第二章
シティの中央部からは外れた、スラムの一角。
そこは低所得者層が最後に行きつく、シティの中では最底辺の場所だった。
そこで人々が住んでいるのは家と呼べるような立派なものではなかった。
どこを見て回ってもスクラップを積み上げて造ったような、いびつで不細工な構造物しか見当たらない。
衛生環境も決してよくない。シティの衛生基準からすれば、ここはおおよそ人の住む場所ではない。そもそも正式な居住区としてシティからは認められていない区画だ。
しかしながら、こうした『存在するはずなのに存在しないことになっている区画』は、実はかなり多い。それだけ低所得者層が増えているということなのだろうが、シティの中央部はむしろ立派になっていくのだから矛盾した話だろう。
「おーい、先生」
セドリックの耳に聞き慣れた声が届いた。
患者もとくにいないので、彼は建物の前をボロい箒で掃除しているころだった。
手を止めて顔を上げると、近づいてきたのはチヒロだった。
「ああ、チヒロくんか。このところよく来てくれるね」
「あー、うんまぁ。あの子の様子はどうかなと思って」
「ローレンシアくんかい? 彼女なら――」
そう言いかけたところへ、ぬっと白い塊が姿を現した。
ローレンシアだった。
彼女は胸に大きな籠を抱いていおり、そこにシーツが山と積まれて彼女の姿を隠していた。ぱっと見では動く白い塊にしか見えなかった。
「あれ? セドリックさん、どなたか来たんですか?」
「ああ、ローレンシアくん。チヒロくんだよ」
よいしょ、とローレンシアは籠を置いた。地面に置いても、そのシーツの山はやはり彼女よりも高い。
「これはどうもです、チヒロさん」
シーツの山の影からひょっこり姿を現した小さな女の子は、もうすっかり元気そうに見えた。
彼女がいま着ている服は、最初に着ていたあのふりふりの服ではなくなっていた。
あれに比べれば随分と粗末な服にはなっていたが、このスラムで暮らしていくにはそれくらいが目立たなくてちょうどよかった。
ローレンシアが思っていたよりも元気そうにしている姿はチヒロにとって喜ばしいことではあったが、それよりも彼女は目の前のあることが気になった。
「あ、ああ、うん、元気そうでよかったよローレンシア」
「はい、先生とチヒロさんのおかげでこの通りです」
「うんまぁ、元気になったのはすごい良いことだとは思うんだけど……それは?」
「これですか? シーツを洗濯したので、これから干すところです」
「え、これ濡れてるやつ?」
「はい、そうですけど?」
チヒロは目を白黒させた。目の前のシーツの山は、とてもローレンシアの細腕で持ち上がるような重量には見えなかったのだ。しかも洗い立てらしく、水分をたっぷりとふくんでいる。
試しにチヒロはそれを持ち上げてみたが、いつも外仕事で鍛えられているはずの彼女の腕っぷしでも、持ち上げるのにはけっこう力む必要があった。
「……」
そっと下ろして、改めてローレンシアを見た。
「なにか?」
「いや、もっかい持ち上げて見せてくれる?」
「はあ、いいですけど」
小首を傾げながら、ローレンシアはそれをひょいっと軽く持ち上げた。
「……う、嘘でしょ。こんな小さな子に力で負けた……」
チヒロは思わずショックで項垂れてしまった。
彼女は女だてらに鍛えられた身体を持っていた。周囲の男どもからはまるで女扱いされないほどの腕っぷしがあり、本人はむしろそれを自慢に思っていたのだが、ローレンシアの腕力はそれ以上だったのだ。
「ま、まぁ、ローレンシアくんはパンタシアグラマーということらしいからね。普通の人間とは比べてはいけないんだと思うよ、わたしは」
セドリックが気を使ってそう言ったが、チヒロはどこか納得いかなかった。
「うぐぐ……パンタシアグラマーってのは、みんなそんなに力持ちなわけ?」
「いえ、みんなというわけでは。わたしの場合は、なんでか昔から腕力ばっかり強くて。パンタシアグラムは全然ダメなんですけど」
「その腕力こそがパンタシアグラムなんじゃないのかい?」
セドリックもそこまで詳しいわけではないので、魔法がいかにすごい力だったのかは漠然と想像しただけの印象しか持たない。
しかし、ニューアトランティスと正面から戦争をしたというのだから、きっと常人では及びもつかないくらい強力で、物理法則的に見てとても不条理なものなのだろう、というのは漠然と想像できた。
ローレンシアくらいの女の子が自分の倍以上ありそうな質量を軽々と持ち上げてみせるのは、この二人には十分に不条理なことだったが、彼女は頭をふった。
「いえ、わたしの力など些細なものです。みんなもっとすごかったですよ。〝あれ〟にだって負けないくらいで――」
そこまで言いかけて、彼女の脳裏にあの時の光景がフラッシュバックした。
「……」
思わず黙り込んでしまった彼女を見て、二人は心配そうに顔を見合わせた。
やはり、まだ完全に立ち直ったわけではないらしい。
それはそうだろう。現状がどういう理屈によるものかは別にして、この女の子はある日突然、自分がまったく知らない、しかも誰も自分のことを知らない場所に放り込まれたのだ。ショックを受けるのも無理からぬことである。
チヒロはこういう時、どう声をかけるのが正解なのか、いまいちわからない。
しかし、あれこれ悩むより先に声を出して手を動かしたほうがいいと、すぐに開き直るのがチヒロのやり方だった。
「大丈夫!」
ローレンシアの肩に手を置いて、でかい声で言った。
顔を上げたローレンシアに向かって白い歯を見せた。日焼けした彼女が笑うと、白い歯がよく目立った。
何がどう大丈夫なのか、チヒロにもわかっていないだろう。それでも彼女は溢れる自信を持ってもう一度言った。
「大丈夫だって! ね!?」
「……」
何だかよくわからない励まし方だったが、ローレンシアにはチヒロが伝えようとした『何か』が、ちゃんと届いたらしい。
「……そう、ですね。はい、きっと大丈夫です!」
そう言って彼女が浮かべた笑顔は、歳相応の女の子の笑顔だったが――それを見ていたセドリックは、
「……」
と、やはり心配そうな顔つきのままだった。
それに気が付いたのか、ローレンシアはセドリックを振り返った。
「大丈夫ですよ、セドリックさん。確かに、まだ自分の置かれた状況がどうなっているのか、それは全然わかってないですけど……でも、わたしに今できることがあるなら、とりあえずそれをやることから始めていこうって、姉上ならきっとそうするだろうって、とにかく、とりあえずそう思うんです」
たどたどしかったが、言葉に込められた力は強かった。
「――」
セドリックは思わず自分を叱りつけたくなった。こんな女の子が前を向いているというのに、ずっと年上の自分が情けない顔をしているとは、いったい何事だろうか。
「……ああ、そうだね。その通りだ」
セドリックはふと不思議な感覚に捉われていた。
ローレンシアが見せてくれた眩しさが、かつては自分の心の中にも存在していたような気がするのだ。
それがいつから自分の心にあって、いつから失われてしまったのか、思い出すことはできない。
けれど、それは確かにあった。失われたものはどこへ消え、それがあったはずの場所には、いま何があるのだろう?
「それで、あの、セドリックさん……こんなにお世話になっていて、その上非常に厚かましいとは思うんですが――」
ローレンシアの言葉で、セドリックは内なる思考から戻ってきた。
「ん? なんだい?」
「その、セドリックさんはとても物知りですよね。お医者さんだし、他にもいろんなことを知ってます。いっぱいいろんなこと、とても勉強されてきたんですよね」
チヒロが同意するように頷いた。
「そうそう、先生って色々知ってるよね。あったまいいなー、っていつも思うもん」
「そうでもないさ。確かに昔は本の虫だったから、色々と本は読み漁っていたけれどね。それで、それがどうかしたのかい?」
ローレンシアは言いにくそうにしていたが、やがて決意の固そうな表情で顔を上げた。
「その、よかったらわたしにいまのこの世界の歴史を教えて欲しいんです」
「それは――」
セドリックは思わず躊躇するような素振りを見せてしまったが、彼女の強い意思が宿った瞳を見せられて、今度は同じ失敗はしなかった。
「――それは、もちろんかまわないよ。わたし程度の知識が役に立つというのなら、これまで無駄に本を読んできた甲斐もあるというものだ。しかし……君にとってはショックなことばかりだろう。それでも聞きたいのかい?」
「はい。目を閉じて耳を塞いでいたら、前に向かって歩けませんから」
「……そうか。わかった」
セドリックが頷くと、ローレンシアはぴょこりと頭を下げた。
「ありがとうございます、セドリックさん! 治療のことと言い、この恩義は必ず、王家の名に懸けてお返しします!」
「いや、別に礼を言われるようなことはしていないよ。わたしが君に教えるのは、きっと辛いことだ。それに治療のことだって、わたしは何もしちゃいないよ。礼を言うのならばチヒロくんに言うべきだ」
「え? いやいや、わたしこそ何もしてないし」
チヒロは顔の前で両手をふったが、もちろんローレンシアは彼女にも頭を下げた。
「チヒロさんも、ありがとうございます。改めてお礼を言わせてください」
「いや、だからもうわたしなんて何もしてないって! やめてよね!」
チヒロは照れるやら困惑するやらだった。人から礼を言われるのに慣れていないようだ。
「もう、とにかくそれ干すんでしょ! わたしがやるからローレンシアは休んでな!」
「いえ、これはわたしがやります!」
「病み上がりなんだから大人しくしてなさいっての!」
「子供は『大人しく』できないんです! 『大人』じゃないので!」
「どんな屁理屈だ!」
二人はぎゃーぎゃーと騒がしかったが、セドリックは別にそれを咎めようとはしなかった。
「……やれやれ、まるで姉妹みたいだな」
むしろ、その顔はどこか嬉しそうですらあった。
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