第四章

 心と現実の時間の流れが一致しないまま、それでも日々は動き続けた。


(わたしがこの世界に来た意味――)


 ここ数日、ローレンシアはふとした折にそれを考えていた。

 それで気が付くと手が止まっているので、また慌てて手を動かす――といったことを何度か繰り返していた。


(なんでだろう。どうしてわたしだけ、こんなところにいるんだろう……姉上は、どうしてここにはいないんだろう――)


 自分に戦える力があれば、姉の姿も今ここにあったのだろうか。

 そう思うと悔しくてしょうがなかった。


 現実に『もし』はない。

 現実にはたった一つの時間の流れしか存在しない。

 仮に別の流れが存在したとしても、それは異なる現実であって、自分自身の現実ではない。与えられなかったものは消え、与えられたものしか手元には残らない。


 結果には原因がある。だとするのならば、この結果をもたらしたのは、自分が無力だったことが原因なのではないだろうか。


(わたしに力が、もっと力があれば――)


 思考の迷路の出口は、いつだってそこにたどり着いてしまうのだった。


 セドリックがスラムに開いている病院での日々は、目まぐるしく過ぎていった。

 と言っても、そこは病院などというほど立派なものではなかった。


 そもそもこんな環境下だから、治療に使うためのものは最小限しかない。

 しかもセドリックというこの初老の男は、ほとんど無償で患者を診ているので、収入らしい収入などほとんどないのだ。


 それでも細々とここが続いているのは、セドリックを支えようとする周りの人々が存在するためで、彼らはお互いに支え合うことで、このスラムという場所の中で懸命に生きていた。


 病院には色々な人々が訪れた。

 もう長いこと病気を患っていて、定期的に病院を訪れる人間も多かった。そうした人々は自然と顔なじみになるので、ローレンシアも自然と名前を憶えていった。


 怪我をしたということで運び込まれてくる人もいた。スラムの住人に回ってくるような仕事など、日雇いの肉体労働などがほとんどだった。彼らは日銭を稼ぐために生きて、生きるために日銭を稼ぐという生活を毎日ずっと続けている。肉体を酷使した結果、身体を壊したというものはとても多かった。


 ローレンシアは少なくとも身体は元気になっていたので、病院での仕事を手伝っていた。気が付くと住み込みのお手伝いみたいになっていて、すでに色んな人に名前を覚えられるまでになっていた。


 周囲を見渡してみれば、仕事はいくらでもあった。

 これまでセドリックはほとんど一人で病院を切り盛りしていたようで、私生活など無いも同然だったのだろう。彼はとにかく他人には人一倍気を使うのだが、自分自身のことは完全に無頓着なのだ。


 自然と力仕事はローレンシアがやるようになっていた。チヒロも以前からよく病院の仕事を手伝いにきてくれていたようで、力仕事なんかはやっていたようなのだが、彼女にも仕事があるのでいつでも来れるわけではない。

 なので、ローレンシアの存在はセドリックにとっては、かなりありがたいものになっていた。


 だが、ローレンシアはセドリックから一つ忠告を受けていた。


「ローレンシアくん。君のその怪力は、あまり人前では発揮しないほうがいい。明らかに不自然だからね。ぼくとかチヒロくんになら構わないが、人前では加減するんだ。もし君の存在が万が一、ソフィストに知られようものなら、やつらは絶対に君のことを逃さないはずだからね。あと、その右腕の刻印も人に見られないように。ソフィストのことだから、それが魔法使いの証だということを知っている可能性は十分にある」


 それは確かにそうだとローレンシアは思ったので、人前ではなるべく加減するようにしていた。服装もいつも長袖の服を着て、刻印は包帯を巻いて隠した。


 セドリックの言った『意味』とやらはまだ分からない。

 心の奥底では焦るような気持がくすぶり続けているが、それを打ち消そうとするかのように、ローレンシアはとにかく手を動かしていた。


 ――お前が王となって、みなを守るのだ。


 あの時のカサンドラの言葉がよみがえったが、それはローレンシアには到底背負い切れるようなものではなかった。


(……わたしなどでは〝サイクロン〟を背負うことなど、到底できるはずがありません)


 それは諦観と、姉や全ての人々に対する申し訳なさが綯交ぜになった感情だった。確かに〝王〟の力を受け継ぐことができるのは直系だけだ。自分はその条件を満たしてはいるが、その資格には到底及ばない。


 ただちょっと力が強いだけの自分にできることなんて、たかが知れている。その度に、他のみんななら、姉上なら、きっともっとすごいことができただろうにと思ってしまう。


 なぜ自分なのか、という自問は終わらず、答えは出てこない。


 それでも、やらなければならないことは、いくらでもあった。マジェスティックは受けた恩は必ず返す。王家の名に泥を塗ることは彼女の矜持が絶対に許さなかったし、それ以上に自分の力が誰かの役に立っているというのは、たまらなく嬉しいことだった。


 そんなふうにして日々は過ぎていった。


「ふう……まぁこんなもんですかね」


 取りかえて洗濯したシーツを全て干し終えて、ローレンシアは一息ついた。

 白いシーツはすぐに汚れる。だからこまめに洗濯するわけだが、これがまたけっこうな重労働だった。


 この辺りには水が出る場所も限られている。誰かが勝手に水道を引き込んだ水場があって、周辺住民はそこで水を汲んだり、集まって洗濯をしたりしている。病院とそこの往復でもしんどいし、洗ったものを持ち帰るのも普通の人には一苦労だろう。


「これまではみんながかわりばんこに洗濯してくれてたって、セドリックさん言ってたっけ」


 セドリックの病院は、スラムの人たちにとっては公共の場という感覚のようで、そろそろ老いも見え始めてきた不養生な医者に代わり、手の届かないところは誰かがやってくれていたのだという。


 そのせいか、ローレンシアが住み込みの形で働くようになって、そういった仕事をこなしていると、ことあるごとに周囲の人から感謝されてしまうことになった。


 誰も彼も仕事があって、空いた時間に支え合っていた。できることもあれば、できないこともあった。別にローレンシア自身は感謝されるようなことをしているとは思わないのだが、彼女が働けば働くほど、ありがとうと言われてしまうのである。


「……わたし何かでも、役に立ててる……のかな。そうだったら嬉しいですけど」


 彼女がここに来てから、病院は明らかに以前よりも綺麗になっていた。ここの人たちはそもそも、病院がそれなりに汚いということに気が付いていなかったのだろう。ローレンシアが綺麗にした状態を見せられて、初めてそのことに気が付いたという人も多かった。


 足音が聞こえた。

 振り返ると、向こうから誰かがやってくるところだった。


「あれは……ルーシーさんとマリーですね」


 現れたのは子連れの女性だった。

 ルーシー・パターソンはチヒロの同僚の女性だった。彼女たちの仕事は、ようは不要なものを集めてシティの外にある廃棄場へ持っていき、そこでリサイクルされた資材を持って帰るというような仕事らしい。

 

 廃棄物処理業者、というやつだそうだ。かなり重労働なようで、そもそも女性がやるような仕事ではないらしいが、そういった仕事しか余ってないのだという。


 チヒロはいかにも健康的で、男顔負けの腕力で仕事をこなすそうだが、ルーシーは違った。線の細いラインはいかにも女性らしくて、とても力仕事に向いているとは思えなかった。


 マリーはルーシーの子供である。まだ三歳くらいの女の子だ。見た感じは元気そうに見えるのだが、生まれつき病弱で、こうして定期的にセドリックのところへ通院しているのだった。


「どうもルーシーさん、マリー」


 ローレンシアが出迎えると、ルーシーは微笑みを返した。


「あら、ローレンシアちゃん。こんにちは」


 女性らしい柔和な笑みだ。チヒロのように日焼けはしているが、彼女とは受ける印象がまったく違う。年齢はそんなに変わらないと聞いたのだが。これが母親の持つ雰囲気ということだろうかと、母親を知らないローレンシアは漠然と思った。


 そんなやりとりをしていると、マリーがローレンシアに飛びついてきた。


「おっと」

「あ、こら、ダメでしょマリー」

 ルーシーが叱ったが、マリーはローレンシアにくっついたまま言った。

「マリー、お姉ちゃんと遊ぶ」

「ダメよ。お姉ちゃんはお仕事で忙しいの」

「いやー! 遊ぶのー!」

「我がまま言うんじゃありません!」

「ま、まぁまぁルーシーさん。別にかまいませんよ。ちょうど洗濯も終わったところですし」


 ローレンシアが取成すと、ルーシーは申し訳なさそうに言った。


「いつもごめんなさいね。マリーったら、ほんとあなたと遊ぶの好きみたいで」

「いえいえ、いいんですよ」


 ローレンシアはさも遠慮するように言ったが、実は内心では満更でもなかった。


(わたしがお姉ちゃん……うーん、悪くないです)


 何だかわからないが、そう呼ばれると込み上げてくるものがあった。

 ローレンシアはしゃがみ込んで、マリーと同じ視線になった。


「マリー、わたしと遊ぶのもいいですけど、その前にちゃんとセドリックさんに診察してもらいましょう。それが終わってからなら、いくらでも遊んであげますから」

「ほんと!? じゃあ診察する!」


 そう言うや否や、マリーは建物の中に飛び込んでいった。


「もう、マリーったら……前はあれだけ診察嫌がってたのに」

「まぁ、苦い薬を飲むのが嫌だったんでしょうね。よく効くいい薬ではあるんですが」

「でも、あなたが遊んでくれるようになってから、逆にここに来たくてしょうがないみたいでね。診察の日でもないのに連れてけってうるさくて」

 ルーシーはやれやれといった様子だったが、表情は優しかった。

「いえ、わたしなんかで役に立てているなら、願ってもないです」


 そう言うと、ルーシーは心底感心したように言った。


「ローレンシアちゃんってほんとしっかりしてるわね。チヒロよりもずっとしっかりしてるわ」

「いえ、そんなことは。それにチヒロさんだってしっかりして……ると思いますよ」

 少し言い淀んでしまった。まぁ確かに言われてみれば手がかかることはけっこうあるかもしれないな……とか思ってしまったのだ。

「あら、ちょっと言い淀んだわね」

「い、いえ、決してそんなことは……」


 良く言えばおおらかで、悪く言えば大雑把。普段は何事にも頓着しないくせに、時おり妙に変なことに拘って偏屈になることもある……という気分屋なところは、確かにある。


 けれど、知り合いでも何でもない自分を、一番初めに助けてくれたのが彼女なのだ。ルーシーを経由して後で知ったことだが、彼女はローレンシアをこの病院に連れていくために、その日は途中から仕事を休んでしまったらしい。次の日は上司にめちゃくちゃ怒られていたらしいが、彼女がそのことを自分から口にしたことはない。


 彼女は定期的に病院に顔を見せるが、それは以前からの習慣というのもあるだろうが、セドリックが言うには「ローレンシアの様子を見に来てるんだろう」ということでもあるらしい。


「……でも、チヒロさんはとてもいい人です。それはわかります。わたしなんかにとてもよくしてくれてますから。まぁ確かに子供っぽいところもあって、たまに言い合いにはなりますけど……」

「あなたたちって、何だか姉妹みたいだものね」


 ルーシーはくすりと笑った。


「姉妹、ですか? うーん……だとするとチヒロさんがわたしの姉かぁ。姉上とは全然違う姉だなぁ……」

「姉上? あなた、お姉さんがいるの?」

「ええ。それはもう自慢の姉上がいます」

 ローレンシアは胸を張って言ったが、すぐに肩を落としてしまった。

「いや、いた――というべきなんでしょうか」

「あ、ごめんなさい、わたしったら……」

「いえ、気にしないでください。わたしが情けない顔などしていたら、それこそ姉上に合わせる顔がありませんから」

「……」

「ああ、いや、すいません。わたしの話なんてどうでもよかったですね」

「そんなことはないわ。でも、そうだったの。あなたも姉妹と離れ離れに……」

「? あなたも、というのは?」

「あ――」


 ルーシーはしまったという顔をしたが、少し迷う素振りを見せてから、小さな声で言った。


「……チヒロもね、妹がいたらしいの。ちょっとだけそんな話を聞いたことがあるわ。今は所在がわからないらしいんだけど。年齢も、たぶんあなたと同じくらいだったんじゃないかしら」

「そう、だったんですか? 初めて聞きました」


 ローレンシアが驚いていると、ルーシーは小さな声のまま続けた。


「チヒロは――あいつは、あんまり自分の弱点とか人に見せたりしないのよね。そのくせ、自分のほうからは相手の世話を焼きたがるというか、面倒見がいいのよ。まぁお節介なのよね、つまるところはさ」

「それは確かに、そうかもしれませんね」

「でしょう? もうほんと、しかたのないやつなのよ、あいつはさ」


 そう言いつつも、ルーシーの『仕方ない』は優しかった。きっと二人は長い付き合いなのだろうな、というのが言葉からにじむ雰囲気で察せられた。


 二人の元へ横から声がかけられたのは、ちょうどその時だった。


「ああ、ここにいましたかパターソンさん」


 三人組の男が立っていた。

 一人は白いスーツを着た中肉中背の四〇歳くらいの男で、何をとってもあまり特徴というものが見当たらない、いかにも『普通』の男だった。


 だが、その男の後ろにいる二人は、見るからに強面だった。

 どちらも屈強な肉体の持ち主で、同じダークグレイのスーツに身を包んでいるが、盛り上がった筋肉のせいでかなり窮屈そうだった。

 大男二人を従えた『普通』の男は、いかにも無害そうな笑みを浮かべていた。


「あなた、どうしてここに」


 男たちの姿を見た途端、ルーシーの顔色がさっと変わった。それは明らかに警戒しているものだったので、ローレンシアも思わず身構えた。


「いや、さっき家のほうに行ったんですがね、どうもお留守だったみたいなので。もしかしたらここにいるんじゃないかと」

「こんなところまで来て何の用ですか」

「何の用とは、それはもちろんパターソンさんも分かってることだと思いますがね」

「ルーシーさん、この人たちは?」


 ローレンシアが警戒しながら訊くと、ルーシーはすぐにぎこちない笑みを浮かべた。


「なんでもないのよ、ローレンシアちゃん。この人たちはわたしの知り合いの人だから」

「そう、なんですか?」

「ええ、そうよ」


 確かに知り合いではあるようだが、どう見ても友好的な知り合いではない。その証拠に、ルーシーの顔はずっと強張っていた。


「その子供は?」


 男がローレンシアを見やると、ルーシーはその視線を遮るようにさっと間に入った。


「この子はマリーの友達の子よ。そんなことより、話があるならここから移動しましょうか」

「ああ、そうですね。まぁ確かに、あまり他人に聞かせられるような話じゃないですからね」


 ひひひ、と白いスーツの男は嗤った。その嗤いの中に、ローレンシアは男が被った『普通』の仮面の中にある本性の一端を垣間見たように感じた。


(……この人、全然目が笑ってない)


 ローレンシアには、男の顔が不気味なものに見えた。人当たりの良さそうな顔をしてはいるが、目だけはまったく笑っておらず、つねに相手を品定めするかのように見ているのだ。


「ごめんねローレンシアちゃん、わたしちょっとこの人たちとお話があるから。もしマリーが診察が終わって出て来たら、悪いけど遊んでてあげてくれないかしら」

「はい、それはいいですけど……」


 ローレンシアが物言いたげな視線でルーシーを見上げたが、彼女はぎこちない笑みを返して、一言だけこう言った。


「このことは、チヒロやセドリックさんには黙っておいて。お願い」


 ルーシーは男たちと共に病院から離れていったが、その際、ローレンシアの耳にわずかながら会話が届いた。


「――パターソンさん、もう返済期限は過ぎてるんですよ。このままだと利息が増えるばかりだ。こちらにも限界というものがあるんですよねえ」

「だから、もう少しだけ待って――」


 会話の内容はローレンシアにはよくわからなかったが、不穏な空気だけは伝わって来た。


「……」


 ローレンシアはルーシーのことが気がかりだったが、しばらくしてマリーが中から出てきたので、慌てて表情を取り繕った。


「あれー? おかーさんは?」

「あ、ええと、ルーシーさんなら、ちょっと出かけると言ってました。でもすぐ戻って来ると思うので、それまでわたしと遊んでましょう」

「ほんと!? わーい、あそぶー!」


 マリーは元気いっぱいに笑った。

 ローレンシアも屈託のないマリーの笑顔に釣られて思わず笑みをこぼしたが、さきほどのルーシーの言葉と表情が、いつまで経っても心の中から消えなかった。

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