第四章
「どうだい、少しは落ち着いたかね」
ローレンシアの目の前にコップが差し出された。湯気が出ているので、なにか暖かい飲み物のようだった。
「――あ、どうもです」
受け取って反射的に礼は言ったが、やはりまだ心の一部をどこかに置き忘れてしまっている様子だ。
室内にはセドリックとチヒロがいた。
ローレンシアは再びベッドに寝かしつけられていたが、今は上半身だけ起こしていた。
「まぁ、とりあえずお互いにもう一度しっかりと自己紹介をしようか。お互いの名前も知らないんじゃ、ちゃんと話もできないからね」
セドリックは年長らしい、温和だがはっきりとした口調で言った。
「とりあえず、先ほども言ったがわたしはセドリックと言う。セドリック・フォーサイスだ。この界隈で医者の真似事をしている。それでこっちが――」
水を向けられたのでチヒロは自分で答えた。
「わたしはチヒロだよ。チヒロ・ミシネイト。チヒロでいいよ。あんたの名前は?」
「わたしの名前、ですか」
「そうそう。まさか記憶がないなんてことないよね?」
「あ、いえ、それはありません。ええと、わたしの名前はローレンシア・マジェスティックと言います」
「ま、マジェ……? 随分と変わった名前ね?」
チヒロが不思議そうに言うと、ローレンシアは半ば驚きながら心外そうに言った。
「な、何を言ってるんですか。マジェスティックの名は由緒正しいエンテレケイア王家の名ですよ? まさか知らないわけないですよね?」
「いんや、全然知らない。そのえんてれ――何とかってのも何のこと?」
「んな――ッ」
ローレンシアは一度絶句してから、
「エンテレケイアを知らないなんて、どこのド田舎ものですかあなたは! ここは欧亜大陸じゃないんですか!?」
と、怒るやら驚くやらがない交ぜになって、思わず大きな声を出してしまっていた。
しかし、そう言われたところで知らないものは知らないので、チヒロは首を傾げているしかない。
「オーア大陸……? えんてれけれけれってのも聞いたことないなぁ……?」
「エンテレケイアです!」
「えんてれけいあ……ねえ。先生、知ってる?」
チヒロが振り返ると、セドリックは腕を組んだまま黙りこくっていた。
「ん? 先生?」
もう一度話しかけて、ようやくセドリックは我に返った様子だった。
「あ、ああ、すまない」
「どうしたの?」
セドリックは困惑した様子で言った。
「いや、ちょっと驚いたというか、呆気にとられていたというか……チヒロくん、エンテレケイアってのは、昔この大陸にあった〝
「へえ、そうなんだ」
「マジェスティックっていうのも、そのエンテレケイアって国の王族の名前だよ。聞いたことないかな」
「うーん、あるような、ないような……」
チヒロはいまいちぴんときていない様子だった。
だが、チヒロのそんな呑気な反応に対して、セドリックは困惑気味の様子だった。
それもそうだろう。
エンテレケイアは百年前に消えた国である。
とっくの昔に存在しなくなった国の、しかもその王族を名乗る女の子が目の前にいるのだ。
「うーむ、これはやはり記憶が混乱して――」
セドリックは常識的な結論を求めたが、そこでふとローレンシアが何かを思い出したように言った。
「……ん、そう言えば、セドリックさんはフォーサイスという苗字なんですよね?」
「ん? あ、ああ、そうだね。それが何か?」
「いえ、もしかしてなんですけど――クレメンタインという名前の人が、家族か、もしくは親戚にいたりしませんか?」
「んな――ッ」
今度こそセドリックは心の底から驚いたといった表情を見せた。
彼が何をそんなに驚いているのか、チヒロもローレンシアもまるでわからないので、首を傾げているしかない。
「ええと、どうかしましたか?」
ローレンシアがそう聞いたが、セドリックはしばしの間、黙ったままだった。
たっぷり間を置いてから、ようやく口を開いた。
「――クレメンタインは、わたしの祖母の名前だ」
「おばあさんの名前、ですか? うーん、じゃあ違うのかな。わたしもクレメンタインという名前の人を知ってるんですけど、たまたまですかね」
「君の知ってるクレメンタインという人は、どこで何をしていた人なんだね?」
「クレメンタインは宮廷料理人でした。と言ってもまだあの時は見習いでしたけど」
「……」
「厨房の中ではまだわたしと歳が近いほうだったんで、よく話す機会がありました。まぁけっこう厨房ってのは作法にうるさいところだったんですけど、クレメンタインはわたしがこっそりつまみ食いしに行っても見逃してくれました。まぁ、あとでそれがバレて二人でいっしょに怒られたりしたんですけど」
ローレンシアは少しだけ苦笑いしながら言った。
「……」
一方で、セドリックの表情はどんどんと硬くなっていく。
信じられない……と一言、本当に心底信じられないといった表情でぽつりともらした。
「――その話、わたしが子供のころに祖母から聞かされたことがある。あれは祖母が亡くなる少し前のことだった」
病床に伏せっていた祖母が、何だかいつもと違うようにその時のセドリックには見えた。
元々から足が悪いのもあったのだろうが、晩年はほとんど寝たきりで過ごしていた。
それまで、祖母の口から昔の話を聞いたことはなかった。子供ながらにきっと聞いちゃいけないことなんだと感じて、セドリックのほうからも聞いたことはなかった。
それが、ある日になって唐突に思い出話を孫に言って聞かせてくれたのだった。
今にして思えば、あの時の祖母はすでに自分の死期を悟っていたのだろう。
懐かしそうに語る祖母の口からは、よくローレンシアという名前の女の子が出て来た。
ローレンシアというのは、その時の王――祖母にとっての今上マジェスティック・サイクロンの妹君のことだと聞かされた。
――ローレンシア様は王の妹としてとても聡明であらせられたけど、時に歳相応に振る舞われることもあったよ。厨房なんかにはよく人目を盗んではつまみ食いしに来たりしてね。まぁあとで総料理長にバレて加担した私ともども、めちゃくちゃ怒られてしまったけれど。
窓の外を眺める祖母の視界にはシティの摩天楼しか見えていなかったはずだが、その時の彼女には当時の光景がありありと見えていたに違いない。もう絶対に還ることのできない場所――眩しくて直視できないものを見るように、祖母は目を細めていた。
ニューアトランティスの話では、エンテレケイアでは人間は下等人種として扱われていたということらしいのだが、祖母の思い出話にはそんなところは一つもなかった。
結局、セドリックはこの年齢になるまで、祖母の話が真実なのかどうか、それを知る術を見つけられないまま生きてきた。
ニューアトランティスの言う〝
「――そう言えば祖母の口からも、ローレンシアという名前は聞いたことがある。君の言うクレメンタインと、わたしの祖母であるクレメンタインとは……いや、とてもすぐには信じがたいのだが、同じ人物を指している可能性がある――かもしれない」
「いやいやいや、先生? それってちょっとおかしくない?」
チヒロが当然の疑問を口にした。
「それってめっちゃくちゃ前の話でしょ? この子、どう見ても十歳かそこいらだよ?」
「それは確かにそうなんだが……しかし、わたしの祖母の話を知っている人間が他にいるとは思えない。もちろん常識的には信じられないんだが……」
「うーん、よくわかんないけど、じゃあ先生のおばあちゃんも、そのパンタシアグラマーってこと?」
「いやいや、わたしの祖母は普通の人間だよ。エンテレケイアはパンタシアグラマーが治めていた国だけど、大多数の国民は普通の人間だったはずだよ」
そこまで言ってから、セドリックはふとローレンシアの右腕にあるそれに気が付いた。
「君、その右腕は」
「え? ああ、これですか?」
ローレンシアはコップを傍らのサイドテーブルに置くと、ぐいっと袖をまくって二人に右腕を見せた。
「うお、なんかすごい」
チヒロは目を丸くしていた。
それはセドリックも同様だった。
ローレンシアの右腕には、二の腕までびっしりと紋様が刻まれていたのだ。
丸っきり意味はわからないものなのに、なぜか美しく見える不思議な紋様だ。
「これは〝
「言語、なのかいそれは? まったく見たことがないが」
「言語と言っても、人が使うための言葉ではありません。世界との対話に使うための言語――ということらしいです」
「うーん? それってどういうこと?」
「さぁ、わたしにも詳しいことは……そう言われただけなので、意味はよくわかってません」
ローレンシアは恐縮するように言った。
「……」
セドリックはその腕の紋様を見ながら、考え込むような顔になっていた。
やがて彼は重々しく口を開いた。
「右腕に刻まれし紋様……これも話に聞いた通りだ。いやはや、なんということだ。まったく信じられない。こんなことが現実に起こり得るのか……?」
「どうしたの先生? めちゃくちゃ難しい顔してるけど」
「彼女の言葉、存在そのものには矛盾が見当たらない」
「つまり?」
「つまり、彼女は事実しか話していないということだ。しかしそれを認めてしまうと、現実のほうが歪むことになってしまうんだが」
「ちょっと待ってください。いまいち話についていけないんですが……?」
ローレンシアもまた困惑した様子で言った。
というのも無理はない。ローレンシアの言うクレメンタインは二十歳かそこいらだったはずだ。それを祖母だというこの男は、見たところかなりの年齢である。むしろこの人物がおじいちゃんと言っても差し支えないように思われる。
この時、セドリックの脳裏には一つの可能性が浮上していたが、それを口にするのは躊躇われていた。
それは理論上、絶対にあり得ないはずの現象だからである。
「……確かに、君の言うとおり、昔この大陸にはエンテレケイアという国があったと歴史には記されている。パンタシアグラマーという超越人類種が存在したということも、マジェスティックという名の王がいたことも。しかしだね、それは今から百年も前のことなんだよ」
「……ひゃくねん?」
いったい何の話かとローレンシアは小首を傾げた。
説明している側のセドリックも内心では同じ気持ちだったが、自分にも言い聞かせるつもりで言葉をつづけた。
「そうだ。百年前、〝
「……」
「少なくとも、現在ではそれが史実だ。しかし君の話を聞いていると、君は百年も前のことをつい先日のことでも話すみたいに言っている。わたしが知っているクレメンタインはよぼよぼのお婆さんだが、恐らく君の知っているクレメンタインは違うだろう。しかし、君の話とわたしが聞かされた話には如何ともし難い共通点がある。ただの偶然で片付けるには……うーむ、やはりそれも難しいな。とすると、仮にだね、君が本当にわたしが祖母から聞かされたことのあるローレンシアだというのなら、これはとんでもない矛盾だ。我々が〝今〟と言ってるものと、君が〝今〟と思っているものは、百年ものズレがあることになってしまう」
「だめだ、全然話についていけない」
チヒロの頭はすでにオーバーヒートしているようだった。
セドリックは何と続けたらよいかしばし思案して、ようやく言った。
「……わたしにはまったくその理由はわからないが……君の話を真実だと受け入れるのならば、どうやら君は今、百年後の世界にいるようだ」
「……」
ローレンシアは呆けた顔をしていた。
しかしその言葉がどうやら真実らしいと、彼女はこれから段々と知りゆくこととなる。
今はまだ飲み込めていなくても、現実は恐ろしい速さで流れていて、戸惑う暇すら与えてはくれない。
時間の流れは、過去から未来にいたるまで、決して狂うことはない。
それがこの世界の真理。
〝絶対時間〟は決して過ちを認めないのだから。
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