やはりただの人間ではないのだ。


 チヒロは目に涙を溜めていた。それは手が痛いからというのももちろんあったが、心の痛みが原因でもあった。


 とにかく、無性に腹が立ったのだ。自分さえいなくなればいいと本気で思っているローレンシアに対して、チヒロは自分でも驚くほど腹が立っていた。


 どういう言葉にすればこの感情が表現できるのか。

 考える前に、チヒロはもう手が動いてしまっていた。

 うぐぐ、と涙目のチヒロに睨まれて、ローレンシアは戸惑っていた。


「な、なんでチヒロさんが泣くんですか」

「泣いてないわよ!」

「どう見ても泣いてます!」

「泣いてない!」

「そういうあんただって泣いてるでしょうが!」

「わ、わたしは別に泣いてなんて――あれ?」


 頬に触れると、なぜか指先が濡れていた。

 涙だった。どうやら自分は泣いていたらしいと、彼女は初めて気が付いたようだった。


「ほら、やっぱ泣いてんじゃん!」

「な、泣いてません! 泣く理由がありません! これは汗です!」

「目から出る汗を涙っていうのよ!」

「言いません! 聞いたこともないですよそんなの! バカですかあなたは!」

「何をこの! もう切れたわ、そんなに出て行きたいっていうなら、今すぐに叩きだしてやるわよ!」

「お、落ち着いてチヒロくん。言ってることがめちゃくちゃだよ」

「先生は黙ってて!」

「う、うん」


 チヒロに睨まれて、セドリックは大人しく後ろに下がった。

 再び、彼女はローレンシアを睨んだ。

 すると、相手も負けじと睨み返してきた。


「あんたは、そんなにもここから出て行きたいのね? 絶対に絶対に、なにがあっても、こっから出て行きたいって、本気でそう思ってるのね?」

「……わたしは、出て行くべきなんです」

「そんなことわたしは聞いてない! 出て行きたいのか、出て行きたくないのか、答えなさいよ!」

「そんなの、出て行きたくないに決まってるじゃないですか!」

「じゃあ出て行かなきゃいいでしょうが!」

「だから、それじゃあダメなんです! それじゃあ、みんなに絶対迷惑かけてしまいます!」

「そんなの知るか! あんたが出て行きたくないって思ってるなら、そうすりゃいいのよ!」

「でも、でもそれじゃあ――」

「出て行くべきだなんて考え方、そんなのただの我が儘なのよ。わたしも先生も、ここに来てるみんなに聞いたって、誰もあんたに出てって欲しいなんていうやついるわけない」

「……そう、ですね。みんないい人たちですから。チヒロさんもセドリックさんも、みんな優しい。だから、だからこそ、迷惑かけたくないんです」

「……ッ! この分からず屋! 勝手にしなさいよ!」

 チヒロは強く歯ぎしりして、大股で部屋から出て行った。

「……」


 ローレンシアはそれを止めることができなかった。

 頬を流れる涙も、止めることができなかった。


「……ローレンシアくん。少し休みなさい。チヒロくんも、頭が冷えれば戻ってくるだろう」

「……セドリックさん。すいません、騒がしくしてしまって」

「気にすることはない。なに、お互い少し冷静になってから話せば、きっと大丈夫だ」

「……はい」


 セドリックに促されて、ローレンシアは自分の部屋に戻った。

 部屋と言っても物置だった場所を多少片付けてベッドを置いただけなのだが、今ではそれが彼女の部屋だった。


 ローレンシアを見送ってから、セドリックは「さて」とチヒロを追うために外へ出た。

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