第三章

 室内に戻った三人は、小さなテーブルを囲むように席についていた。


 そこは病院として使っている部屋ではなく、セドリックが私室として使ってきた部屋だ。室内はとても簡素で、ベッドとテーブルと、簡単なキッチンぐらいしかなかった。


 テーブルの上にはいくつかの本が置いてあった。どれも歴史に関する本である。その内の一つを開きながら、セドリックは口を開いた。


「――この大陸にソフィストがやってきたのは今から百年ほど前のことだ。君の感覚ではきっと、もっと近いんだろうが」

「そうですね……ニューアトランティスが大陸に侵攻を開始したのは、わたしがまだ二歳くらいの時だったはずです。ですので十年前くらいのことですね」

「なるほどね……」

「どうかしましたか?」

「いや、すまない。まだちょっと実感が伴わないものでね。続けよう。ニューアトランティスがこの大陸へ来た時には、すでに別の国家が存在していた。それが君たちの国エンテレケイアだ。ええと、ニューアトランティスは当初、この国家との平和的接触に臨んだが、独裁的なパンタシアグラマーたちはそれに応じず、むしろ敵対的にこれに応じた。加えて、パンタシアグラマーたちは人間を下等な人種として不当に扱っていて――」

「ちょ、ちょっと待ってください! 何ですかそれ! どういうことですか!」

 ローレンシアは立ち上がり、激しい憤りをあらわにした。

「ま、まあまあ、落ち着きなってローレンシア。先生は本に書いることをそのまま言ってるだけなんだから」

「その本、ちょっと貸してください」


 ローレンシアはセドリックから本をひったくると、親の仇でも見るみたいに――実際、親の仇なのだが――ページを捲っていった。


「……なんか、ところどころ理解できない単語はありますけど、エンテレケイアが扱下ろされているのはわかります。〝悪の大国(イーヴィル・エンパイア)〟とはよくも言ってくれたものですね……」

「ニューアトランティスの言い分では、エンテレケイアはそういう国ということになっているんだよ」

「事実と違いすぎます! 魔法パンタシアグラムは臣民を導くための力であって、彼らを苦しめるために使うなんてあり得ません! そもそも一方的に戦争をふっかけてきたのもニューアトランティスで、そのせいで冥央海戦争ギガント・マキアになったんですから!」

「そのギガント・マキアというのは?」

「エンテレケイアとニューアトランティスの戦争のことです」

「なるほど。君たちはそう言っているのか。今の時代では先の大戦はパラダイム・シフトと呼ばれていてね、それこそが文明の開闢――人類の新しい歴史の始まりだというふうに言われているんだよ」

「人類の新しい歴史? あの殺戮をソフィストたちはそんなふうに言っているんですか――?」


 ギガンテスは全てを灰と瓦礫に変えた。やつらが通り過ぎた後に残ったものなど何もない。あの破壊と殺戮が人類の新しい歴史だと玄学者は言うらしい。


 ローレンシアは大きく息を吐くと、大人しく座り直した。


「……すいません、ちょっと取り乱しました。続けてください」

「……君のそうした憤る姿を見ていると、これが史実とはだいぶ違うというのがよくわかるね。勝ったほうは言いたい放題というわけだ」

「……エンテレケイアは、魔法使い(わたしたち)は、本当に負けてしまったんですね」


 ローレンシアは世界地図が載せられたページに、やや伏せ気味に視線を落とした。

 そこに描かれた欧亜大陸の輪郭は、彼女もよく知っているものだ。しかし、そこにはエンテレケイアの文字はどこにもない。


 見たことも聞いたこともない地名があちこちに書いてあって、そこには彼女が過ごした故郷の面影は微塵も残っていなかった。


「あの、この〝ヴォイド〟というのは何ですか?」


 地図の大半を占める空白の地帯には、ただ一言だけ〝void〟と書かれていた。


「それはつまり、砂漠地帯のことだよ。〝何もない〟――だからヴォイドと呼ばれている」

「何もない、ですか……?」

「ああ、何もない。シティやプラント以外の場所は全て砂漠なんだよ」

「そんな……」


 ヴォイドは地図の大半を埋め尽くしていた。

 これを信じるのなら、大陸に人の住む場所なんてほとんどなかった。

 その空っぽの中に、いくつかの名前が点在しているだけだ。


「……これ、ところどころに書いてあるのが、今の世界の街の名前ですか?」

「そうだね。人が住んでいるところは大別して二つあるんだよ。シティかプラントだ」

「その二つは何か違うんですか?」

「シティは正規市民が暮らす場所で、プラントは非正規市民が送られる場所だ」

「……? 何ですか、そのせーきとかひせーきっていうのは?」

「正規市民というのは、市民管理番号を与えられた人間のことだよ。これがなければシティでは暮らしていけない。もちろん、わたしやチヒロくんにも割り振られているわけだが、これを貰うために毎月決められた税金を収めなきゃならない。税金が払えなかったら市民権をはく奪されて、その瞬間に人間としての権利を全て失うんだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。人間としての権利をはく奪って――そんなの、どこのだれに決定する権利があるんですか」

「それが、あるんだよ。ニューアトランティスには――いや、ソフィストにはね。彼らが造ったシティで暮らしていくには、彼らが創った法に従わなければならない。そうでなければ、やつらは容赦なく市民を切り捨ててプラントに送り込むんだよ」

「その、プラントっていうのに送られるとどうなるんですか?」

「聞いた話だと、一生死ぬまで、死ぬような労働をやらされ続けるらしいよ」

 チヒロが答えた。彼女にしてはとても厳めしい表情だった。

「そんな……そんなのって絶対におかしいじゃないですか! 何でみんなソフィストの言うことなんて聞いてるんですか? あんなやつらの言うこと聞く必要ないですよ!」

「……」

「……」


 ローレンシアがそう言うと、二人は黙ってしまった。


「そうできれば、誰だってそうしたいんだけれどね」


 先に口を開いたのはセドリックだった。彼はとても濃い諦観を浮かべていた。


「しかし、それは無理なんだよ。我々はシティから追い出されたら生きてはいけない。あの何もない砂漠で人が生きていくのは不可能だ。我々はどうしたって、ソフィストたちの造った籠の中からは出れないのさ」

「……そんな」

「税金も払えないような能力のない人間は存在そのものが無駄――それがやつらの考え方だ。色々と聞こえのいい建前をのたまってはいるが、やつらは文明の進歩にしか興味がない。やつらにとっては人間も資源の一つでしかないし、資源として使えないならそれはもう廃棄物でしかないと、ようはそういうことなんだろう。限りある資源を文明の進歩のために無駄なく利用する――それがやつらの考え方なんだよ」

「……そんなのに、いったい何の意味があるっていうんですか」

「うん?」

「そんなの、ただの『仕組み』じゃないですか。国っていうのは、臣民を幸せにするために、守るために存在するもののはずです。でも、ニューアトランティスはそうじゃない。それじゃあ、何だかよくわからない『仕組み』だけが、ただ止まらないためだけに動き続けてるだけじゃないですか。ソフィストは何を考えてそんなことをしているんですか」

「彼らは文明の進歩にしか興味ないんだよ。玄学(スキエンティア)の発展こそが人類の成すべき使命だと信じている。それがソフィストという連中だ」

「……やつらは、そんなものを造るために故郷(エンテレケイア)を、魔法使い(わたしたち)を、滅ぼしたっていうんですか」


 チヒロとセドリックは思わずぎょっとしていた。


 ローレンシアの怒りは尋常なものではなかった。

 それは、たかだか十歳かそこいらの女の子が浮かべるには、あまりにも過ぎた激情の塊そのものに見えた。


 一瞬、セドリックは彼女が誰だかわからなかった。それくらい、ローレンシアの放つ『殺気』みたいなものが強烈だったのだ。


 ローレンシアが本当に魔法使いなのだとセドリックが感じたのは、まさにいまこの瞬間だったかもしれない。


 現代の人間にとってはもはや御伽話の存在でしかないが、改めて考えるととんでもない人間たちだ。

 百年前とはいえ、ニューアトランティスという知の怪物と真正面から戦ったというのだから。


 二人の視線に気が付いたのか、ローレンシアははっと我に返って、


「あ、すいません。また取り乱していました……もう大丈夫です」


 と言って、ただの女の子に戻った。


 セドリックは実にわざとらしい咳をしてから、気を取り直したように言った。


「いや、失敬……ええと、ちょっとお茶でも飲むかい?」

「あ、じゃあわたしが入れる」

 腰を浮かせかけたセドリックを制して、チヒロがコンロの前に立った。

「ええと、お茶はどこだ」

「ああ、そこの戸棚の中だよ」

「……これは聞くまでもないことなんでしょうけど」


 ローレンシアが小さい声で言った。セドリックは彼女を振り返った。

 女の子はさきほどのように激情を露わにはしておらず、むしろうつむきがちだった。


「なんだい?」

「パンタシアグラマーは、今はもう存在していなんですよね?」


 頷いて良いのかセドリックは迷ったが、いずれ分かることだろうと思って頷いた。


「少なくとも史実では、そういうことになっているね」


 それは、中途半端な物言いだと彼自身でも感じるものだったが、無意識に断言を避けてしまっていた。

 だが、ローレンシアは全てを察したように頷いた。


「……そう、ですか。いえ、まぁそうでしょうね。普通に考えて、敵であるパンタシアグラマーを生かしておくはずがありません。一人でも生きていたら、やつらにとってはかなりの脅威になるでしょうから」

「……」


 項垂れる彼女を見て、セドリックはやはりいくつかの言葉を飲み込んだ。

 魔法使いたちは〝魔女狩り〟と呼ばれる殲滅戦で徹底して大陸から排除されたと言われている。


 ようは皆殺し、ということだろう。それがどれだけ狂った状況だったのか、戦争というものを肌で知らないセドリックには想像することしかできない。


 それに、全ての魔法使いがただ殺されただけとは、玄学者というものをよく知っている現代のセドリックだからこそ、それはあり得ないことだと思っていた。


 戦後統治に影響がない範囲で、それがどれくらいの規模かはわからないが、魔法使いたちを捕獲していたということは十分に考えられる。もちろん目的は研究のためである。


 ローレンシアはとても聡い子供だ。彼女がこれからもこの世界で生きていくことになるのなら、いずれそれを知ることになるだろう。

 いくら彼女が知ることを望んだとはいえ、歴史はあまりにも残酷だった。


「……これはわたしの勝手な見解だが」


 気が付くと、セドリックは口を開いていた。なぜか分からないが、言わなければならないと感じたのだ。


 ローレンシアは顔を上げた。心に大きな傷を負わされたはずの女の子は、しかしこれだけのことを聞かされてなお、その小さな双眸の中に灯を宿していた。

 弱弱しいが、消えてない。


 それは多分、嵐の中でも消えない灯だ。そう感じたからこそ、セドリックは言葉をつづけた。


「君が何らかの力によって時間を超えて現代にやってきたことには、きっと意味があるんだと思う」

「意味、ですか?」

「ああ。運命、とも言えるかもしれないね。そうでなければ、こんな不合理な現象は起こりえないと思うんだ。物理法則は世界の意思だ。その世界の意思を超えた何かが、君をこの時代へ呼んだのかもしれない。時間の流れが狂うことは絶対にあり得ない。あり得ないが――しかし、これもまた、我々の知らないもっと大きな流れの現れであるという可能性もある。非玄学スキエンティア的な考え方だが――って、君はもともと魔法使いパンタシアグラマーだったね」


 セドリックは自分の言葉に苦笑いしていた。


「……意味」


 ローレンシアはその言葉を反芻するようにつぶやいた。

 やがて、ヤカンがお茶の時間を告げた。


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